教科学習だけではつかない国語力

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表題の解説

「国語力」という語彙は、やむをえず使われている語彙である場合が多い。他にもっと良い語彙が在ればそちらに乗り換えたいのだが、良い語彙が特に無いので、結局使う羽目になるという語である。特に文章の表題や見出しで話題を示すときに使う語彙になりやすくなる。比較して、たとえば「日本語力」という語彙を用いると、同一人物の「英語力」等に比較しての日本語の能力という含意や、「外国人が外国語として学ぶ」日本語という含意になりやすいので、言いたいことを伝える語彙にはなりにくいわけだ。少なくとも文章の表題や大見出しに使いやすいとは言えないだろう。或いは「言語力」だと複数の言語を自在に操る能力のように受け取られてしまうかもしれないので、やはり良くない。或いはまた、「母語力」だと「日本語を母語とする人の日本語力や英語を母語とする人の英語力や…といったもの全般」となってしまい、これも言いたいことと異なってしまう。

現在のところ「国語力」と「日本語力」との、実際に通用している区別の候補として有力なのは、次のようなものだろう。「国語力」が「教科学習、特に国語科以外の学力にあらわれる能力」として主に「文字の日本語の運用」に関するものであるのに対して、「日本語力」は主に「日常生活で用いる諸能力の一つ」として、「運動神経」とか「音感」などと並列のカテゴリーとしての、おもに「音声の聞き取りや発話能力・会話能力」に関するものである。つまりたとえば「授業での同音異義語」が聞き取れるかどうかに関しては、「そもそもその漢字を知らないから聞き取れない」場合なら「国語力」(の不足と定式化され)、「漢字力や語彙力は在っても別の事情で聞き取ることがなお困難である」場合なら「日本語力」(の不足として定式化される)と判断するのが良いように、私には感じられる。

さてこのタイトル「教科学習だけではつかない国語力」だが、よく読むと同語反復的であり冗長である。というのも「国語力」という語彙を使いたくなる場面というのは、上記の記述で提示したように、国語以外の教科での出来ぐあいに言及する場合であることが多いはずだからだ。たとえば「英語」だけ勉強してもつかない、英文和訳や英文の要約課題の日本語にあらわれる「国語力」、「数学」だけ勉強してもつかない、文章題の読解や記述式の答案における「国語力」といった具合にだ。大学生のレポート課題における「国語力」という言い方が不自然ではないのも、想定されているのが「国語学」「日本文学研究」「国語教育学」以外の領域でのレポートが多数派であるから、という事情も在る。ともあれ、そこでは、「他教科」での課題を行なう際にあらわになるものや、或いは不全が感じられてしまうものに対して、教科名としての「国語」という語を借りて「国語力」と呼んでいるのだ。だから「教科学習だけではつかない国語力」というのは、その定義の延長上に在る表現でしかない、と思えるだろう。だが、筆者がこのページを最初に書いたときに想定していた意図は、それも在るが、しかしそれだけではなかった。

筆者が意図していたものには、「国語という教科をいくら勉強しても国語という教科の学力は充分つきません」というメッセージも含まれていた。「他教科での遂行にあらわれてしまう国語力」の育成をも国語科やその教員が自身の課題として引き受けてしまえば、これは容易に起こりうることである。そのおおもとにあるのは、文章というものは形式と内容とをもつわけだが、しかしその二つが截然と分離できない場合や或いは分離することに実効性が無い場合が多々在ることである。そして「形式と内容」の両方ともがその国語力の対象、国語教育の対象である、というふうに、文科省も学校教員も民間の「国語力ビジネス」の関係者も、大ぶろしきを広げがちなことである。そのことに因って、求められている「国語力」が文章上の「内容」面の側に近づくにつれて「国語という教科をいくら勉強しても国語という教科の学力は充分つきません」という結果を産みやすくもなる、というわけなのだ。国語科で取り扱う文章が日本文学作品およびそれへの鑑賞や読解や評論に関する文章に限定されているうちは、その事態は問題にならなかった。というのも、そういう文章であれば、「形式」も「内容」も国語教員の専門性の範囲内だからだ。だが、それ以外の「ありとあらゆる日本語の文章」を国語教育の取り扱いうる対象にしてしまえば、「内容」に関してはそうはいかなくなる。この点は後述する。で、話を元に戻す。

さてそれと同時に、筆者は次のようなメッセージも含めておきたい。「国語という教科では、国語という教科を学んだことによってつくような能力しか、試験や課題の設問やその採点でチェックしたりしません。だから国語という教科をいくら勉強しても国語という教科の学力は不充分にしかつかない、という状況は発覚しません」、これである。実際には、国語という教科の試験問題などで試されているのは「国語という教科を学んだことによってつく能力」だけではない場合が在る、と私には見える。たとえば、国語教員になる資格をもてない他分野学術研究者の書いた文章が出題される高校入試現代文の読解などだ。だが、その事態は「設問を作るのも模範解答を作るのも採点するのもまた、国語教師である」事態によって無化され、不問にふされる。そこでは、国語科教員が自分自身でできる・わかると見なしているものだけが相手にされ、そうでないものはあまり扱われない、だから、国語という教科の学力は「自作自演」によって成立していた、というわけだ。「国語という教科だけでは国語力と呼ばれうる能力は充分にはつかないのだが、つまりたとえば国語科教員になることができないような専門分野の専攻者が書いた文章を国語という教科を学んだだけの者は充分には理解・読解できないのだが、しかしそのことは入試制度・学校制度のなかではまず顕在化しないのだ。なぜなら自作自演だからだ」このことをも私は伝えたいメッセージとして、含めておきたい。

とりわけこの「自作自演」が露呈しない今一つの理由が存在するのが「大学入試の現代文」である。ここに在る事情は「どういう専門家が出題しているか」が一切不明である、というものだ。しかし出題している側が「高校までの教育機関で国語科教員になる資格の在る分野」の専門家である場合は、センター試験と違って、きっとさほど多くないに違いない。だから、普通に考えれば、「出題側が正解だと見なしているもの」と「予備校や高校の国語教員が正解だと見なしているもの」とが一致している保証が無い場合もまた多くの局面で在ると見て良いはずだ。だがそこに食い違いが在ってもまず絶対顕在化しない。その理由は「誰が出題者であるか」自体を入試というものの性格上秘匿しなければならないから、というものだ。というのも、假に終わってしまった分の入試にせよ、その出題者を公表してしまえば、「来年の出題者がどこの何者になるのか」の見当がつきやすくなってしまう、なので、既に終了している入試に関してもまた、出題者の属性などは公表できない、とそのようになっているわけだ。この事情が、「大学入試現代文の自作自演」性を増幅させることにもなっている。つまり、出題側と、それを生徒に解説し教育する側との知的バックボーン・専門性の違いが在るという状況を顕在化させないことにもなっている。尤もこれは大学入試にのみ言える話ではある。とは言え、「大学入試でよくできるようになること」が教科学習の終局的な目的とされ、そこからトップダウン式に「小中高のうちにできるようになっておくべき内容」を国語教師に規定されることも少なくないのだから、この点が与える影響は決して小さくないのだ。

「表題の解説」というこの節の内容を乱暴にまとめると「教科学習だけでは、国語という教科でのそれも含めた国語力がつくとは限らないが、しかしそのことは現在の教育制度や入試制度のなかでは顕在化しない」となる。その国語力を「形式」面と「内容」面とに分けた場合、主につかないのは「内容」面となる。だが、次の節ではごく簡単に、「形式」面ですら充分には国語力がつかないのだ、ということを先に述べる。

「形式面での国語力」すら充分にはつかない国語という教科

音声での授業という形態を教育の中心に据えている限りは、特に形式面での国語力はあまりつかない、という主張はすでに「授業なんかに出ているから<国語力>がつかないのだ」で述べた。今回述べるのはその観点からの主張ではない。ただしこの文章の中の一部は、少し違った角度からこの箇所でも言及・後述する。

さて節の内容を概括的にまず提示する。国語科教師には、日本語文法の専攻者は概してなりたがらない。また、国語科では漢字の専門家の見解も概して敬遠されている。したがって、国語科の勉強をすることによってつく日本語文法の運用能力や漢字力には一定の限界が在るはずだ、これである。漢字の専門家の見解が敬遠されているという点は「「由来」「伝統」を根拠にした立論と「現況」を根拠にした立論とのそれぞれのリスク:義務教育における漢字学習に関して」で或る程度述べた。なので次には、国語科における、日本語文法の専門性の欠如について簡単に述べる。

義務教育での国語科教育では、いわゆる「学校文法」と呼ばれるものが「正解」として教え込まれることになっている。学校文法とは、国語学における橋本文法をベースにしたものであるらしい(「「学校文法 - Wikipedia」」)。これが「正解」として旧文部省・文科省に規定され提示されてしまっているがために、或る程度以降の時代の大学院教育によって「現代の日本語文法」を学習し専攻してしまった者には、「それを教えよと、もし命じられるのならば、国語科教員にはなりたくない」とでも言いたくなる状況が生まれている。その際争点になりうるのは、「主語」概念、「文節」概念、「形容動詞」概念、あたりの扱いだろう。ただそれらにとどまらず、或る程度近年の、研究者なら誰でも皆知っているような知見をも、学校教育で教えることもおそらくほとんど許容されていないこととなった。その大きな一因は、文科省が「現代日本語の文法」を国民に教えることに関心が全く無く、関心が在るのは、義務教育しか受けていない者(中卒学歴の者)であっても事後に社会人になってからの段階で古典文法を学習し古文を鑑賞しやすくするように心がける、そのための準備期間になるように中学校のカリキュラムを設定することばかりであることでもあろう。と同時に、義務教育で教えて可い文法を旧文部省・文科省が統制することによって、学校の国語科教員のなかに「文法を主として研究してきた者」が全体的に減るような状態をも作り出すことに成功したわけだ。

この事態を、より一層後押ししてしまっている要因が、大学での研究環境のほうにもある。私が今しがた述べたことからも推察できるように、実を言うと、現代日本語の文法を研究するという環境は、いわゆる「四年制大学」のなかからは着実に「駆逐」されてきているのだ。著名な研究者のほとんどが、大学外の研究機関か、または大学内の場合は「留学生センター」のような教育施設かまたは学部に授業をもたないような大学院に所属していることからも、それがわかる。たとえば私の編集した「高校生のための有名著者情報:言語学・哲学・科学史」などを参照してほしい。つまり「学部教育」のなかでは「現代日本語の文法」の研究成果に基づく知見が「著名な研究者」によって学生に伝えられるという機会は極めて乏しいのだ。そのような授業が四年制大学の学部にもし開講されているとしても、授業を担当している者は有名な学者では、先ずない。これらの日本語文法研究は、主目的は日本語を外国語として習得する外国人のための文法というところに無論在るが、しかしそこにとどまらず、現代の日本語を日本人に対して説明する能力もかなり高い文法であると私は思う。つまり、現行の学校文法よりはだいぶ可能性をもっているはずだ。だがこのようにして、四年制大学の学部から文法の研究者が駆逐されている状況もかなり在って、いわゆる高学歴者であってもこのあたりの話題に総じてまったく疎い。そのことは、昨今の新井紀子氏が関与する「検定教科書が読めない生徒」の話題でも、日本語文法の専門家がこれといって関与しているように思えないが、しかしそのことに不審を表明する者があまり見当たらない、という点からもうかがえる。日本語文法がかかわるような「教科書が読めない」問題は専門家こそが論じるべきだと私は信じる。しかし現状だと専門家の参与が少なくてそのため議論の程度があまりに低そうな予感がしたので、にもかかわらずその状況を調べているひまが私に無いので、「新井紀子著『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』を補正するために必要な論点」を書くだけ書いておいた。

また補足的な論点ではあるが、現在では、「かつて国語学と呼ばれていた学問」もまた「日本語学」の名前を名乗るようになったことも挙げておきたい。この点についてはまずは前田富祺氏が2004年に公開した「国語学会から日本語学会へ」を参照してもらうと良い。このことも含めた変化に因って「当初から日本語学を名乗っていた学問」の専攻者が国語科教員になりたくないように制度設計されている事態が、あやふやにされてしまうからだ。学校文法が規範として強要してくるのは橋本文法ベースのものであり、それは「かつて国語学と呼ばれ」ていて現在だと日本語学を名乗ることも在るほうの分野に近いのだ。ただし「かつて国語学と呼ばれていた」分野の専攻者であっても、橋本文法が最上だと考えてはいない者も少なくなかろう。たとえば駿台文庫から発行された大学入試過去問集の古文解説を書いている者のなかに、そのような考えがほの見えたという個人的な記憶が在る。ただそれは正確な記憶や認識ではないので断定は避ける。もしそのような者が居るならその人物にとってもまた義務教育での学校文法の強要は、「国語科教員にはどうもなりたくない」と思わせる要因になるだろう。橋本文法は国語学における四大文法の一つにすぎないし、その後も文法研究では学問的な進展や改良が行なわれてきたはずだから、橋本文法がそのままで現在使えるものではないはずだからだ。ともかく言えるのは、義務教育での学校文法の専門性を検討したいと素人が考えたときに、「かつて国語学と呼ばれていた分野」も、「当初から日本語学を名乗っていた分野」もどちらも現在だと「日本語学」と呼ばれ紹介されることが多くなったことによって、教育カリキュラムや教員の専門性を検討しにくくなり、しかもそのような論点の存在にも気づけないようになったことである。

国語という教科で日本語文法の専門性がきちんと保たれていないことは、国語科教員自身も含めてあまり知られていない。その知られなさの原因の大きなものは、国語科教員が輩出されるような学科や専攻に、「当初から日本語学を名乗っていた学問」の専門家がほとんど不在であるという事情が在る。国語科教員自身がそのことに無自覚・無関心であることも相まって、国語科教育を論じ、また行く末を案じる際にも、この件はまったく不問にふされてきた。まず文法的な話題自体が当然出てきて良いときに登場しなかった。次にその話題が出てきて良いときにも専門家からの提言という形で出て来ないし、その出て来なさ自体にも注意が向けられなかった。現在、国語力関係の話題、特に英語力の前提としての国語力についての話題で、日本語文法の用語を好き勝手に使って何か論じたてている人のほとんどは素人である。その中には英語学の専門家も含まれる。英語については専門家だが日本語文法は素人であるわけだ。ともあれ日本語文法に専門家が存在するものだとすら思われていないのである。事態は相当にひどい。そのような状況も在って、日本の学歴エリートである、高偏差値大学の医学部・工学部・法学部・経済学部等の出身者にももちろんこの件は、見向きもされてこなかったし、知の動向に一般的には敏感になりやすいはずの東大の後期教養学部の出身者や、或いはまた教育問題を知的に扱うことになじんでいるはずの東大教育学部出身者にも概して気にされて来なかった。そもそも日本語文法が専門性の高い話題であるとも思われていないし、そのような専門家がきちんと存在はしていることも気にされて来なかった。国語科教育での専門性の低さはそれらのさまざまな要因の結果として産み出されたものだ。ただ、もし東大の教育学部にだけでもきちんとした国語教育学の講座が存在してさえいれば、或る程度は今よりましだったのかもしれない。その状態からの単独の影響も無論重要だが、それに加えて、しかるべき国語教育学の講座が在るという事実がもし成立していたならば、それは東大出身者の多くの者の意識に残るからだ。(余談だがこれは東大の進学振り分けという劣悪な制度の、思わぬメリットである。東大を文科三類・理科一類・理科二類経由で卒業した者とあと、他類から傍系進学で卒業した者というのは、「東大に配置されている学問の全分野を一度は鳥瞰したことが在るはずだ」ということが期待できる点で、東大の他類・他学部や他大学の出身者と区別して扱って良いということを意味するからだ。そのメリットがこの件にはまったく寄与していない、という指摘であるわけだ)。

この節の最後に少し述べておくのだが、「国語という教科が日本語文法の専門家を事実上排除している」ことによって、潜在していたどのような問題が、より一層対策困難になってしまうはずかを、既出の記事から一例を挙げてみたい。それは「断定しない常体文」を産出することの難しさ、という問題の等閑視である。「授業なんかに出ているから<国語力>がつかないのだ」ではその問題を「音声での授業ばかりで日本語体験が占められていること」が原因であると述べた。

ここで一段落追加する(2020.01.01)。きわめて重要な論点だ。その論点というのは、日本語文章における「断定的でない」文字文章の産出にかかわる問題である。これは、産出された文章を読む側にとっては「文法」的な問題だが、文章を書く側にとっては「文体」の問題である。というのは、「文体」を左右する語要素の産出の時点で同時に「課題」になることが多い問題だからだ。そういうわけで、この箇所に追加する。さて、大学生の提出文書を評価する側がしばしば重視する基準の一つに「事実と意見とを区別せよ」というものがあり、これは実質的には「断定してはならない箇所を断定してはならない」というものにほかならないことをかつて筆者は述べた(「野矢茂樹『大人のための国語ゼミ』に「ちょっと待った!」をかけてみる:二つの半側評価語の鬩ぎ合い:「事実」と「考える」」)。ところがその「非断定の文章」のお手本というものが、音声での授業では必ずしも充分に経験できないのである。音声での授業だと、その非断定はほとんどが「敬体文」だろうからだ。だから「常体文での非断定」のお手本は、文字で書かれた文章を読むことによってしか、ほとんど身につかない。またそもそも授業では、「正しい内容」が伝達されることが多いはずなので、「非断定」ではなくむしろ「断定」しなくてはならない場合が多い。明らかに正しい内容を「これは個人的な意見にすぎませんから」「これは推察ですが」などと生徒に教えてはならないのだ。その意味で「内容」面から言っても、音声での授業だけいくら聴いていても、「非断定の常体文」の書き方はなかなかわからない。またその文章を産出する際に文法的な困難も感じやすい。特に「読みやすい文章を書け」と言われている際に感じやすい。読みやすくもあり、文法的な瑕疵も無く、なおかつそれでいて「非断定」である文章を常体文で産出する、というのはおそらく充分に困難な課題になる者が多いはずだ。そこに「いわゆる話しことば」が混入してきやすくもなるだろう。「いわゆる話しことば」には、「上手な非断定」のエッセンスがいろいろと詰まっているはずだからだ。そういうわけで、大学生が「常体文」で、かつ「事実と意見とを区別して」書こうとしたときに、いちばん困るだろう局面が「断定してはいけない文章を常体文で述べる」ものなのだ。そのことは事前に想定可能な事柄であるはずだ。そのためにも、「音声での授業だけいくら受けていても、日本語文字での提出文章は書けるようになかなかならない」というふうに強調されている必要がある。以上でこの追加は終わる。

だが、この問題は音声での授業そのものが原因であるだけでなく、文字での教材でも特に取り扱われ注目されることが無い、その、教育関係者による注目のされなさ自体もまた大きな一因である。そこに在るのは、「事実と意見とを述べ方として区別せよ」という規範が、「大学生のレポート課題」という局面でのものであるため、小中高の教育にはあまり影響を与えていないという事情である。この件に関して筆者が想到しているのは

といった主張群になる。ただしまだきちんと検討したわけではない。特に最後の項目は今突然思いついたものだ。ともかく言えるのは、「推察」や「私見」というものを会話調の語要素を一切含まずに常体文で述べて、しかもそれがさほど読みづらくならないようにする、というのは大変に難しい文章技術のはずだ、ということである。

内容面での国語力の要その1:「相手はこちらに教えを乞うているのではなくこちらを試しているのだという理解」

国語と云う教科の学力にせよ、「国語科以外」での「国語力と呼ばれがちなもの」にせよ、その中心に在るのは、「相手の問いに答えかつ問いの意図に応える」こと、「出題者の出題意図を理解しそれに沿う」ことである。数学や物理のように正解が決まっているものだと「出題意図を見抜くことで正解を導き出す」というふうにはあまりならないと思うが、現行の国語科や国語力の場合は、そうなるに決まっている。この点が、「国語という教科だけ勉強してもなかなか国語科の学力がつかない」「国語という教科だけ勉強しても国語力と呼ばれがちな能力ならなおさらつかない」ことの背景に在る。そして、国語科教員や、とりわけ教科横断的な学力・国語力全般を測定しようとする人がそのことに、わりとあっけらかんと無自覚であることが後押ししている。

学力の測定場面において「出題者の意図を理解すること」の重要性をこれまで提示してきたのは、むしろ、「正解がはっきり決まっている」はずの数学や論理学の領域でのそれであった。これらは教育心理学周辺の研究者や有識者には或る程度常識だと思う。或いは、社会学やコミュニケーションの哲学での「double contingency」(Google検索:ダブルコンテンジェンシー 例)の議論やそれに似たものになじんでいる有識者なら、あまり意外性を感じることも無く同意すると思う。しかし彼らは高校教員になろうとしても、せいぜい良くて公民とか倫理とか情報科の教員にしか制度上なることができず、それだと国語科での教育内容には影響を全く与えない。なので、国語科教員にはこれらの見解が知られていない公算が高い。そういうわけで、ここで紹介的に少し述べてみる。

出題者の出題意図を理解していることが決定的に重要になるのは、「当たり前のことがわかっているかどうかを試す易しい課題」においてである。その点について、教育心理学者の塚野弘明が、「文化的実践としての実験場面の組織化」(2001)(上野直樹『状況のインターフェース』金子書房、出版社サイト)で述べた内容が、もう少し世間で知られても良い。「論理的推論」についての話題と「ピアジェの保存課題」についての話題が提示されているが、後者だけなら、佐伯・佐々木『新装版 アクティブ・マインド 人間は動きのなかで考える』(2013、東京大学出版会 出版社サイト)に収録の「推論と活動の文脈」でもたぶん良い。なお算数・数学教育の領域の人にも、ピアジェの理論や知見を当然視する人が多いようなので、そういう領域のかたもぜひ見ておいてほしい。ここでは、議論の細部は省略して、結論的に述べている箇所を引用してみる。

ピアジェの保存課題に関しては、次の箇所だと結論的主張がわかりやすいだろう。p80-81。

このような視点に立って実験場面を見つめてみると、プラット[Pratt,1988]の研究は、子どもが標準的保存課題に正答するようになるということと、実験者と被験者という成員カテゴリーを相互行為をとおして達成することが密接にかかわっていることを示唆している。

彼女は、標準的な量の保存課題を経験済みの子どもに、課題の手続きについて「次は何をやったの」という程度の促しで、一般的な記述を自由に行わせたり、実験材料の形や大きさ、実験者の行った操作や質問内容からその目的にいたるまで、課題状況のさまざまな局面について具体的な質問を行い、標準的保存課題で正答する子どもと誤答する子どもを比較した。

その結果、実験材料や操作についての記憶や記述に、正答者と誤答者のあいだで違いはなかったが、変形操作や実験者の質問の目的の捉え方に、大きな違いが見られた。すなわち、誤答者は、変形操作の目的を「量をいっぱいにするため」、実験者の質問の目的を、「どっちがいっぱいあるかを知るため」と解釈するなど、あくまで量自体のことを聞いていると捉えていたのに対して、正答者は、「同じ量あることを僕が知っているかどうかを調べるため」とか「僕が頭がいいかどうか調べるため」というふうに自分の能力を試したり、知識をもっているかどうかを調べるためであると捉えていたのである。

このような結果は、正答者が実験者を正解を知っていて相手の能力を試す「実験者」、自分を能力が試されている「被験者」として認識していること、一方、誤答者は実験者をたんに知らないことを尋ねている「質問者」、自分を「聞き手」と認識していることがわかる。正答者は、自分が試されているという構えがあるので、変形操作を行ったあとで、知っているはずのことをあえてもう一度聞かれても、実験者の「確認」「揺さぶり」などと捉え、無視することができる。一方、誤答者は、つねに量自体のことが聞かれていると思っているから、知っているはずのことをあえてもう一度聞くはずはないから未知情報を提供しようとするのだと思われる。

こう考えると、非保存児にとって実験者と自分との関係は、文字どおりの「実験者」と「被験者」ではなかったことになる。これらの子どもにとって、実験者は、クペレ族の長老がそうだったように、たんに自分の知らないことを純粋に尋ねている人物であり、自分はそれに答える相談者ないしは日常会話の対話者であったのかもしれない。こうしたことは、この年齢の子どもが、大人が試すために行っている質問に対し、しばしば「大人なのにそんなことも知らないの」と真顔で聞き返してくることがあることからも裏づけられる。その意味では、実験者と非保存児は、まったく相異なる相互行為を達成していることになるが、そのことが非保存児に見えるようにはなっておらず、一方、実験者には「能力欠如」の標識と捉えられるために、そのギャップは最後まで修復されることがないのである。

論理的推論に関しては、次の箇所が結論的主張がわかりやすいだろう。p78-80。

コールとスクリブナー[Cole&Scribner,1974]は、リベリアに住むクペレ族の人々に、次のような論理的推論を必要とする課題を出した。

……蜘蛛と黒鹿はいつも一緒に食事をします。今、蜘蛛が食事をしています。では、黒鹿は食事をしていますか。

(中略)

このような事例から浮かび上がってくることは、彼らはつねに現実世界で起こっていることを「前提」にし、そうした事実の中でいかにも起こりそうなことを予想しようとするとき、はじめてその場を「課題」としてみなし、推論の対象としていることがわかる。したがって、問題の前提がすべて閉じたその問題の中だけに通用する仮想的なもので、事実や自分の信念とくいちがっていても認めなければならないとか、質問者は答えを知っていて、まさか自分たちの「能力」を「試す」ために質問をしているなど想像もつかないに違いない。

長老はおそらく、実験者を深刻な問題をかかえて相談に訪れた人物とでも思ったのであろう。そうだとすれば推論問題であることなど思ってもみないだろうし、根拠のないいいかげんなことを言って相談者を困らせることがないように注意をはらうに違いない。このことを実感するには、この課題をわれわれの身近な出来事にアレンジしてみるのがよい。

恵美と香織はいつも一緒にお昼を食べている。きょうは恵美が独りで食べているようだった。香織は一緒にお昼を食べていないんだろうか。

こんなふうに相談をもちかけられたとしたら、われわれでもまさか論理的推論課題だとは思わないだろうし、もし、自然にそう思う人がいたとしたら、その人は友人を失うか、頭がおかしくなったと思われるのが関の山であろう。だから、答えるとしても、おそらく、「少しのあいだ、席を離れているだけで心配の必要は無い」とか、最近の二人の仲を思い出して判断しようとするのではないだろうか。

これらの知見は大変重要なものである。特に「当たり前のことをわかっているかどうか」を試す試験や課題において重要なものである。ただ、少なくとも日本の学齢に在る子どもや青年の場合、学校での課題や紙の上での試験問題を、「出題者がその答を知らないから自分に教えを乞うて答を知ろうとしている」とまでに見なすことは、さすがにめったに無いだろう。つまり、それらでの質問が「自分の能力等を試すため」の出題や設問であることまではわかるはずだろう。だがそれがわかっている段階であっても、なお、「出題意図を理解している」という点は重要で在り続ける。それは「出題意図を理解できないと出題文の中のキーワードの語用規則が決定できない」ケースである。次の節で有名な出題2題をクローズアップして、その点を点検してみる。

なお、この節の論点と多大に共通するように思える、教育心理学者の佐伯胖が提起した議題に関する検討は、話を少し複雑にしたいと私は思うので、末尾の補論で行なう。

内容面での国語力の要その2:「出題者がどのような能力を測ろうとしているのかが理解できないと、出題文の重要語の語用規則が回答者にわからない、という出題において、出題者の意図を理解する能力」

私が他のページでも持ち出す語彙である「語用規則」である。この語彙はどちらかと言えば私の造語に近いようであるし、この語によって言わんとする内容を共有していない読者が当然多いはずなので、だからこそここで述べているくらいなので、だから少し説明する。たとえば私がここまで書いてきた文章のなかで「出題」という単語が何度か用いられたはずだ。私の意図としては、これは「出題されたもの」という事柄を意味することが多い。つまり「出題するということ」を意味しているわけではない場合がけっこう多い。「出題されたもの」を「出題」と呼んできたのは、「出題」の代わりに「問題」という語を使うことは極力避けたかったからだ。…と言うのも、「問題」という語はこれはこれでまた別の事柄を意味させるために使用したかったからである。そして実際に別の事柄を指すために使ってもいる。「この出題にはこのような問題が在る」といった使い方であり、「出題」の同義語や言い換えとして「問題」という語を使っているわけではない。ここでの「問題」とは「出題行為や出題内容それ自体を第三者の立場から議論したり検討するべき点」くらいの意味合いである。…というような筆者の語選択の意図は、指摘されずとも気づいていた読者も多かったと思う。「『出題』って箇所を『問題』って語で述べたら、『どっちの“問題”だかわかんねーよ』ってなるもんな、わかるわかる」という感じでである。反対に今説明されるまで気づかなかったという読者も居るだろう。或いは、前節でちらっとだけ言及した「double contingency」やそれに近い議論のしかたになじみの在る人だと、「“問題”という語が二義的になってしまうと、“この問題にはこのような問題が在る。”という文意不明な文になってしまいかねないから、その種の読解トラブルを防ぐために“この出題にはこのような問題が在る。”というふうに、“出題”という語に置き換えていく必要が在る、と私なら思うし、そう思う人は他にも多いと思う。でもこの著者がそこまでの配慮をする人物かどうかは、この文章からはわからないよなあ」なんて思うかもしれない。この受け取りの可能性を常に意識しておくことが大切である。ともあれ、ここでの筆者の語用規則は「“出題”に置き換えて文意が同じなら、“出題された問題”のことは“問題”とは呼ばずに“出題”と呼ぶ」といったものである。話を戻すと、そこから言えることは「当たり前のことをわかっているかどうかを試す」ための出題の中には、このようなレベルで「出題者の依拠している語用規則」「出題文中の語彙の使用意図」が理解できないと、正解することはなかなかに難しい、というものが在るのだ。「あ、この人は“出題”という単語をあえて使用することによって、“問題”という語が二義的になることを防ごうとしているのだな、わかるわかる」といった次元での理解、或いはむしろ「あ、この人は“問題”という単語だと“出題”のことを指すのかそれとも“解決するべきトラブル”のことを指すのかわからなくなる、ということに気づいていないのだな、出題者のそのわかっていなさがわかるわかる」といったものである。それを以下有名な出題を2題分とりあげて、検討してみたい。ただし、すでに他のかたが指摘して犀利な議論を展開されている可能性も在る。もしそうである場合はご寛恕願いたい。ただ假にその場合であっても、その指摘や議論は世間に影響を与えていないことは明らかだから、ここで同種の内容を展開することは無意義ではない。

ここで検討するのは、『PISAの問題できるかな? -OECD生徒の学習到達度調査』(明石書店,2010)(amazon)またはPISA調査(読解力)の公開問題例(文部科学省)(PDF)から1題(「警察」問3)と、新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社,2018)(amazon)から2題(「同義文判定」の例題と本題の2題、これを実質的には1題相当であると見なす)である。ただし新井の著作のほうはあまり立ち入った検討をそれ自体に即してしている時間が無いしその必要もあまり無いので、出題の骨格のみの検討となる。

まずPISA学力調査の「警察:問3」を先に取り上げる。この出題には話題性が在る。話題になったのは日本の生徒の正解率の低さであり、OECD12か国での平均正解率が80.5%だったのに対して、日本の生徒の正解率が50.4%であったことだ。この出題に関してはすでに、別の記事「PISAのアホな出題 検討されない「語彙の意味」」でも検討しているが、過去のその検討ではまったく不足であると今回思ったので、今回はそれよりももう少し微細な点を扱う。併せて読んでほしい。

ただし、出題された文章全体の「著者の目的」を問う問3において提示された選択肢の「情報を伝えること」と「納得させること」の比較に関して、前回述べた次の点は今回もそのまま引き継ぎたい。

「命題Aを納得させる」ということは、つまり「命題Aが正しいという理由・証拠を伝える」ということでもあります。つまり、「納得させる」ならば「情報を伝える」の要素も含まれています。理由や証拠は情報だからです。他方、「命題Bという情報を伝える」ことなら「命題Bの詳しい説明をする」ことも含まれ得ますから、「納得させる」の要素を含まないとまでは言えません。詳しく描写すること、詳しく紹介すること、も、「納得させる」の一構成要素に入れても良さそうだからです。だから、本来ならば、「情報を伝える」と「納得させる」は、もっと迷って良いはずの二択です。

このように「情報を伝えること」と「納得させること」との間には概念的な重複が在る。つまり「納得させる」ためには「情報を伝える」ことも或る程度は必要になるはずだし、その一方で、「情報を伝える」ことは、それが「情報をより詳しく説明する」に近接すればするほど「納得させる」の方に近づきうる。…と、そのような関係が概念的には成立している。だからこの二つの選択肢は、一般的に言えばそんなに安易に別物だとは言いきれないはずなのだ。他言語での出題はともかくとして、日本語での出題に限って言えば、この設問で正解率が低いことを石原千秋のように嘆く理由はあまり無いはずなのだ。まずこの点をきちんと確認しておきたい。はっきり言えば、この設問に正解できることよりも、ここで述べた概念的関係を理解していることのほうが、国語力という点でははるかに重要である(が、しかし、国語科教員はその専門性からして、この種の理解が概して不得意である)と私は思う。

ところが、この設問にかなりの自信をもって回答できる場合というのが在る。その場合とは「出題者がこの設問によって何を調べたいと思ったのか」がかなりの程度で推察できてしまうときである。そのレベルでの推察を私ができるようになったのは、ごく最近である。なので、前回の記事でではなくここで今書いている、そういうわけだ。この設問に正解するための早道というのは、「出題者の出題意図(何を調べたいのか)を理解できること」なのである。

出題者の意図というのは、この文章群を読んだときに、次の箇所がそのいちばん中心に在ると「見抜く」ことなのだと思う。『PISAの問題できるかな? -OECD生徒の学習到達度調査』のp35。

そのような接触を立証することは、犯罪捜査上、非常に有効であることが多いのです。しかし、それで必ずしも犯罪の確証を得られるわけではありません。

つまりこの文章群のメッセージを全体として見た場合に「断定をしていない文章である」と受け取れること、のみならずそのように受け取ることができる「能力」を検査しようとしている設問である、…と「見抜く」ことまでもができ、その他の可能性を考慮しないで済む場合にこそとりわけ、この設問への回答は「正解」に近づきやすくなる。つまりその場合にこそ、正解は「納得させること」なんかでは絶対なくて、「情報を伝えること」のほうが「正解」である、と確信的にわかるわけだ。そして、私がそのように受け取ることになったのは、「アメリカ合衆国の公立小中学校だと、事実と意見とを区別して作文を書け、という教育がやたら熱心であるらしい」ことを、見聞していたからだ。つまり、まさにそのポイントで「能力の高低」が測られることを知っていたからだ。そうである以上、「学力」を検査する試験に「この文は事実を述べた文か、それとも意見を述べた文か、答えよ」といったタイプの出題が在ることは、充分に予測できる。その区別ができることが「能力」だからだ。そしてこのPISAの出題もおそらくそこからの派生で生まれた出題だろう、とようやく思えたのである。その場合、「この文章は断定していない文章か、それとも断定している文章か、答えよ」となる。そしてここに在るのは「特に断定していないという特徴が無い」場合なら、全部断定している文になる、という非対称関係なのだ。で、この文章の場合、断定していないという特徴が見られ、その箇所がどうも中心的なメッセージであるらしい、だからこの文章群全体としては「断定していない」文であり、したがって「納得させること」ではない、と導出できるわけだ。

この設問に正解するために有用なのは、語の一般的な概念関係を理解していることではあまりなくて、むしろそれよりもはるかに、「出題意図が推測できること」のほうであった。つまり「文章が断定していない文かそれとも断定している文か」を識別できる「能力」を試す出題であった、と推測できるかどうかであった。ここで出題者が見抜いてほしかっただろう語用規則というのは、「情報を与えるだけの文→断定していない/納得させるための文→断定している」といったタイプのものだったのだろう。「情報を与える」とか「納得させる」という語は、この設問では或る種の理論負荷的な語彙だったのだ。

ところで、なぜ日本の生徒の正解率が低かったのかについての假説を、少しだけ踏み込んで以下述べたい。日本の生徒の正解率が低かったことには、一般的な概念関係以外にも根拠が在りうると思うからだ。というのも、この文章群が、文章の作者が書いたとおりの文章であったかどうかはすこぶる疑わしいからである。というのも、「愛している」と口で言う人が実際に行なっている行為ではさっぱり「愛していない」ように受け取れる場合と同じようなことが、この文章群でも起こっていると解しうるからだ。この設問に「情報を伝えること」ではなく「納得させること」と回答した生徒のなかには、そのような受け取りをした者も含まれていたに違いない。そのように以下説明する。

先にも述べたようにこの文章群のいわば中心に次のような文が位置していた。

そのような接触を立証することは、犯罪捜査上、非常に有効であることが多いのです。しかし、それで必ずしも犯罪の確証を得られるわけではありません。

しかし、この文章群が実際に提示してしまっている結果から判断すると、むしろこの文は次のように書き換えたほうがよほど適切であるように思えるはずだ。

そのような接触を立証することで、必ずしも犯罪の確証を得られるわけではありません。しかしそれは、犯罪捜査上、非常に有効であることが多いのです。

つまり別の例で説明するならば、「この店は高いが、しかし美味しいとは言いきれない。」と書いてはあるものの、実際に言ってしまっている内容から判断すればむしろ「この店は美味しいとは言いきれないが、しかし高い。」と言ってしまっているだろう、と受け取ることができるのである。明示されている文章だと「美味しいとは言いきれない。」が結論であり、したがって「断定していない」と解しうるが、実際に述べてしまっているメッセージの全体だと「高い。」が結論であり、したがって「断定している」と解しうるわけである。このPISAの「警察」という出題の文章群にも同じ受け取りが充分可能である。

その受け取りが可能な理由は、一つは「遺伝子捜査が犯罪捜査上有効である」という内容とその補足説明が文章群の大半を占めていることである。もう一つは「遺伝子捜査で、関係者の接触等が断定できても、そこから犯罪の事実までは断定できない」という内容に関する情報が、文章群のなかで全く与えられていないことである。つまり、Aという内容については情報を事細かに与えている一方で、Bという内容については情報を全く与えていない文章というものが在るわけだ。ここでとりわけ重要なのはその髪の毛が容疑者のものであると立証できれば、これは、容疑者が実際には被害者に会っていた証拠となります。という文の存在だ。この文の存在がすでに、そのような接触を立証することは、犯罪捜査上、非常に有効であることが多いのです。しかし、それで必ずしも犯罪の確証を得られるわけではありません。という結論的な主張を裏切ってしまっているからだ。というのも、假にその髪の毛が容疑者のものだったとしてもなお、その容疑者が被害者に一度も会っていないという可能性を考慮するからこそ「犯罪の確証を得られるわけではない」と言えるはずなのに、その可能性をわざわざ否定してしまっている箇所だからだ。だとすれば「Aは重要だがしかしBも在るので、Aが絶対正しいわけではない」と字面の上では述べていても、実際には「Bが在るのでAが絶対正しいわけではないが、しかしAは重要である」と提示してしまっている文だと受け取るほうがむしろ適切である。そういうことだ。

そのような受け取りが可能であることまでがわかっても、なお、「出題意図」が容易に推察できる場合にはそれに歯止めがかかる。或いはそもそも「出題意図の推察」が優先して、上記のようなメッセージの「言行不一致」性にはあまり気づかない。ともかくこの設問に正解できるために、最も有用なのは「断定しない文と断定する文とを区別できる能力」が測定されている、という可能性に即座にたどりつけることであった。それは日本以外の国の生徒には容易な認識だったのかもしれないが、日本の生徒には容易な認識ではなかったのだ。そして無論、そんな認識にたどりつく必要も無いのであった。この出題に関してはそう判断したい。もう少し表現上の細かい検討もまだ可能だとは思うが、PISA学力調査の「警察:問3」の検討はいったんここまでとする。ただし節の最後にもう一度少し違った論点で言及する。

次に新井紀子の著作で紹介されていたRSTの「同義文判定」の出題を検討する。とは言え、実際に出題された出題文そのものを検討する前に、まず重要な事柄を知るために、もっと簡単な例に置き換えて説明しよう。新井の著作で紹介されている事例の検討はそれからでも遅くはない。さて、この「同義文判定」の出題は著作でわかる範囲だと、要するに

の二文の表す内容は「異なる」。
という判断ができるかどうかが一番試したい出題であるようだ。これは良い。だがこれと一見よく似ている次の出題には注意が大いに必要だ。これとは厳密に区別するべきだ。
の二文の表す内容は「同じである」。
これである。確かにそういう出題も、たぶんランダムかつ均等に受験者に行なわれたと思う。だが、この後者の「同じである」判断と、前者の「異なる」判断とは、同じものではなく、また同じ「能力」が必要になるわけでもない。この二つを完全に対称形のものだと判断して、均等・ランダムに出題しているのは出題側のほうの見方や都合であり、回答者の側にそれが共有されているわけではない。だからこの設問を「同義文判定」と認識している点にすでに出題側の不備が現れている。この出題はその本質に在るのは「異義文判定」なのだ。それがここで述べたいことの中心に来る。

なんだか「いつも同じ歌を歌っているだけでないか」とこのサイトの多くのページを読んだことが在る読者なら思うだろう。私もそう思う。だが、ともかく捨てておくわけにもいかなかろう。

後者のほうで「同じである」と判断できるためには、出題者がどの水準での「同じ」判断を検査したがっているのか、どのような水準で「内容」という語を使っているのかを知る必要がぜひ在るだろう。この二つの文を見て「内容が違う」と判断する者だって居る。そういう次元での「同じ」「違う」判断をし、そのように判断語を使う者だって居る。そのような違い方の時に「内容」という語を使う者もたぶん居る。公立の小中学校の教員にもきっと居る。或いは、前者の文ならその可能な帰結は「だから、佐藤は親切だ。」というものであるのに対して、後者の文のそれは「だから、鈴木は運が良い。」というものである、だからこの二文は文の主題からして違う、という判断も不可能では全くない。そしてその違い方を表現するために文の「内容」が違う、と述べることだって在りうる。だが、出題者の語用規則というものはこの出題がランダムに与えられている限り、回答者にはほとんどわからない。例外的にわかるのは出題意図を推測・確信できる生徒だけである。

この「同じである」判断の出題に「確信」をもって正解できる生徒というのは、まず間違いなく、

の二文の表す内容は「異なる」。
という判断ができるか否かが出題者の見たがっている真のポイントなのだと理解しているはずである。そして、その「真のポイント」の理解度を測定するための、変奏曲的な出題として在る「同じである」判断の出題である、と理解するはずである。つまり「異なる」が正解になるような設問ばかりだと学力が判定できないので、それが主な理由となって「同じである」が正解になるような設問も混ぜてあるのだろう、と理解するはずである。その場合に、その場合にのみ、生徒は「きちんとしたしかたで」正解することになる。他の場合は全部「まぐれ」でしかない。私はそう思う。

ここまでの、問題の構図を簡易化してからの検討は、「出題者の意図を認識しないと正解できにくい出題が在る」というものであり、それは本節での中心的な話題であった。まずここを押さえてほしい。

ここまで検討したうえで、ついでの形で新井の提起した問題を点検すると、新井の主張している事柄がなかなかに無視できないものであることが初めてわかる。というのは、明らかに違っている二文を検討しての「異なる」判断の正解率が低いという話だからだ。つまり、「同じである」判断の正解率が低いという話ではなかったからだ。だからここには別種の問題が絡んでいるに違いない。出題文を『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社,2018)(amazon)のp205から引用する。

[問3]次の文を読みなさい。

幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた。

右記の文が表す内容と以下の文が表す内容は同じか。「同じである」「異なる」のうちから答えなさい。

1639年、ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた。

正解が「異なる」であることは明らかだ。出題者の特殊な意図を想定する必要はまず無い。この設問で中学生の正解率が「57%」であるのは確かに学力に問題が在るからかもしれない、と思える。一つまず、一番想定可能である原因は「ふだんやっていないような文法的な判断を次から次へとやらされたことに因る脳の疲労」とかそういったものである。というのは、私がこの種の設問をやり続けても間違いなくそうなるからだ。だが、それだけではないだろう。この設問に限らずいくつかの設問では、「主格」と「述語」とがある程度離れている文章だと、総じて正解率が高くないようである。なので、その種の文法的な配置に慣れていない、という原因もかなり想定可能である。それに加えて、当然のことながら句読点の無い音声の授業ばかり受けていて、文字の文章を授業外の機会にわざわざ読んだりしていない生徒の場合、「一文という単位」自体になじみがうすくなり、それも正解率に低さに関与しているはずである。この点は既出である「授業なんかに出ているから<国語力>がつかないのだ」を参照していただければ良い。いずれにせよ、この種の誤答の原因をちゃんと調査しようと思うのなら、「主格と述語の文法上の距離」を操作的にコントロールした出題を構想する必要は在るだろう、とだけ指摘しておく。RSTの「同義文判定」の出題の検討は以上とする。

なお、ここで追加する。「出題者の依拠している語用規則」以外にも、回答者の側が判断できないと不利になる出題者の意図というものはまだ在る。たとえば、こうだ。「出題で与えられた情報をできるだけ全体的に考慮する」ことを「測ろうとする能力」として想定している出題と、「出題で与えられた情報のうち、どの情報を活用し、どの情報を無視するか」の判断を「測ろうとする能力」として想定している出題とでは、回答者の臨む態度がまったく変わってくるはずだ。だが、そのタイプの出題者の意図もまた、まったく公開されていないし、それでいて正解の根拠になっていることも在るのである。試験問題ではないが、知的傾向を検査するための実験的課題におけるその要因の重要性は、以前筆者が書いた「渡辺雅子著『納得の構造』は(あまり)役立たない」の最後のほうで提示した。日本の生徒ならば多くの場合書く前にまず四つの絵をすべて見てから書き始めて下さい。とわざわざ記載されている調査で、まさかどれかの絵をまったく無視して書くことはまずしないはずだ。できるだけ四つの絵全部に言及しようとするはずである。ところが調査者の意図としては、「どれかの絵を省略するかしないかの態度の違い」「その違いと相関する変数は何か」といったものがどうやら調べたかったようなのである。そして確かにアメリカ合衆国の生徒なら、「書かれている情報のどれを採りどれを捨てるか」自体を検査するための調査やそれ自体が「学力」であるという学力観を有する課題や試験にかなり慣れている場合が多い。だが日本の生徒は全くそうではない。なので少なくとも日本の生徒がその種の課題や試験を受けるときにはまたしても「出題者の意図」をかなり良く理解していることが、正解や高評価のためには必要になってしまうし、日米の違いを調査するうえでもそこをかなりきちんと統制する必要が在るのである。だから、日本の生徒に関しては調べたいことを調べることができた調査であるとは言い難いだろう。

このページで筆者はかつてPISAの出題にもまた、「与えられた情報をできるだけ活かそう」などと考えると脳がフリーズしてしまうような出題は有ったと書いた。その時に漠然とだが念頭に在ったのは、少し前の箇所で検討した「警察」の出題文群であった。この点に今一度言及しておこう。この出題文群の中のたとえばDNAは、ねじれた2連の真珠のネックレスのような構造をしています。この真珠は4色に分かれ、それぞれの細胞は外膜と核をもっていて次に、DNAに分析用の特殊な処理を行います。その後、特殊なゲルの中に入れ、そのゲルに電流を流します。といった箇所は、積極的に考慮に入れるべきものではなく、むしろ「いかにそれに攪乱されずに全体の主旨を読み取れるか」を検査しようとして、専門家が執筆した文例から削除されずに残されたものである、と私は思う。遺伝学者からみればこれらもきっと必要な情報なのだが、この学力試験のためには不必要である情報のように私には思えるのだ。だが、そのような夾雑物に惑わされないで、情報の必要・不必要を選別して受け取ること自体が「能力」であるという学力観に従えば、そのような攪乱情報も在って当然良い。と同時に、日本の生徒のように「与えられた情報をできるだけ全部考慮に入れて答えよ。それが学力だ」という学力観のもと教育されてきた生徒からすれば、それらを全部均等に考慮に入れた結果として、この文章群は「納得させること」が主目的である、と判断されてもおかしくない。そういうことが言えてしまうのだ。

「説明文」は国語科教員の専門性では太刀打ちできない

話をすっかり戻す。国語科という教科をいくら勉強しても国語科の学力すらつかない事情には、「説明文」という変なジャンルの存在が絡んでいる。ただし、読解だけでなく、作文などでも「説明文」が要求されるので、その点も重視して以下述べる。また、読解課題で「説明文」とは区別されるときの「評論文」や「意見文」であっても、その中にも事実的な主張が数多いわけだろうから、その箇所に関しては「説明文」と同じことが当てはまると見なしてほしい。

小中あたりで扱われる「説明文の読解」は多くは「自作自演」になる。つまり国語科教員の手に負える範囲の事柄だけが「到達すべき学力の目標」として設定され、その枠内で評価が行なわれる。「高校入試」もまた出題する側が高校の国語科教員であるため、やはり国語科教員の手に負える範囲内のものしか出題されないし、假に出題文の著者およびその同業者が見た時には誤りが在るようと感じるような内容であっても、めったに露見しない。また「大学入試の現代文」は出題者の専門分野が不明であるため、これらの中の事実的主張に関する扱いでも、これまた国語科教員による模範解答や解説とのギャップがもし在っても、まず問題化しない。

理科や社会科や、或いは小中高には対応する教科がほぼ無い社会学や哲学の分野の「説明文」などの読解を総じて扱うことのできる有力な専門分野の候補は「哲学」(の一部)であろう。つまり「命題」を扱う専門家である。少なくとも論理学と科学哲学と言語哲学に通じているような専門家であれば、そういった学術的な文章一般の「読解」に専門外のものであってもかなり寄与する知見が在るに違いない、と思う。だが言うまでもなく、そういった「哲学」の専攻者は、高校での公民や倫理の教師にはなれても、小中高の国語科での「説明文の読解」を担当することはできない。また従ってその知見・専門性が有用になるような出題は、高校入試・中学入試には現れない。かくしてあとは国語科教員の自作自演の世界となり、「哲学の専攻者なんて、別に必要無いだろう」という小中高の関係各位の総意ができあがる。ただし、それらの説明文の読解には、「命題」の専門家以外にあと、「日本語文法」の専門家も居たほうが良い。これも既出の論点で私の言いたいことはだいたい言っていると思う。

「命題」の専門家以外に、あと居たほうが良さそうなのは、「カテゴリー」の専門家である。これまた哲学でも扱うだろうが、心理学や認知科学、言語学や社会学の会話分析等でも「人間の取り扱うカテゴリー」を用いた活動に関して意義の在る知見をもっている場合が在ることだろう。もちろん、言語学の専門家は英語教員・語学教員にしかなれないだろうし、他の専門家は高校での公民や倫理の教員にしかなれず、国語科の説明文の教育課程・内容や授業に影響を与えることはまずできない。そのため、たとえば「納得させる」と「情報を伝える」の二つが、迷っても意外におかしくない二択である、という考えが国語科教員の側から提示されにくい。

「説明文を書く」という課題では、またもう少し細かく別の主張も可能だろう。「コボちゃん作文」でも、その他のフィクションの「あらすじをまとめる」課題でもそうだろうが、「コミュニケーション」とか「人間の行為」というものを扱う専門家が、そこに関与することが望ましいし、場合によってははっきり必要なはずなのだ。そうすれば「明らかに大学生以上レベルの課題」(人間の行為を主に発語内行為でもって記述する「練習」)を小学校中学年にやらせる、なんてことだけは無いはずなのだ。だが無論、そういう専門家は社会科の教員にしかなれない制度のため、ここからは排除されている。またこれは学問の側・大学制度の側にもいくぶん原因が在る。というのも、コミュニケーションを扱うのにすぐれているはずのたとえば哲学での日常言語学派の研究者は、言語哲学の中では完全に傍流である。社会学の会話分析もまた、社会学のなかでは傍流扱いであり、それ単独の学識では大学にポストを得ることはまず不可能だったし、今後も人文系の学問が衰退させられていくことも相俟ってきっとできないままだろう。会話分析の専門家が大学に常勤のポストを得ている場合は、多くは「他の学識」(社会学史とかジェンダー論とか)によって得ている場合であるはずだ。また、哲学の日常言語学派と、社会学・言語学の会話分析や言語の認知科学等とが一体となって新たなまとまりを形成する、という動向も見られない。そういうわけで学問上も傍流である観が否めない(が、しかしとても有用な)これらの専門家の専門性が、小中校の国語教育の関係者に注目され重視されることがとても難しくなっている。

「説明文を正確に理解すること」よりも「説明文の真偽を検討すること」が国語科の教育のなかで、間違って取り扱われることも在る。この場合、無論「命題」の専門家が「命題の真偽」を扱うことのできる有力候補だが、それだけでなく他にも、統計学や各分野の「研究法」の専門家、心理学等の「批判的思考」の専門家・社会学での「メディア論」の専門家などもこの局面での貢献が期待できる。また、どの分野の内容であっても、「そこで扱われている分野自体の専門家」が「説明文の真偽」については当然優先的な専門性を有する。また石原千秋が体現しているように、それらと並列の候補としてなら、文学研究者の「言説分析」やテクスト分析の知見も活用されて当然良い。

「識者の書いた説明文を読む」課題のときには「説明文の真偽」が問題にされないのに、「生徒が説明文を書く」課題になると突然「説明文の真偽」が評価の対象になり始めることも多い。大学生のレポートで要求されがちな「事実と意見を区別せよ」という評価基準が、直接・間接の影響で小中高の教育にも波及した場合にそうなる。その場合にならなおさら、命題の真偽や当該内容の専門家の知見が必要になるのはもちろんだ。またこの件に関して筆者が書いた短い文「問題の所在:「レポートの書き方」界と「国語という教科」界との住人タイプの違い」では、日本文学の専門家は命題の真偽を区別しない、と書いたが、文学研究者のうちテクスト論の専門家であればむしろその反対であるはずだろう。ただそういう研究者肌の人は高校の教員(中高一貫の中学の教員も含む)がおそらく限界であり、小学校中学校の教員にはまずならないしなれないだろう。そして生徒が先に刷りこまれてしまうのは、その小中学校でのほうなのだ。

この節で述べてきた事柄というのは、誰でも気づくはずなのに意外と指摘されてこなかったと思う。その事情の一つには「ことばの意味」問題がある。つまり、「ことばの意味」を扱うというときに、すぐに「語源」「由来」などを持ち出して説明したがる態度が、事態を少し覆い隠していたと思うのだ。そして現行の義務教育での国語科というのは、そういう、すぐに「語源」「由来」などを持ち出して説明したがる態度を促進したいという意図に溢れた教科である。そしてその態度が「説明文の読解や作文」にまで及ぶというわけだろう。別に「語源」や「由来」での説明が悪いというわけではない。だが、「ことばの意味」という対象はそのような取扱いに尽きるものでは、明らかにない。だがこの点が理解されているかと言えば、たとえば言語哲学の専門家と、一般のたんなる高学歴者との間にはものすごい知識・認識ギャップが在り、手が付けられない絶望的な状況だろう。それよりはだいぶ平易にしてしまった内容ではあるが、私が書いた少し古いページである「「ことばの意味」はどう教育されているか」もまだ多少は参考になるかもしれない。

補論:「なぜ未知数が未知なのかがわからないから回答できない」と答えることができる子供

前述した教育心理学的知見によると、「出題者がそもそも出題という行為をしていること」「相手が自分の能力を試そうとしていること」が回答者に理解されているか否かで、「正答率」が大きく異なってくるということだった。その塚野の論考(『アクティブ・マインド』のものは1990年)とほぼ同時代に、塚野の論考を編集したひとりである佐伯胖が、佐伯胖『「わかり方」の探究 ―思索と行動の原点―』(小学館、2004)(amazon)に収録された1992年初出の文章で、方向性として類似したような見方を含む事例を提示している。塚野の論考を読んだ者なら、佐伯のこの問題提起から、そこからの直接・間接の影響を読み取ることだろう。それはもちろんそれで全く適切だと思う。だが佐伯の提起した事例からはそれ以外の問題をも読み取ることが可能である。…と、そのことも併せて述べたいので、ここで補論として扱うこととする。

p79から引用する。

「たろうさんはあめを五つもっていました。おばあちゃんがあめをいくつかくれました。たろうさんは、いまあめを八つもっています。おばあちゃんはあめをいくつくれたのでしょう。」という問いに対して、「どうしておばあちゃんがあめをいくつくれたのかがわからないのか」がわからないために、じっと考え込んでいた子どもがいた。その子に「おばあちゃんはあめを袋に入れてくれたからわからなかったのよ。」と説明してあげたら、とたんに目を輝かせて、「それなら、三つだ」とすぐに答えられた。つまり、その子は、なぜそんなことが問題になるのかがわからなかったのだ。

塚野の論考の後にこの事例を読むと、「おばあちゃんがあめをいくつくれたのかがどうしてわからないのか」がわからないというのは、要するに「それが出題である」ということがわからないことと同じことのような気がしてくる。というのも、それが出題であり自分の能力を試そうとしていることがもしわかるのなら、「おばあちゃんがあめをいくつくれたのかがどうしてわからないのか」というわからなさを感じることは無さそうに思えるからだ。だが、この子供がそれよりもずっと「文明化」されておりいろんな常識をすでにわかっているという可能性も充分在るのだ。つまり「これは出題である」「これは自分の能力を試そうとしている」「出題者にはその個数は未知ではない」ということまでがすべてわかっていたとしても、なお、「おばあちゃんがあめをいくつくれたのかがどうしてわからないのか、がわからない」と子供が述べることは在りうるのだ。…と、そのような方向性でこの事例を検討してみたい。

有力な假説というのは、この子供は「わからないことを保留する」ことが十分にできなかった、というものだ。これは別に成人でも、好成績の子供でも、状況次第でいくらでも起こることだ。なので、「発達的な過渡期だから」というわけではないだろう。ただ、「わからないことを保留する」という経験自体がまだ少なかったということなら在りうる。この子供も或いはそうだったかもしれない。そのため、わからない箇所より後に提示される情報にはほとんど頭が回らなくなってしまい、それで解けなかった。…と、そういう假説である。

「わからないことを保留すること」が充分できないという場合には、假に「出題者にはその個数は未知ではない」「その個数を自分が当てることができるかどうかを試す出題である」ということまではわかっていても、なお、その未知の個数という箇所が提示された時点で頭がいっぱいになってしまい、それより先の出題文まで頭が回らなくなることは、起こりうると思う。そのような場合に、「おばあちゃんがあめをいくつくれたのかがどうしてわからないのか、がわからない」というような言い方をすることも在るだろう。むしろそのように訴える能力が在るということ自体が、「出題に対して回答する」という役割を理解し、半分くらいは習得もしてきているあらわれのように思えてくるほどだ。もしこの假説を真摯に検討しようというのなら、次のような出題文に変えてみて調べると良いと思う。

「たろうさんはあめを五つもっていました。おばあちゃんがあめをいくつかくれました。おばあちゃんはあめをいくつくれたのでしょう。ヒント:おばあちゃんはいまあめを八つもっています。」

変な出題文ではある。「何がヒントだよ、必要な情報ではないか」と思った読者もきっと居るだろう。だがそれでも筆者の意図は想像できると思う。すなわち、時間的な経過を表現するその出題文の発話や聴解にも別系列の時間の経過というものが在り、そのために聞き手が混乱する、という事情はぬきがたく在るだろう、と私は思ったのだ。なので、その「文の内容内部」で進行する時間と「文そのものの表現」が提示される時間との食い違いのようなものの影響を最小化しようと試みたのである。つまり「おばあちゃんはあめをいくつくれたのでしょう。」という出題での中心となる文が、出題文の最後に来ていることから来るわかりにくさというものが確実に在るとまず判断したのである。というのも、この文は出題内容上の時間軸で言えば一番最後に起こった出来事に関するものではないからだ。そして、そう思ったので、これを出題内容の中で流れている時間の中に適切に配置してみたのである。したがって、問いより以降の情報の提示は全部「ヒント」という口実で提示せざるを得ない。そういうことだ。

「わからない箇所を保留にしておいて、その後も情報を受け取り続けること」ができるか否かというのは、この件に限らず、長文の読解が行なわれる際に、その遂行の重要な分かれ目になっていることが少なくないはずだ。その件に関して、私は特段の定見をもつものでないし今気づいたという程度の問題意識でしかないのだが、その件への注意を喚起だけはしておく。

なお、佐伯のこの問題提起を、塚野弘明の先の論考と結びつけて受け取ることは、当然されて良いことだ。たとえば、ここでの「おばあちゃんはあめを袋に入れてくれたからわからなかったのよ。」という助言に近い役割を果たしているものなら、塚野の論考のほうでも紹介されている。次の箇所もその一つだろう。

また、先の上野らの研究でも変形に意味ある文脈を付与することによって同種の結果が得られている。彼らは、数の保存課題で一方の菓子の配列の間隔をせばめて、全体の長さを縮める変形を行う際に、「入れ物に入れて家に持って帰るために」という文脈をつけ、実際にボール紙の型を入れ物に見立てて変形操作を行った(図2-5)。その結果、非保存児の多くが正答したのである。

そういうわけで佐伯と塚野の共通点に着目してこれらを読むこと自体には問題は無い。ただ、私自身が引っかかったのは、佐伯の提示した事例での子供が「なぜ個数がわからないかがわからないから回答できない」ということを、何らかの形で訴えることができる子供だったことである。これは塚野のほうでの非保存児や長老よりも、いくぶん「文明化」されているし、問題提起としては次のステージでのもののようにも思われた。つまり、まるでこれは、塚野の論考での正解する保存児が「僕が頭がいいかどうかを試すため」の出題であるとわかっていてそう答えることすらもできるのと、同じようではないかと私は思ったのである。「僕が頭がいいかどうかを試すため」の出題であるとわかっていて正解もできるのと、それもできるうえに更に実験者にそのように回答できるのとでは、やはりステージが違うと思える。なので、假にそうだとしても成立するような、少し別の観点からの假説を出してみたのである。なので、佐伯や塚野の考えている事柄と対立するわけでは、ない。