「大学選び」が必要になってしまう大学側の状況

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高校生が大学選び・学部学科専攻選びをするためには、「大学での卒論の予行練習」のような文章を時間を大いにかけて一度書いてみることが良い。しかしもちろん実際にはそんなことは通常は不可能でもある。可能なのは自分の知りたいことをすでに解明している研究を、「調べ学習」風に紹介する文章を書くところまでである。というのも、未知の問題を新たに解明するための手段は高校生にまず与えられていないからだ。たとえば調査や実験が可能な環境には高校生はないからだ。しかもそのために使用可能な文献は、書店で入手可能な程度の書籍に限定される。そして、必見であるような学術論文のほとんど全部は書店では売っていない。

そもそも、何を学ぶかが大体決まりきっている高等学校や中学校を選ぶこととはまったく異なり、大学を選ぶことは、何を学ぶか自体を選ぶことを中心に含んでいる。そしてこれは独断的に言っておきたいのだが、自分の学びたい大学を選ぶためには大卒レベルの能力が必要なのである。つまり、大学で学んで能力を高めることが本来の目的なのだが、その目的のためにはすでにその能力が付いていることがぜひ必要である、という何ともパラドキシカルな事になっているのである。

なぜ自分の学びたい大学を選ぶのにそこまでの能力が必要になるのかというと、つまるところ、大学というのが学ぶ側の都合で成立しているわけではないからだ。まず、「類似した分野ほど大学組織として近接している」という法則で専攻分野が配置されているわけではまったくない、という事情が在る。むろん假にその法則で配置するとしても問題が解決するわけではないが、実際には全然それ以前の話である。この理由は、或る意味では簡単である。少なからぬ場合、類似した学問分野ほど学問的対立が激しいので、共同で研究を進めていくことが困難なのである。つまり、学問が進歩するためには、類似した分野とあまり協働しないで隣接分野からの批判を遮断したほうがうまくいく、という事情が在る。そのため、類似した分野どうしは、しばしば大学組織として別の学部や別のキャンパスに置かれることになるのだ。これは学ぶ側、大学を選ぶ側からすれば、ようするに「お前はどっちの味方になるの?」と迫られることなく、しかし実質的にはどっちかの陣営に付いてしまう、ということを意味する。「誰に師事したくて誰には師事したくない」という学生の希望がまったく形成されないうちに大学を選ぶと、いわば「誰を支持し誰を支持しないか」を大学組織の側に委ねた格好になってしまうのである。

もう一つ現実的な事柄を述べておくが、「卒論を誰に師事して書きたいか」という点を重視して大学を選ぶことはまったく現実的ではない。大学を選ぶほとんど決定的なはずのこの点が、実はまったく当てにできないのだ。大学では教員が突然留学したり突然異動したりすることは、あまりにもよく在ることだ。また高校生がもし自力で探して良いと思うような教員がいるとすれば、それは学内では大人気でありその大学の看板とも言えるほどの教員であり、下手をすると抽選とかその他なんらかの選抜をくぐり抜けないとならない教員である可能性がきわめて濃厚である。だからその教員一人だけのためにその大学を選ぶことは推奨できない。選抜に漏れた場合や教員が異動した場合でも、なお、その大学に、或る程度の魅力が感じられるような選び方をする必要が在る。だからつまりこの点からいっても、大学というのは学ぶ側の都合で成立している組織ではないということなのだ。

大学というのが学ぶ側の都合で成立しているわけではない、という以前にそもそも大学は、学問をその本分とするような組織編成になっているわけでもない。「文学部」という学部の存在がそれを表している。公務員や法曹職に就きたい者が「法学部」、教員になりたい者が「教育学部」、その他のホワイトカラーになりたいものが「経済学部・商学部」に入学し、そのどれでもない学問を一緒くたにしたものが「文学部」にほかならない。つまり、単なる残余カテゴリーというわけだ。だから、時間が経てばたとえば東大の「教養学部」のようなものが新たにできて、その区分自体を無効化していく。つまり東大の場合、文学部とは「古い学問の寄せ集め」のことにほかならず、教養学部とは「新しい学問の寄せ集め」のことにほかならなくなった。内容によって区分されているのではなく、就職レリバンスと時代の新旧のみによって区分されていた。とりわけこの「文学部」と「教養学部」の棲み分けが、前述した「類似した学問分野ほど学問的対立が激しいので、その遮断のため」に大いに役立ってしまっていたことは言うまでもない。その東大を全国の大学がモデルとして無自覚的に採用しているため、「学問の内容上の類似性」によってではなく、就職レリバンスによって大学組織を編成するという「ものの見方」が当然のように行なわれることとなった。1980年代までの「大学を内容で選ぶべきだ」というのはつまるところ「大学卒業後何になりたいかによって大学・学部を決めよ」ということに過ぎなかったわけだ。この時期まではどのみち大学生活の前半は教養部で潰れる、最後の一年間は就職活動で潰れるので、「学びたい内容を学ぶ」ための大学という見方自体、笑止千万、滑稽なものでしかなかったのだ。

そのこととも関連するが、大学を選ぶというときに「卒論を誰に師事して書くか」という点から考えようとしているこの文章自体が、そもそも「文学部」的過ぎて一般的ではない。法学部だの経済学部だの商学部では卒論など特に一般的ではないし、教育学部のそれもたいがいは形だけのものである。大学の学部生の期間を「研究者予備軍」として捉える見方が、文学部に固有のものであり文系大学生全般の平均や多数派ではまったくない。つまり卒論を「大学院進学のための前哨戦」と捉えて深刻に考えることがまったくの少数派のものである。にもかかわらず、まさに少数派であり、就職ともまったく結びつかないうえに、現政権からは今後ますます弾圧されかねないがゆえに、その立場は保護される必要が在ると私は感じる。それにこの立場は、一般学生には縁が薄いとは云え、法学部・経済学部・商学部・教育学部の教員兼研究者やその志望者学生のものでもあるのだ。

要するに、大学はそもそも学問を本位とする組織になっておらず、また、学ぶ側の都合を重視して編成されている組織でもない。言わば「学生に対して大学が何をしてくれるのだろう」と期待して入学するような所ではなく、反対に「学生が大学に何を貢献してくれるのだろう」と大学側が期待しているような所だと思ったほうがまだ実情に近い。卒論というのは学問的な貢献が期待されているはずの制度だからだ。つまり学問的に貢献していないような卒論ならば、教員の本心としては落第にしたいようなものでしかないはずだからだ。卒論を課すというのは、だから実際に期待されているのは「大学や学会への貢献」にほかならないのだ。そしてここでの貢献とは、次のようなものではない。すなわち「〇〇学はまるでつまらないので、面白くしてやろうとしてこの卒論を書きました。どうです、これで面白くなるでしょう?」というものではない。このような考えのもと研究者としての生活をしていた人々が確かに昔は多かったかもしれない。すごく多かったといっても良い。だが、今はもうこれはダメだ。「ならば、あなたが面白いと思う別の教員や分野を見つけて、そちらへ入学してください、来る場所を間違えましたね、さようなら」となるのがオチである。こういうことが許されるのは、まあ大学院に学生が進学し次代の研究者になることを最初から前提にしている東大と京大だけだと思ったほうが良いし、それらの大学の学部生にはこの文章全体が不要でもある。大学を選ぶときも、当然そのような考えの者は受け入れられないことを前提にしなくてはならない。

他にもいろいろ言及可能な論点は在るが、ともあれ総じて「誰に師事して卒論を書くか」という観点での大学選びは、高校生には絶望的に難しい。とは言え、まったく打つ手がないわけでもない。「大まかな選択前提」のリストのようなものが在れば事態はだいぶ進展する。たとえば「社会学だったら、東大か明治学院大か立教大か武蔵大か首都大・千葉大・学芸大あたりとかまあだいたいそんなあたりだよな」というような「選択前提群」の候補というものが在ると良い。問題はむしろその前提から選ぶ前の段階の「そもそも社会学にするかどうか」という点のほうになる。

「〇〇学」にするか「××学」にするか、という選択を高校生が行なうことはさらに一段と絶望的に難しいし、絶対にやめた方がいい、と言いたいところが在る。高校生に可能なやり方としては、ともかく何冊もの学術的著作を並べてみて、その中で相性の良い著者の分野を選ぶ、ということだ。自説の正当化の方法や語り口など、そういった事柄への相性・好き嫌いで決めて構わない。その方が良いくらいだ。そしてその著者が、別の著作の中で「自分の所属する分野」の悪口を書きまくっている人や、その中での異端児ではないことを確認しておくこと、までだ。異端児でないかどうかの確認は当人の書いたものでするより、同業者の書いた他の本でするほうが良いので、この確認にも限度は在る。

高校生にできるのは、自分の関心を深めることではない。というか、「考えればわかること」に関してはいくらでも深めることが可能なのだが、たいていの場合「調べないとわからないこと」であり、そちらは高校生のうちは無理だ。だから、可能なことはむしろ「自分の関心をどのように位置づけるか」までだ。学問は多くの関心の束である。その多くの関心のなかで、自分の関心がどのような位置に位置づけられるか、そのことを解明しておくこと、これが高校生にまだしも可能な課題である。なぜ可能かと言えば、「概論書」にでも記載されている常識レベルの関心と照合すればいいからだ。そして、それをまとめたものが「調べ学習」ふうの文章にまとめられればなお良い。そのためには、相当多くの事柄を圧縮した形で高校生のための情報として提供される必要も在る。当プロジェクトの今後の課題としたい。