「ことばの意味」はどう教育されているか

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「ことばの意味とは何か」という問題が在る。いわゆる「意味の意味」だ。これについての、中学生用の国語科参考書と、大学初年度の哲学教科書の解説を一瞥して、ここに記録しておく。

一部の(恵まれた)中学生のみにされている教育

まず中学生用の国語科参考書である。石原千秋『評論入門のための高校入試国語』(amazon)。ことばの意味について扱った章が「序章」やせめて「第一章」ではなく、「第二章」に位置していることにすでに徴候が表れている。国語という教科にとっての「ことばの意味」というテーマなど所詮そんな程度だ。以下石原氏による「そんな程度」感満載の解説が在る。

p76より。

言葉の意味は「実際」のモノではない。現代の言語学では「言葉の意味とは、その言葉が喚起するイメージのことだ」と考えている。だから「猫」という言葉を聞いても、人によって異なるイメージを抱くことができるのである。さらに言えば、言葉の意味がイメージにすぎないからこそ、実際には存在しない空想上の生き物や、「平和」や「勇気」といった抽象的な概念を言葉で表すことができるのである。

「「平和」という言葉の意味は、「平和」という言葉によって、僕たちの頭の中に沸き上がるイメージの束です」。この説明でいいのだ。

なお「沸き上がる」はいわゆる「ママ」である。原文のまま。

で、どうも「現代の言語学」のなかにはこの程度の説明が本当に存在するようである。何かでは見たことが私には在る。だが、「現代の言語学」がどう言いつくろっても、この説明は誤っている。たとえば私は「平和」という言葉を聞いて頭の中に「ボートレース」のイメージが湧き上がる、「平和の意味はボートレースのことである」が誤りであることなど明らかだ。それは「連想」するものでしかない。

あと「イメージの束」という言い方はまじめな説明の仕方ではないので、やるならやるで、もっとまじめな説明をするべきだと思う。その「束」という言い方が比喩に依存している。「イメージの論理和」とか(多少まじめに)書くと説明が誤りであることがわかってしまうから、避けたのだろう。

なお、石原がここで述べている事柄は、英米系哲学のほうで、誤りの典型としてしばしば出される「言葉の意味はその指示対象のイメージである」という「イメージ説」とは全く異なるものである。「イメージ」という語の意味も違うし、石原のほうは「喚起する」イメージなので、何でもありである。そうではない英米系哲学の方は、「視覚像」「聴覚像」とかいったタイプのものである。それは「赤という語の意味は赤の視覚像である」といったタイプの説である。

あとついでに、次の箇所が誤っていることに、中学生でも気づく人はいると思う。そういう中学生が「自分が間違っているのでは」などと心配する必要がないことを、ちゃんと誰かが言ってあげないといけないだろう。p75-76。

もし「唯野教授」の説明通り「猫」という言葉の意味が「実際の猫」だったならば、僕たちは絶対に嘘を付くことができなくなってしまうということだ。しかし、僕たちは「犬」を指さして「これは猫です」と言うこともできる。これは、「猫」という言葉の意味が「実際の猫」ではないからこそ可能なことなのである。

大馬鹿野郎である。犬を指さして「これは猫です」と言うことによって嘘を付くことができるのは、「これは猫です」が偽だからである。では「これは猫です」がなぜ偽であることが可能なのかと言えば、猫を指さして言う「これは猫です」が真であるからである。嘘を付くことができるのは、偽であることや真であることが最低限成立しているからである、ということを見逃してはならない。だから「猫」という言葉の意味は「実際の猫」である、という言い方のほうが、石原の説よりはまだましである(そのままでは多分ダメであるとしてもだ)。「嘘を付く能力」の話は、そういった真偽の成立が保証されている範囲内の話でしかない。

石原氏は第二章で他にソシュールを援用した、またまったく異なった「ことばの意味」観を提示している。だが、それと上の「イメージ説」とがどう折り合うのかについて、特に説明をしていない。

石原氏のこの本で、現在の中学生に与えられているおそらく最良の参考書である。つまり、この程度しか中学生には与えられていないのだ。

なお、日本の多くの中学生は、「ことばの意味」は起源や由来や「由緒正しい用法」をまず知らないといけない、と教育されている可能性が濃厚である。そのために永井均『<子ども>のための哲学対話』(amazon)の「言葉の意味はだれが決める?」の中から哲学的な問いだけ削除して、導入的な断定的な箇所だけを、検定教科書で教えている場合も在る。検定教科書のその箇所を(ウェブで)見た時には「ほとんど悪徳商法だなあ」と感じたほどだ。国語科という教科が、「ことばの意味」についての学術的な議論や考察の蓄積をまったく無視して、文科省の主義主張を教え込む教科になっていることの一側面だと言える。

さらに一部の(恵まれた)大学生にされている教育内容の、純化された実例

さて次に一挙に、大学初年度程度の「哲学」の教科書に行くことにする。「哲学」の研究者は国語科の教員になることが制度上全くできないため、国語科からは締め出されていたような新しい説明をしてくれるかもしれないからだ。土屋賢二『ツチヤ教授の哲学講義』(amazon:岩波単行本 amazon:文春文庫)。

この講義では、或る一つの主張が繰り返し登場する。大変重要な主張であり、また、私はこれに、おおざっぱになら賛成であるのだ。それは次の箇所で登場する。p27-28。なおページ番号は以下すべて岩波単行本のほうのものである。

ここでみなさんに考えてもらいたいんですけど、非常に素朴に考えれば、時間というのは「時間」と呼ばれているもののことじゃないかとぼくは思うんです。こう言っても何も解明されたわけじゃないですけど、とにかくこれはものすごく当たり前のことのようにぼくには思えるんですね。時間ということで何を理解したらいいのかと言ったら、それはぼくらが「時間」ということばで呼んでいるものだと思いませんか?そうじゃないと思う人、だれかいますか?そうじゃない、時間というものはわれわれが「時間」と呼んでいるものとは違う、という人いますか?ぼくは、これはものすごく当たり前のことだし、これ以外には考えられないように思うんですよね。たとえば、時間について何かを研究するときに、実際に何を研究したらいいのか、何を対象にしたらいいのかというと、ぼくらが「時間」ということばで呼んでいるもの以外にないんじゃないかと思うんですよね。これは疑問の余地がないように思えるんですよね。ぼくには。

この話を一般化すると「AとはAと呼ばれているもののことである」ということになる。この形の主張がこの本の基幹的な位置を占めている。で、これを見てまず引っかかるのは「呼ばれている」という受身文だと思う。なので、そこを能動態にすると「Aとは人々がAと呼んでいるもののことである」というぐあいになるだろう。この規定に「意味」という単語を絡めるすれば次のようになるだろう。「Aの意味とは何かを考えるときには、Aとは人々がAと呼んでいるもののことである、ということを考慮するべきである」こんな感じであろうか。

で、ごくおおざっぱにはこれでいいと思うのだが、しかし、きちんと考えようとすると解決しないとならない課題がいろいろと出てくると思う。そこを少し書き留めておく。p89。

ここで、だいぶ前に言ったことを思い出してもらいたいんですけど、どんなものでもいい、「Xとは何か」と聞かれたら、Xは「X」と呼ばれているものだと答えるしかありません。ぼくはそれ以外に考えようがないと思うんです。「見る」の場合も同じで、「見る」とはどういうことかと聞かれたら、われわれが日常的に「見る」ということばで呼んでいるもののことだ、と考える以外ないように思えます。見るというのは、われわれが日常、「見る」ということばで呼んでいるものを意味することしかできません。それ以上も、それ以下も、それ以外も意味することはありえません。「何が見られているのか」という問題でも同じです。それに答えようとすれば、日常、どんなものが「見られている」と呼ばれているかを答えるしかない、とぼくは思うんです。われわれがふだん、「見られるもの」と呼んでいるものが、AとBとCの三種類あったとしたら、見られるのはAとBとCだ、と答えるしかないということです。Aしか見ていることにならないんだ、と主張するなら、その人はわれわれが「見られるもの」と呼んでいるものとは違うものを問題にしているんです。

で、ここでAとBとCとがお互いに排他的な関係に無い場合はいいのだが、そうではなく相互排他的な関係にある場合について考える必要が出てくる。あと意味的には排他的ではなくても、「グループaの人々はAだと言い、グループbの人々はBだと言い、グループcの人々はCだと言う」のように「棲み分け」がきっちり成立している場合についても考える必要が出てくる。

棲み分け問題の一部には、次のような典型的問題が存在している。それは専門家と一般人とで棲み分けているケースについての問題である。たとえばここで、「哲学」という語について考えてみる。氏の主張によれば「哲学とは哲学と呼ばれているもの」のことになり、それが三種類在れば、三種類とも認めなければならない、ということになる。しかし氏は当然そのようには言わないわけである。氏はこの講義の最初で「哲学とは何か」についてかなり一生懸命説明しているが、それは「哲学と一般に呼ばれているもの」の説明とはあまり思えないものである。そもそも「哲学と一般に呼ばれているもの」の説明なら、簡単に一行程度で終わるはずだ(例「深遠な感じのする文学表現や思想や信条」)。そうはならないのは、氏はここで「一般人が哲学と呼んでいるもの」ではなくて「専門家が哲学と呼んでいるもの」の説明をしているからだ。だから、説明だけで一章近く費やすことになるわけである。すなわちここでは「専門用語」という問題圏が登場しているわけであり、専門用語というのは「一般の人がそう呼ぶもの」を説明に使ってはダメであり、「専門家がそう呼ぶもの」で説明しないとダメである、ということを氏は身を以て示しているわけである。専門用語としての「哲学」だ。

「AとはAと呼ばれているもののことである」という一般則はごく大まかには有効なのだが、細かく見ていくといろいろと問題が出てくることがわかったと思う。「Aと呼ばれているもの」の候補が複数存在して、相互排除的な場合どうするのか。それから「呼ぶ人の集団と呼び方のセット」とが棲み分けてしまっており、他のグループの用法を認めない場合どうするのか。そして、その系として、「専門用語」の場合は、「専門家の呼び方」と「一般人の呼び方」とで区別しないとダメではないか、という問題である。あと、「比喩的に呼んでいる場合」をどう扱うかという問題も考えることができだろう。。

ついでであるが、次の箇所はダメだと思う。原則にのっとっていない。p12。

パラドックス(paradox)というのは、ギリシア語でね、paraは「何かに反する」という意味で、doxとはもとはdoxaという単語で、「人々の意見」とか「一般の常識」といった意味です。だから、パラドックスというのは「常識に反したこと」なんですね。

「だから」ではない。パラドックスというのはパラドックスと呼ばれているもののことではなかったのだろうか。「常識に反したことならばパラドックスである」など、当然受け入れるわけにいかない誤った規定だし、そう誤誘導しかねないような書き方は避けるべきだ。ついでに言えば、語源によってこのように説明しようとするのが、国語科の「ことばの意味」の一つの頻出パターンではある。語源の説明がそれ自体いけない、というのではない。語源は語源として、現在の意味はそうではないだろう、ということを説明する必要が在るケースなのに、説明していないのが問題なのだ。というのも、私は以前「常識に反したことならばパラドックスである、で何が悪い」と本気で信じている人を見たので、こういった誤りを誘発するミスリードには寛容な態度はとれないのである。文庫化の際に撤回されていることを期待したい。

以上、「ことばの意味」について日本の生徒・学生が受けている教育のうち、あまり普及していない一部を一瞥した。

追記:他に、大村はま/苅谷剛彦・夏子『教えることの復権』(筑摩書房、2003)の第二章「大村はま国語教室の実践」(大村はま/苅谷夏子)に記載された「単元「ことば」ということばはどのような意味で使われているか」は良い内容だと思うが、これは国語教師のレベルをはるかに超えており、まるで分析哲学の達人が行なったかのような内容だ。国語教員が指導可能な内容ではない。真似は勧めない。国語教師にまだしも可能なものが在るとすれば、専門が共通である国語学者の大野晋『日本語練習帳』(岩波書店、1999)の第I章「単語に敏感になろう」の内容だろう。この内容に私はいろいろと不足感を感じるが、それを今述べている時間は無いようだ。(「考える」という語に限っていえば、筆者の書いたなかでは、「野矢茂樹『大人のための国語ゼミ』に「ちょっと待った!」をかけてみる:二つの半側評価語の鬩ぎ合い:「事実」と「考える」」を参照してほしい)。ともかくこの内容が国語教員にできる最大限のものだと思う。大村はまレベルの授業内容を目指すなら、国語教員になるための勉強を相当けずって哲学書を勉強するべきだ。(2020.02.18)