世界初の発見を高校生がするための前提

少し古い文章の再掲です。

戸田山和久氏は『科学哲学の冒険』において、科学を「新しくかつ正しいことを言う活動」の一種として位置づけました。そして「新しいことを言うだけ」「正しいことを言うだけ」なら容易である、とも述べました。難しいのは「新しくかつ正しいことを言うことなのだ」というわけです。しかし、ここで混同が起こりやすいのです。すなわち「新しいことを自覚的に言う」のと「新しいことを言ったことに偶然なっている」のとでは全然異なる、のでありこれを混同すると「新しいことを言うだけなら容易である」と結論されてしまいます。しかし言うまでもなく、科学とは「新しいことを自覚的に言う」活動で(も)なければならないのです。科学的発見は偶然なされるかもしれませんが、科学的発見の発表活動は偶然であってはならず自覚的行為である必要があります。つまり科学者として発表するからには、その内容は偶然新しいことや偶然世界初なのであってはならず、きちんと確認したうえでの世界初の内容である必要があるのです。戸田山氏は当該著作でこの次元については特にこれといって考察はしていないと思うので、ここからは自分で考えてみます。

以上述べたことはそのまま大学での卒論にも当てはまります。卒論とは「新しくかつ正しい」内容である必要があり、しかもその新しさというのは、偶然のものではなく、意図的なものである必要があります。同じことですが、卒論の内容は世界初の発見を偶然含んでいるのではなく、世界初の内容を自覚的に含んだものである必要があります。しかも、卒論の内容は、「単に世界初だから」発表します、というのでもダメだ、と酒井聡樹氏ならきっと言うでしょう。というのは、酒井氏は「まだ誰もやっていない研究だから」という理由づけに対しては、「そんなのはダメである」という立場だからです。「まだ誰もやっていない研究だから」やりました、というのだけではダメであり、というのもそんなのは当たり前だからであり、その上にさらなる高次の意義付けを酒井氏は論文に求めます。それは科学者共同体や人類共同体への貢献という形で語られうるものです。だから論文への要求が戸田山氏よりハードルが高いと言いうるわけです。

卒論も論文である以上、「自覚的に新しい内容であり、当然正しい内容であり、研究者共同体にとって意義のある内容」であることが最低限必要である、ということになりました。

しかも論文・卒論の内容が意図的に新しい内容である、ということは次のことを意味するわけではありません。すなわち、論文とは、有史以来・全世界の過去の全論文・全学術的著作を悉皆的に検索したうえで「誰もまだ言っていない」ということを完全に確認したうえで、発表されなくてはならない、これです。こんな内容を意味しているわけではないのです。というかむしろ、そんなことをすることなく「自分の書く内容は世界初である」ということを確信できるようでなければならない、のです。これは今私が勝手に付け加えた新たな条件です。「意図的に新しいことを言う」とは、過去の全発表をくまなく検索などしたりせずに、むしろ最小限の労力で「自分の言っていることは世界初である」という確信が得られるような、そういう状態でなければならないのだ、という条件です。

ここで翻って人文系の論文についてちと思いをめぐらせてみます。今までの大仰な議論が馬鹿馬鹿しくなること請け合いです。当たり前ですが、人文系の論文は、有史以来の過去論文・過去著作のすべてに当たって自説が世界初であることを確認したうえで発表されているわけでは、まったくありません。とはいえ、まったくの旧説の反復でしかないわけでもありません。人文系の論文というのは、最小限の条件として「同業者集団の中では世界初の内容である」という側面はあるからです。たとえば、ある学会誌に発表された論文は、その学会初の発見を含んだ内容ではあるはずです。海外の主要な学会や関連分野の学会まで含めてもそうなると思います。そのレベルの世界初は自覚的行為の結果であり、世界初の内容に偶然なったというわけではないのです。しかし、それ以上の要求になると、とたんに「世界初」の形容は疑わしくなります。あまり関連性が高くない分野の学会や、古典的な著作物、海外のマイナーな学会などまで含めての「世界初」であるかどうかは、自覚的行為の結果によって決まるわけではありません。もし世界初だったとしてもそれは偶然です。そういうふうになります。

さて、今考えたいのは、大学生の本物の卒論のことではなくて、高校生が大学選びのために書く「卒論以上」の文章についてなのでした。

とは言え、学者の書く本物の論文とも同じことが言えます。学者は世界初の発見を論文に書きますが、それは世界初のものを書きたいという意思によるわけではありません。そうではなく、学者にとっては「自分のわからないことを知りたい」という意思によるものであることが多いはずなのです。ただ、学者は、国際的な同業者集団のなかで何が既知であり何が未知であるか、ある程度は把握しています。そのため結果的に「自分のわからないこと→同業者集団全体でまだ知られていないこと」というふうに変換して把握することが可能になっているのです。

ここで、唐突ですが、図書館を使った調べる学習コンクール の一定の意義について考えることができるようになります。このコンクールは、実験や観察やフィールドワークやインタビューによって知ることが目的の探究ではないものをおそらく扱っています。そうではなく、実験や観察やフィールドワークや…の結果が図書館に存在する書籍に書かれている、ということの調査を以て目的とする、という探究です。「書かれている」という事実を突き止めればいいわけです。少なくとも「図書館の本に書いてあるからそうなのだ」という仕方で議論を正当化することが許容されるはずのコンクールなわけです。実験などを自分でおこなう必要はないのです。このコンクールは、「自分の知りたいこと」が「すでに本に書かれているか」によって成否が決まり、しかもその正しさも「本に載っているから正しい」という言い方がある程度以上許容されるようになっています。もちろん、実際上のことを考えればそこまで盲目的である必要もないわけであり、複数の本に書かれている内容が食い違っていたりするのを自分なりに再検討し、あるいは書かれている内容に対して疑義を投げかけることも可能でしょう。場合によっては、そのための実験やらをやることすら推奨されているコンクールなのかもしれません。しかし、ともかくそこまではしなくても良いコンクールであるだろうこともたぶん確かなのです。

こうしたコンクールは、「特定の集団のなかでの世界初の発見をする」ことの前提を満たす行為と類同的です。学者もまたこのコンクールに提出する文章と同じような手続きを、ただしもう少し専門的な文献で行なうからです。そこには大きな違いはないのです。ただ、学者は、文献に書かれていることを鵜呑みにしてはならず適度に疑ってかかるべきであり、またたいがいのばあい、「文献に載っているから正しい」というような立論をすることも許容されがたいでしょう。文献調査はあくまで前提であってゴールではないのです。しかし高校生の、大学選びのための「卒論以上」の文章ならゴールにすることも許容されて良いのです。つまり、高校生はこのコンクールのような手続きによって大学選びのための文章書きをすることが、一つの手段として考えられるわけです。そのことによって「世界初の発見」をする練習にもなるわけです。

少し半端ですが、今はここまでにします。