石原千秋によって議題設定された国語科の十年を清算したい

石原千秋の著書『国語教科書の思想』『評論入門のための高校入試国語』は、結果的に次のような役割を果たした観がある。その役割とは「失われた国語科教育の十年に於いて議題設定効果をもった」ことだ。つまり、その議題設定によって「従来から国語科等がもっていた問題点」を指摘し普及させにくい状態を作り出したことだ。そして、その時期がとっくに終わっても、教育する側から「次」が提唱されないため、前代のきちんとした清算がされていない、と、そのように筆者には思える。なので、「次」を作り出すのは結局文科省になるわけだ。だが、その前に、まず前の時代をしっかり清算しておかなければならない。

筆者はこのテーマに関連した文章をすでにいくつか書いているので、そちらをまず見ていただくとよいと思う。教科学習だけではつかない国語力「ことばの意味」はどう教育されているかPISAのアホな出題 検討されない「語彙の意味」「演繹」定義の伝言ゲームでは、関連した話題を扱っている。

従来からの問題のその1.「国語科は道徳を教えこむ科目である」という石原の指摘に関連した問題がある。それは「小学校の道徳科は、“道徳の専門家”つまり“道徳現象・社会規範にかかわる現象を学問的に専攻した者”によって策定されるわけではないし、“道徳現象・社会規範にかかわる現象を学問的に専攻した者”がその教員の有資格者になれる、というように設定されているわけではましてない」ということである。すなわち、倫理学や社会学の一部を専攻した者が「専攻を生かして小学校の道徳科の教員になる」という人生設計が一般に成立しないように「道徳科」の教員資格及び教育内容が設定されてきた、ということである。ここでの道徳科は正式の教科扱いは受けていないものの、小学校に存在はした「道徳の時間」のことを指すとする。さて、まず前提として「道徳科」の授業を担当できるのは小学校教員になることのできる者に限られる。しかも「道徳科」専任教員は通常いない。なので、道徳科教員になることができる者は教育学部のしかるべき課程の出身者だけであることになる。教員にその程度の専門性しか求めないのだから、「道徳科」のカリキュラムや教材を作る側の専門性だって、たかが知れているはずだ。この事態を「小学校の道徳科は専門性の低い教科だった」という言い方でまとめてしまおう。ここが石原の議題設定が押さえていなかった点である。なので石原が「国語科は(倫理ではなく)道徳を教え込む教科である」ということを主張するときに、欠落した認識が生じることになる。欠落したのは、まずは次のような認識だ。「道徳現象・社会規範というテーマを学問的に専攻した者」を文科省は小学校教員にしたくはなかった、これである。そしてここで、もっと一般化したことが言えるのである。それは「文科省が義務教育課程の教員に専攻してほしくないような専門分野は、全部、国語科の内容であることにしてしまうのが好都合であった」という事態である。「国語科は道徳を教え込む教科である(が、それは望ましくない)」という石原の主張は、その下位分類として存在するものに過ぎない。たとえば「国語科は論理性を教え込む教科である(が、それは望ましくない。だって論理学の素養が国語教師に無いから)」ということだって言えたはずである。だが、石原の議題設定はとても影響力が強く、そういった一般的な論点をひき出すような地点まで全然たどり着かなかった。石原の主張したレベルでのみ消費されたに過ぎなかった。また「道徳」「社会規範」「倫理」を学術的に研究しあるいはそれを専攻した者が道徳科教員になることができるわけではない、という事態にも目を向けさせることはなかった。しかし、国語科が道徳科目であることと、これらの事態とははっきりと連動しているのだ。その「連動」こそが国語科に従来からずっと課せられてきた役割なのである。そのことを見えなくする。

従来からの問題のその2.それは国語科が「言語活動というテーマ“について”教える」教科であるという以上に「言語活動を“させる”」教科としてよほど見なされてきたことである。「読む」ことや「書く」こと「について教える」というよりも、「読む」「書く」をとにかく「やらせる」教科だったということである。「算数」「理科」「社会」といった科目が「教える内容」によって名づけられているのに対して、「国語」は「やらせる事柄」によって名づけられているというカテゴリーの違いがあるというわけである。その点で、「国語科」はたとえば「社会科」「理科」等に比較してはるかに「実技科目」に近い。その「実技性」につけられた教科名が「国語」だからだ。そして、前の箇所でも述べたような「文科省が義務教育課程の教員に専攻してほしくないような専門分野は、全部、国語科の内容であることにしてしまう」ことが可能なのは、あらゆる内容が、それを「読む・書く・聴く話す」という言語活動の対象にしてしまえば、国語科の分担として強行できてしまうからである。このことによって、国語科は二重に学術性の低い教科となった。一つは、「文科省が専攻者を教員にしたくない分野」は「読解課題」として設定すれば、いかなる分野も「国語科の分担領域」にしてしまうことができるということである。つまり、学術的な文章であってもその分野の素人が文章の選択配置をしてカリキュラムを策定し、また教員として解説する教科にしてしまえた、ということである。もう一つは、「言語活動というテーマを教える」教科ではなく、「言語活動をさせる」教科であるため、ここでもまた「学術的知見はどうでもいいからとにかく実際に言語活動ができてみせる」者が担当すれば良いことになった。そしてもちろん「誰が実際に言語活動ができて」いるのかの判断を下す者にもまた、学術的知見があるというわけではないのである。そういうわけで、国語科で言語活動と呼びうる内容を扱う場合も、「言語活動という話題領域を学問的に専攻した者」がカリキュラム策定や教育を行なうのではなく(むしろほとんど排除されていて)、その代わり国語科教員の有資格者がカリキュラムの策定や教材の選別を行ない、国語科教員や小学校教員がその教育にあたる、というようになっていることだ。その国語科教員には、「言語活動という話題領域を学問的に専攻した者」がもつような学識はたいがい欠落している。石原にしても他よりましなほうだが、それでも「専門家」に比べればだいぶ劣るし、そのことが著書のはしばしに表われている。さて、石原は上の著書群において、執筆当時の国語科の内容や出題を「まるで社会科のようだ」と言う。その感想自体にも多少疑念があるがそれは措いておこう。ともかく指摘できるのは、その「社会科のような内容」を社会科の教員有資格者になどには策定させず、国語教員の有資格者に策定させ、そして国語教員・小学校教員の有資格者に教えさせてきたということだ。たとえば「新聞作り」といった内容を、国語教員に教えさせてきたわけだ。社会科のようなカリキュラムを社会科教員になどは策定させず、国語教員に策定させ教えさせてきたことによって、「誰が得をしているのか」。おのずと明らかである。為政者にとって得なのである。

なお、「言語(活動)について教える教科」というよりも「言語活動をさせる教科」である、というこの関係は、「道徳的内容を教え込む教科」というよりも「何であれ教育制度がさせる内容に忠実であることが道徳的である」という関係とおおむね類比的である。つまり「道徳を教える教科」から「それをすることが教育制度に従順であるがゆえに道徳的であることになる教科」へと変わりつつある、という事かもしれないわけだ。「内容」から道徳的要素が減っているからといって、道徳を教える教科で無くなっているとは言い切れない。単に「国語科」が、「体育科」や「音楽科」のような科目になっただけかもしれないわけだ。言わば「感情労働のような科目」である。

従来からの問題点その3.国語科教師は「読解力」「説明文」「評論文」「感想文」などといった固有の業界用語を曖昧に用い、そのことによって、国語科の扱う対象というものが自存する、とでもいうような気分を作り出してきた。たとえば「読解力」という能力が存在し、「説明文」という対象が存在するような気分を作り出してきて、そのことにあまり疑念をもたなかった。だが、このような業界用語によって、生命科学の文章(例:中村桂子)だろうが社会心理学の文章(例:池田謙一)だろうが文章すべてを「国語科の担当」ということにしてしまうことができ、これらの書き手と同じ専攻者たちから教育資格を奪ってきたのだから、この用語使用を見落とすわけにはいかない。石原の著書の場合で言えば、たとえばこうだ。石原はこの二冊の中で「説明文/評論文」という二項対立でものを語っている。だが、これらはすべて「国語教科書かまたは高校の国語入試かに採用された文」であり、つまるところ国語科教員の有資格者によってすでに選別された後での分類に過ぎない。だから新聞の報道に登場するような文章や大学の概論書には該当しないというような事柄を、「説明文」の特徴として挙げることになる。つまりたとえば、「説明文」の多くにみられる重要な特徴である「専門用語を用いている」というような事柄が石原にはまったく考慮されていないのだ。それどころか、石原は「文の内容が理解できる」ことと「文の真偽が判別できる」ことを区別している様子もほとんどまったくない。つまり「説明文を読む」学習が終了すれば、「文の真偽をも判別できる」ようになるとまで思っているふしがあり、しかもそれは中学校程度で終了する容易な学習課程であるとも信じているふしがある。仮に石原はそこまで思っていなくても、読者の側にはそこまで誤誘導され思い込む者も現れる。しかし、石原が「説明文」をそこまでナメてかかることができるのは、単にそもそも国語科教師が扱うことができるような文章しか教材や入試問題に採用されていないからに過ぎない。自分たちで身の丈に合うべく選んだものを、自分たちに都合が良いように特徴づけランク付けしているのに過ぎないだけだ。そのことを石原は上の著書を書いている時間のうち八割くらいの時間は失念しているわけだ(ただときどきその事実を思い出して書き留めている箇所もあるにはある。しかしそれは他の箇所と整合していない)。ちなみに同様に、石原の挙げる「評論文」にもまた偏りがある。その偏りとは、「評論文」というものを、著者の言いたいことを「主張」する文と見なし、そのことによって「問題を提出し、そして解決を試みる文」を考慮の外に置いていることである。これはおそらく教科書や入試問題の「長さ」ということに規定された事情であるが、しかし本当は大きい問題である。ただこれについてはここではこれ以上は述べない。この点に関しては、哲学の文を題材にした大学入試問題については入不二基義『哲学の誤読』の第一章等で述べられている。いずれにせよ、石原は「評論文」の読解の手法として本文の内容を一文にまとめた主題文を作ることを提唱しており、「主張」の形で捉えることができる文章のみを念頭においていることになる。

従来からの問題点その4.それは「大学ではレポートの書き方を一から教える」破目になるような事情が従来の国語科にはある、ということである。石原はこの点を見落としている。石原は『評論入門のための高校入試国語』のp15において次のように述べる。

評論はしばしば事実の記述と意見とが錯綜していて、それを解きほぐしながら読まなければならないので、高校入試国語向きなのである。

この判断が妥当なものかは筆者にはわからない。確かに言えることは、もし「事実の記述と意見とが錯綜してい」るのを「解きほぐ」すのが「読解力」と呼ばれるものの基幹であるのなら、それは生徒に二重基準を強いることになるということだ。なぜかと言えば、石原が重視する「説明文を書くという学習」において、そんな「錯綜」した文章を書くことは許容されないだろうからだ。つまり、「読解」の時間には「事実の記述と意見との切り分けを読み手が行なうのが大事だ」と指導され、「作文」の時間には「事実の記述と意見との区別を書き手が行なうのが大事だ」と指導されるのなら、その「読解」は何のために行われているのか、その「作文」は何のために行われているのか、ということになるのだ。そういうわけで、「大学入学」まで(つまり「大学入試」が終わるまで)レポート等の文書の書き方を生徒が教われない本当の事情がそこにある。つまり、レポートを書くときにはやってはいけないような禁則を犯しているような文章だからこそ「読解力」を試すのに適している、という事情があるのであり、それがバレてしまうのだ。その事情ゆえ、大学入学までは「読解力を鍛えよ」と言われ、大学に入ったら「読み手に読解などをさせる文章を書くな」と言われることになるわけである。だからもし、この二つが同時期に行なわれ、まして同一人物によって言われるとすれば、いくら羊のようにおとなしい生徒でも「何かおかしい」と気づくだろう。そして、国語科において「読解」の比重が下がり、「発信型学習」の比重が相対的に上がるにつれて、このことが見えやすくなる。同じ事が「主題文」ということについても言える。石原は高校入試の「評論文」と彼が呼ぶものを読むとき、内容を一文にまとめた「主題文を読み手が作る」という手法を推奨している。その一方で、とりわけ中学等の学校の「作文」の時間では、パラグラフライティングの手法に従わねばならない場合、段落ごととは言え「主題文」自体を書き手が明示しろ、と要求される。だから、次のことが言える。石原は『国語教科書の思想』で、「国語科がいずれリテラシーと文学と二つの教科に再分割されるべきだ」と述べ、「リテラシーを教える教師が文学を教えると生徒が自由に発想できなくなる」ということも述べていた。しかし先ほどの主張により言えるのは、ほんとうに教師が同一人物であってはいけないのは、何よりもまず「読解」と「作文」あるいは「受信型学習」と「発信型学習」というペアなのではないか、ということだ。だって、もし同じ教師が読解の時間には「読み手の側が事実の記述と意見とを切り分けるのが大事だ」「読解のために要約になっている主題文を読み手の側が考案せよ」と述べ、作文やディベート等の言語活動では「書き手・話し手の側が事実の記述と意見とを区別するのが大事だ」「段落ごとの言いたいことをまとめた主題文それ自体を、書き手の側自身が段落冒頭に必ず書け」と述べるようでは、完全なダブルスタンダードになるのであり、生徒だって「これはおかしい」と思うからだ。だからこの二つこそ別の教科として分割し、別の教師が担当するしかない。そして事実は、その二つを別の時期に別の教育機関で行なうことによって、辛うじてそれを結果的に達成しているわけだ。石原が見ていないのはその事情であり、これは従来の国語科やその試験問題からずっと存在する問題点なのだ。

従来からの問題点その他。たとえば現代日本語の文法は橋本文法に準拠した文法のみを教えることが義務教育課程の学校ではいわば義務付けられているも同然である。そのため、現代日本語文法を学問的に専攻した人材は、国語科の教員特に中学国語の教員にはなりたがらないはずである。橋本文法が特にすぐれているという学問的な根拠はおそらく無いからだ。だから、日本語文法に見識をもつ者に適しているのは、現代日本語なら外国人向けの日本語教師であり、非現代日本語なら古文教師であるということになる。そのため、「国語科」はあきれるほど文法を実用的に使わない教科になっているし、文法に詳しい者が教員をやりたくないような内容になっている。これも従来からの問題点。あと、漢字の書き取りで専門家から見るとわけのわからない「減点」を行なっているのも、従来からの問題点であり、従来と違うのは現代では、阿辻哲次のような専門家からきちんとした批判が出ているのに、それを無視して国語科教育が行なわれているということである。中学国語教員になるためには「書道」が必須であるのもこれと関係あるのかもしれない。

いずれにせよ、国語科は文科省によって次のステージへと移行することがすでに通知されているが、それに対応したような議論状況が存在するようには筆者には思われない。