教科学習だけではつかない国語力

国語力とされうる能力は国語という教科を学んでも少ししかつきません。その原因は国語科の内容策定に活用されている学問分野が限られたものしかないことです。もし国語力とされうる能力をカバーしようとしたら、現在の倍以上の数の専門分野を援用する必要があります。逆に言うと、その領域や側面は、良くて素人の素人考えで補われているに過ぎないのです。のみならずその領域や側面を扱いうる専門家・専門分野は国語教育から排除されている格好になってもいるわけです。

国語科の教員に2016年現在なることができる専攻は、国語教育学・日本近代文学研究・日本古典文学研究・国語学・中国文学・日本語学といったところです。

文法専攻者は国語教員になりたがらない

ところが中学校国語では橋本文法ベースの学校文法が無条件に採用されています。ということは、日本語文法を専門的に学んだ者がその能力を発揮できない、ということを意味するわけです。自分が専門的に学んだ文法の見識を捨てて、学校文法を教えることを強要されるからです。したがって、まず日本語学の専攻者が国語科教員になる可能性が、事実上ほぼ無いことになります。

ついで、国語学の専攻者の中にいる、教育における橋本文法の独占状態に不満な者が、やはり国語科教員になる可能性から遠ざけられることになります。国語学の専攻者からすれば橋本文法は数ある文法体系の一つでしかなく、それだけを排他的に教えるということが承服できないだろうからです。

したがって、国文法や日本語文法の専攻者は、国語科教員や国語科の策定にあまり入って来ないし、よしんば仮に入って来たとしても自身の専攻で得た見識を捨てることを余儀なくされる、ということになります。つまり、大学で行なわれている日本語文法・国語文法の研究はまったくといっていいほど、小中高の教育に影響を与えません。

そういうわけで、概して言えば、国文法・日本語文法の専攻者はあまり国語科教員にはなりませんし、したがって中学小学国語で教えられる学校文法は、文法に関心の無い教師によって教えられる確率がぐんと高まることになるわけです。そして国語学・日本古典文学の専攻者は小中の国語科よりは高校の古文の教師になる可能性が高まり、日本語学・日本語文法の専攻者は外国人向けの日本語教師になる可能性が高まる、というわけです。

そういうわけなので、現行の国語科を勉強したからといって、日本語文法の運用能力が高まることはおよそ期待できません。それに加えて、大学生のレポートにおいてのみ日本語文法の運用能力が低いというわけでは別になく、学者やその他の高学歴者であっても書く文章における文法運用能力が低い者は低いままであり、したがって文法能力があまり注目されない、という事情もそこにはあります。というのも文章の正確さに影響するような文法能力の低さは発覚しやすい反面、文章の読みやすさに影響するような文法能力の低さは発覚しづらいからです。さらに言えば、書く文章で能力が発覚する以前に、読む力や聞く力においてすでに差がついているかもしれなくても、それにもまた特に関心が払われていません。そもそも教育する側、教育行政を論ずる側にしてすでに「日本語文法の運用能力」という見方が存在しないと言ってよいほどなのです。それもこれも元はと言えば、専門性の高い者ほど寄り付かないように設定された中学国語の文法教育に原因があると言えます。そして、その教育内容で育った世代しかいないような状態になっているため、高学歴層や知識人層であっても、日本語文法の運用能力という観点自体をそもそももたないことが多いためでもあります。

同様に、小学校英語の導入に関しても、専門家の一部を除けば大した反対もなく押し切られたのも、当然の帰結でした。それによって日本語の文法的能力が低下するという見方自体がほとんど無いのですから反対のしようがないわけです。

言語運用の専攻者は国語教員にほとんどなれない

言語学の専攻者は英語科教員にはなれても国語科教員にはなれません。また、言語理解や概念理解や言語運用や言語的コミュニケーションの専門家であるような、言語哲学(特に日常言語の哲学)や社会学・心理学等の専攻者も、公民の教員には辛うじてなれても国語科教員にはなれません。そのことによって、国語科のなかの言語理解・概念理解・言語運用・言語的コミュニケーションといった領域が、つまり言語活動の領域が、専門性の低い素人考えの支配する領域になってしまっています。

中国文学の専門家の提言は無視されている

中国文学の専攻者は国語科教員になれます。ただ、たとえば阿辻哲次のような専門家が「義務教育での漢字テストの採点基準はおかしい」ということを専門的な見地から主張しても(『漢字を楽しむ』講談社)、教育現場ではあまり相手にされていないと思います。これに限らず、中国文学の専門家が漢字教育や漢字政策について専門的見地から提言しても、行政にはあまり真剣にとり合ってもらえていないのが現実です。そういうわけで、中国文学の専攻者のなかで「漢字のトメだのハネだので減点するのはおかしい」と思う者は、小中の国語科教員を避けて、高校の漢文教員(の職がある限りはそれ)を志望するのではないかと思われます。なお、テレビ朝日のクイズ番組においては、漢字表記の正誤判定に関して書き取りテストのような減点はほとんど見られません。したがって、テレビ朝日は局単位で中国文学の専門家の見解を取り入れているように見受けられます。

「説明文」の読解は素人レベル

国語科で学習する内容の一つに「説明文の読解」があります。ですが、この内容は素人レベルであることがわかります。

まず、以上見てきたように、説明文というのはそのジャンルの専攻者が教えるわけではありません。たとえば、生命科学の説明文なら生命科学の専攻者が教えるわけではありませんし、国際関係論の説明文なら国際関係論の専攻者が教えるわけではありません。したがって、説明文の学習によって、内容上の知識が増えたり、内容上の真偽を検討できるようになるわけでは、何らありません。

では、説明文を素材にして日本語の読解の訓練がされるのかと言えば、それも期待外れに終わります。まず国語科の教員に文法の専攻者はあまりなりたがらないのでした。したがって、文法的な読解の技法を体系的に教える時間にはなりません。次に、論理学や日常言語の論理を多少勉強したであろう言語哲学の専攻者も国語科教員にはなれないのでした。ということは、論理学的な読解や検討を体系的に教える時間にもならないのです。のみならず、言語理解に関して一定の知見を有する言語哲学や言語学・心理学などの専攻者も国語科教員になれません。したがって、概念理解や文章理解についての基本的な知見すらもたない国語科教員によって説明文の授業が担当されることになります。ただ、教材や入試問題を作成する側もおおむね似たような状態にあるため、教える側の専門性の無さが問題化しないというだけの事なのです。

国語という教科設定のマジック

国語科という教科の問題性は、学問上の専門性をまるで無視してきわめて広範囲のことをむりやり扱っていることにあります。

大まかに言って、国語科教員になる者は、日本(近代)文学の専攻者が中心になるはずです。少なくともセンター試験の「小説」が読解・解説できる者ということになります。また、国語科教員になる者は、現代の日本語にも増して、文語文や漢文・古文に自信のある者になりがちと言えます。古文も文語文もできず現代日本語だけわかるという状態では、国語科教員にはまずなれないからです。

小説の解説ができて、文語文や古文や漢文もできる、という人々が言わば国語科教員の有資格者です。橋本文法を受け入れることも必要です。そして、このような層の人々を国語科教員として確保しておいたうえで、「人々が国語力だと思うあらゆるもの」を教えることを彼らに要求してきたのが、従来の国語科でした。したがって、多くの事項や側面が素人考えでしかないものになっていました。そのことに国語科の外部からのチェックも少ししか入りませんでした。他方、「国語科の外部」にいる人々は、高校生までをどうにかすることがかなわないので、大学初年度の学生に対して可能な教育をほどこすことに専心してきました。

今後

2016年に国語科を含む科目の大改革の予定が文科省によって公表されています。いっけん事態の一部は改善したように見えます。ですが、今回の改革は、「国立大学の文系学部の衰退化」と「小学校英語の強行」とに連動していることに注意です。カリキュラムや教材を策定する人々の専門性が疑わしくなってしまうことに注意が必要です。で、今後さしあたり、「橋本文法と英文法とを直結させたような文法」の導入が予想できます。それと、米国式のパラグラフライティングの日本語版の強行は、すでに一部現実化しているので、今後も注視が必要です。