学生向きではない欠陥書:戸田山和久『新版 論文の教室 レポートから卒論まで』

はじめに

戸田山和久『新版 論文の教室 レポートから卒論まで』(2012,NHK出版)を欠陥書として取りあげることにしたい。ただしこの本にはある程度読むに値する内容も含まれている。ただ、その内容を生かすことができるのは、結局自身が研究もし研究論文を書いてもいるような大学教員にほぼ限られるだろう、とも言える。つまり学生が読んですぐに役立てられるような、初心者への配慮の行き届いた本ではまったく無い。同様に、高校生や中学生の教師といった「論文書きの素人」が読んでも、あまり役立てることはできない。というか、逆効果の可能性すらある。中高生を教えている人の多くは、「論文」というものにひどく疎いからである。そういうわけで、この本を比較的薦められる相手は、実際に自身で研究をし、自身も多数の論文を学会誌向けに書いているような大学教員に限定されるだろう。ただしそこまで言っておいて何だが、筆者はそういった世界とはまったく無縁の部外者ではある。ただ学術論文を読んだことくらいは無論ある。

そこで以下、研究的な生活を送っている大学教員限定ということで、この本の読み方の提案を行なってみたい。また、内容の一部は到底許容できるものではないので、それについてはこの文章でも主題的に取り上げて批判しておきたい。

なお、余談ではあるが、筆者自身は論文の書き方本として酒井聡樹『これからレポート・卒論を書く若者のために』(2007,共立出版)(amazon)を薦める。こちらの本の最大の欠点は、大学教授だろうが大して実行できていない難事を初心者に薦めているということである。なので、この本に書かれたことの1割でも5%でもできれば良い、というつもりで大学生の方は読まれると良いと思う。

素人に与える「論文とは何か」の誤解

ところでこの戸田山本を初心者や学生や中高生の教師に絶対薦められない理由の一つが、「論文とはいかなるものか」についてちゃんとしたイメージがこの本を読んでも絶対伝わらない、というものだ。それは「何が論文の典型なのか」ということでもある。典型的な論文というのは、学者が学会誌に発表するような論文であり、それもできれば審査つきの論文である。ところが学会論文がぜひとも必ず満たしていなければいけない条件というものが、この『論文の教室』ではまともに触れられていなかった。その必須条件とはこうだ。論文とは世界初の新発見を含んでいなければならない、これである。これは学会論文の話ではあるが、卒論だってだいたい同じようなものだ。他方、大学で試験代わりに課されるレポートなどは、あまり、そうでは無いだろう。理系の実験レポートもたぶん違う。だからこれは、あくまで卒論以上の論文の特徴なのだ。しかし、卒論以上の典型的な論文の必ず満たしていなければいけない条件を、この著書はまともに伝えていない。これがこの本を絶対素人に薦めてはいけない理由である。世界初の新発見をすることがどれだけ大変なのかが伝わらないまま、「そうかこれが論文の書き方か」と納得されてしまうからである。繰り返せば、世界初の新発見を含まず、あとは論文の形式に従って自分の主張や問題提起と解決が書かれていても、それは「典型的な論文」では全く無い。オピニオン雑誌に掲載されているような文章や新聞の社説のような文章も、典型的な論文ではまったく無いのだが、この本を読んでそういうものが論文だと思う人すら出てきかねない。

もちろんこの著書でも、きわめてわかりにくい書き方でそのことを暗示はしていた。たとえば「剽窃はいけない」というくだりがそうである。これを読んで「他人の盗作をしてはいけないのだ。なんだ当たり前だ」などと素人は呑気なことを考えるだろう。しかしそういうことではない。論文に自分の主張を書くときに、「同じことを誰かがすでに論文で言っている」という場合は、必ずそれに言及しなければならない、ということなのだ。すでに誰かが論文で書いている内容に言及することなく、それと偶然同じ内容を、自分の考えた結果だからといって自分の意見として書いてはいけない、その場合はその「すでに書かれた論文」に言及したうえで、「自分もそれに賛成である」と書かなければいけない、そう書かなければ剽窃である、ということを意味するのだ。つまり、論文を書くときには、自分と同じ意見を誰かが有史以来既に言っているかどうかを完全に把握したうえでないと、書けない。知らないうちに剽窃になっているかもしれないわけだ。そのことが初心者にはたぶん伝わらない。この著者のこの書き方では絶対伝わらない。なので、この書は論文についてのかなり基本的で典型的な性質をきちんと伝えている本ではないことになる。

…と言ってはみたが、その実態はかなりお粗末ではある。「有史以来同じ意見を言った者がいるかどうかを完全に把握」しなければならないのは、自分の論文を発表する先の学会の歴史上だけのことである。ほとんどの学会は、1世紀の歴史も無いことだろう。無論、違う学問分野のことなど全く知らなくて良いし、「誰もが読んでいるべき古典」なども知らなくて良い。つまり、自分の発表先のその学会での「古典」的存在を押さえていればいいのだ。要するに論文を書く場合は、その狭い範囲内では完全に知っている必要があるし、またそれは日本語以外の言語で書かれたものも含むことが多い。その一方で、その分野以外であればどんなに常識的な文献であっても知らないことが許され、実際にそんなことは当然のように起こっている。少し言い過ぎれば、隣の分野のことも知らないのが学者である、と思っていても良いくらいなのである。「世界初の新発見」というのももちろん、その学会の歴史上での世界初で良いのだ。

しかしともあれ、上記のように把握していれば、論文を書くことの困難のいくばくかは「世界初の新発見」をすることの困難であることがわかる。つまり困難があるのは、論文の書き方がわからないとかそういうこと以前に「世界初の新発見」をするためのやり方がわからない、ということにである、というわけだ。もちろん、それは「学会の歴史上それまで述べられてきたことすべて」を把握することの困難とも無関係では無い。そういった困難が、初心者にはこの本では絶対に通じない。この本の話題は、典型的な論文のあり方をほとんど伝えることはせず、結局は「試験代わりのレポート」の書き方に、ほぼ留まっているからだ。

念のため補足する。学会史上とは言え「世界初の新発見」であるかどうかなど、どうしてわかるのか。簡単なことである。研究者であれば「自分がわからないことを知りたい」と思えば良いのだ。というのは、もし誰かが先に述べている事であるならすでに自分はそれを知っているはずであるからだ。つまり自分が知らない、ということは誰もまだ明らかにしていないからだ、とわかるわけだ。そういうわけで、無論押さえるべきことをきちんと勉強したうえで、という条件つきで、研究者や学者はごく素朴に「自分の知りたいこと、わかりたいこと」を追求していけば、その結果何かがわかった場合、それは「(学会史上の)世界初の新発見」になるに決まっている、というわけなのである。

少しはまともな順番に並べ替えてみた

『論文の教室』は内容上の順番があまりにもめちゃくちゃであり、わかりにくい。すなわち著者自身の言い方に似せれば「構造の見通せないわかりにくさ」「どこへ連れて行かれるのかわからないわかりにくさ」がある書籍である。ではなぜ真っ当にわかりやすい順番で書けなかったか、その要因の一つは、「論文に書くべき内容」の説明を先ず最初にして、「論文が満たすべき形式」の説明を次にする、という二段階に分けたことにある。つまり、これがちゃんとした分割になっていなかったわけだ。譬えれば「まず日本の市区町村について説明し、次に日本の都道府県について説明する」と予告しておいて、ところがその都道府県の説明のときに、結局その都道府県の中の代表的な市区町村についてまた説明する、といった感じになってしまったといった状態に近いだろう。すなわちそれと同様に、「形式」について説明するというときに、論文に必要な形式的事項を挙げて結局同時にその「内容」についてはそこで説明する、といったことになったため、早い話、内容について説明する箇所が無駄に二箇所に分裂しており、しかもそこで話題がいくつも重複している、というわけである。それ以外にもいろいろな要因で、本文はめちゃくちゃな順番になっている。著者が低評価を下した「天声人語」よりもひどいくらいだし、カテゴリーミステイクについてのそれ自体はちゃんとした解説を書いた者とも思えないほどである。カテゴリーミステイクだらけの項目設定で書かれており、しかも、連想と飛躍だらけの順番で書かれているのだ。

そこで、似たような話題はなるべく連続させ、また読者であるはずの大学生が可能であるような順番に並べてみると、大要次のようになるだろう。つまり、このような順番で提示できれば、初心者が読んでもまだそこまでは混乱しないで済むだろうと思える順番を提示してみる。ただし、「重要な話題」「重要な注意事項」が抜けていると思う箇所は、抜けていると筆者が思う事項を勝手に強調形式で付け加えた。その点に関してはのちほど注釈を加える。

また、そもそも「世界初の新発見」をしていない者が、本書の内容を学んだことでそれができるようになるとも思えない。あくまで、「世界初の新発見」をすでにし終えた者がこの順番で読みそれに従っていけば、論文を書くことが可能だろう、という話である。さもなくば以下の手順で書けるだろうものは、論文とは言えない「試験代わりのレポート」課題どまりである。

  1. p26-32あたり 国語辞典・類語辞典などを活用し、語彙力を高める →「専門用語」は国語辞典ではダメ。分野ごとの専門事典が必要になる。
  2. p63-64 「とは何か」という問いは無能 →「とは何か問題」への手ほどきが無い
  3. p82-83 論文のタイトルについて
  4. p145 主張するだけと論証するのとは違う
  5. p55-56あたり 報告型と論証型の違い
  6. p38-42 43-46あたり 論文は「問い+答+論証」 →謎の用語「事実」と「意見」 →謎のフレーズ「普遍化されたものとして書く」
  7. p42-43 はぐらかしは厳禁
  8. p146-149 論証の構造 論証とは何か
  9. p149-152 論証の根拠には裏づけが必要だ →謎の用語「裏づけ」
  10. p84-87 論文のアブストラクト
  11. p94 論証の仕方 →「これまでの研究の流れの中に自分の主張を位置づける」(説明無し)
  12. p95-96 問題提起・結論・論証の提示順序
  13. p87-90 論文の要約の仕方
  14. p97 論文のまとめに書く内容
  15. p153-164 妥当な論証形式
  16. p165-176 ちょっと弱い論証形式
  17. p136-140 カテゴリーミステイクを避ける
  18. p177-184 シンガーの議論を題材にしてツッコミ所を明確化する
  19. p57-58 「新書」を読め →「新書」よりも「概論」「教科書」が優先では?
  20. p233-234 漢字の表記の方針
  21. p215-232 文法的に正しい、また読みやすい文に直す方法
  22. p259-261 「」の使い方の方針
  23. (p58 図書館の利用法)
  24. (p59-60 百科事典の利用法)
  25. (p60-63 インターネットの利用法)
  26. p65-66 新書の読み方 自分の問いの意識化
  27. p66-67 新書の読み方 チェック箇所の処理
  28. p67-68 新書の読み方 問いの定式化をしよう(という提言のみ)
  29. p126-131 問いと答のフィールドを作るという方法
  30. p134-135 問いのフィールドの実作業のノウハウ
  31. p121-125 議論の仮想敵を作るという方法
  32. p104-105 論文の特徴はその構造性にある
  33. p97-99 起承転結や序破急は論文の形式とは無関係
  34. p131-134 フィールドからアウトラインへ(直線構造へ)
  35. このくらい準備したところで、進学する大学と学部学科を初めて決め始めるのが良い
  36. p119-120 アウトラインはどう作るか問題が無かった指摘
  37. p121 問題を細分化することでアウトラインを作る
  38. p116-118 調査型の論文のアウトラインの話
  39. p75 調査の注意点
  40. p91-93 問題提起のための問題の定式化の仕方
  41. p106-115 突然、アウトラインの話
  42. p187-189 パラグラフは一つのことを言う
  43. p190-195 パラグラフはトピックセンテンスを冒頭に置いて配列する
  44. p195-199 トピックが二つ以上ある駄目パラグラフの例
  45. p201-202 アウトラインとパラグラフのつくり方は同じである
  46. p202-205 アウトラインからパラグラフへの変換の例
  47. p205-208 「問いかけでつなぐ」という方法 ここらでパラグラフライティングの矛盾が顕在化する。
  48. p208-210 ツッコミによってパラグラフを作る
  49. p78 論文の内容と形式という二分法
  50. p82 論文に必要な構成要素
  51. 本書のその他の箇所

この順番を見るとき特に注意して欲しい点を二つ述べる。

一つは、本書の内容の何割かを「新書を読むための準備」として位置づけたことである。著者は新書一冊ならば一日あれば読めるだろう、などと無責任な事を言っているが、当然その保証は無い。新書でも講義でもいいのだが、大学生がそれらを難なく理解できるなどと、この本のような入門書で前提して良いはずがない。その考慮の無さがこの本の配列を余計に分かりにくくしている、と筆者は考えたのだ。だから、新書を読むための準備に相当するプロセスをできるだけまず先に行なうことにする。たとえば文法的な視点の獲得も、新書を読むために行なう。またあるいは論文がもっている構造の説明や論証の仕方の説明も、新書を読むための準備になることを目指して行なう。ただし、語彙力がないとそもそも新書を選ぶことすらできない可能性があるので、つまり名詞形のタイトルを読む能力からして怪しくなるので、語彙力の獲得だけは新書を読むためのプロセスのさらに前に位置させることにした。ところで本書で想定しているのは実は論文ではなくレポート課題である。だが実際にはレポートを書くためにも他人の書いた論文が読めなければ話にならない。なので、その準備がそのまま論文を書くスキルをつけることにもなるのだ、と捉えることにする。

もう一つは、本書の内容の何割かを「進学する大学・学部学科を選ぶための準備」として位置づけたことだ。というのも、大学生がレポートの書き方がわからないとかそういった事態のわりと根本原因であるものの一つに、ちゃんとしたしかたで進学大学学部学科を選ぶことが可能であるような環境が全くできていない、という状況があると思ったからだ。なので、大学でのレポート課題の準備もまた、そもそも「どこ大学のなに学部なに学科」に行きたいということを、情報に基づいたうえで決めるための準備ともなりうるように、方向づけたのである。

「専門用語」は国語辞典ではダメ。分野ごとの専門事典が必要になる。→「とは何か問題」への手ほどきが無い

戸田山のこの著書には、「専門用語と日常語の区別」という概念が欠けている。なので、「他人の論文」「新書」「講義」などで「知らない語彙」「把握できにくい語彙」に学生が遭遇したときの対策が、まことに乏しい。この能力が無いと、大学学部学科をきちんと選ぶこともできないし、新書や講義をタイトルを基準にして選ぶこともできない。なので少なくとも、「専門用語」と「日常語」とでその対策は大きく異なることは言っておくべきだ。それはこうだ。「日常語」がわからないときには「国語辞典」「百科事典」をひくのが良いだろう。一方、「専門用語」は「専門事典」をひくことのほうが、優先する。ところが、このことの説明が無いのが次の箇所だ。p25。

私はかつて、心の哲学について講義をしたことがある。そのとき、期末試験代わりに論文を提出してもらったのだが、何人もの学生が「「心」とは何だろう。『広辞苑』で調べてみた……」という書き出しの論文を提出してきたので、ひとりひとり首を絞めてまわろうかしらと思ったくらいだ。心とは何か、心と脳との関係は、……という問題に何百年ものあいだ、たくさんの哲学者がああでもないこうでもないと頭を悩ませ、何百何千もの本や論文が書かれてきた。それくらい「心」とは何かを捉えることは難しいという趣旨の講義を半年聴いたあとでだよ。こともあろうに「心とは何かわかりませんから国語辞典で調べてみました」だと! これがいかに講義全体をバカにしたものだか読者のみなさんにはもうおわかりだろう。そういうことはやめた方が身のためだ。

この箇所を、一般の人が読んでも、よくわからないまま著者に同意するだろう。しかし筆者は違う。

まず著者の講義で用いられている「心」は「日常語としての心」ではない。哲学の、あるいは人文学での「専門用語」である。なので、国語辞典での「心」の定義文をレポートに書いた学生からは、「専門用語に対する異議申し立て」を専門家は読み取るべきだと思う。つまり「日常使われている“心”とセンセイの講義での“心”とはこーーんなにかけ離れてるけど、それでいいんですかい?」というわけだ。たとえば私たちが日常「頭のはたらき」と呼ぶようなことを、哲学等では「心のはたらき」と呼ぶわけだ。あるいは、こちらは知られてると思うが、「頭の良さ」を学問的に調べるのも、「音感の良さ」や「目の錯覚」を学問的に調べるのも、分野で言えばまあ「“心”理学」である。つまり「音感」や「目の錯覚」は、耳鼻科や眼科や生理学者が調べるわけでは、あまり無い。「音感」や「目の錯覚」はいわば「心」の担当だというわけだ。だからもちろん、学生が『広辞苑』を引き写したのは、著者がこの著書でも行なっているように、著者が日頃から「わからない語彙があったら国語辞典を引け」と学生に主張しているだろうことへの、ある種の異議申し立てだと受け取ることができるのである。つまり「センセイがふだん言っているとおりにやっただけなんですけど」というわけだ。ついでに言えば「心の哲学」というのも分解不可能な専門用語であり、「心」と「哲学」の単なる合成語ではない。また次の事も押さえておきたい。筆者の知る限り、哲学の専門事典で「心」「心の哲学」を見出し語にもつ事典は、その項目がどれも戸田山の同世代によって書かれたものばかりであった。要するに「心」を見出し語にもつ哲学事典は、その項目が最近書かれたような事典に限られるのである。なので、まだ若手だった戸田山の、その受講者が「広辞苑で調べてみた」とレポートに書いてきた時代には、「心」を見出し語にもつめぼしい哲学事典がそもそも無かった、だから広辞苑に縋った、という可能性が充分ある。

第二に、たくさんの哲学者が「心」について頭を悩ませ(心を悩ませ)て来た旨著者は言うが、厳密なことを言えばそれは違う。多くの哲学者は日本語を用いて悩んでいたわけではなく、英語やドイツ語やフランス語やラテン語を用いて悩んでいたはずだ。だからつまり「心という、日本語の単語」を用いて悩んでいたわけではないはずだ。しかも、彼らの悩みの多くは、それぞれの言語体系でのいわば「古文」「古語」でもある。プラトンやアリストテレスが現代語を用いて悩んでいたはずがない。だったら、過去の時代のしかも外国語を用いて悩んでいた彼らの悩みを、日本語の現代語である「心」と翻訳し直結させることには、留保がついても良いはずだ。「なぜ昔の単語と今の単語が等値できるのか?なぜ外国語の何か知らない単語と日本語の心が等値できるのか?」、もっと言えば「それを現代日本語に翻訳するとき“心”となぜ表現するのか?」と、である。筆者の茫漠たる印象を述べれば、それを「心」と表現すること自体が誤誘導させる、と言いたくなる場面はいくらもあるのだ。「いいかげん、その訳語止めません?」と思うことがいくらでもあるのだ。とりわけ言うなれば日本語の「心という単語」は伊勢田哲治風に言えば「二次的評価語」に近いものであり、「心」という単語を用いた時点で、規範的な含意を持ち得てしまう。正誤や真偽よりも正邪を話題にしていると受け取られやすくなるのだ。あるいは、一般人が「心のはたらき」として典型だと思っているのは「愛憎」や「喜怒哀楽」であるのに対して、「心の哲学」では「心のはたらき」の典型は「痛覚」「視覚」「言語習得」「演繹的推論」といったあたりであるだろう。なので、学生がして来た「広辞苑攻撃」はそれも含めた誤誘導された諸反応の派生形だと捉えることが、少なくとも専門家には求められているだろう。そう言えるはずだ。

第三に、戸田山が行なうような「心の哲学について総括した講義」を聴いたうえで「さあ、レポートを書けるもんなら書いてみろ」と脅されるのは、譬えて言えば、『サルでも描けるまんが教室』を読んだあとに「さあ斬新なマンガ作品を描けるもんなら描いてみろ」とか、『どんどん橋、落ちた』を読んだあとに「さあ斬新なミステリを書けるもんなら書いてみろ」とか、あるいは『エヴァンゲリオン』を観たあとに「さあ斬新なロボットアニメを描けるもんなら描いてみろ」とか言われるようなものなのだ。このように、読んだり聴いたりしているうちにわけがわからなくなってきたり、あるいは「これ以上何を付け加えろというのだ」と感じた場合には、取りあえず緊急避難的に、わけがわかるものに縋るのは当然の反応であり、それが広辞苑であったとしても不思議ではないのだ。だからこれは著者の講義を馬鹿にした結果なのではなく、むしろ(ある程度は)真摯に受け止めた上でのきわめて真っ当な反応なのである。そう捉えない著者の態度こそがむしろ不思議である。

以上、「“心”という、哲学(および心理学)の専門用語」についての著者の配慮の無さを中心に指摘してみた。多くの読者は著者と専門分野が異なるため、この部分をスルーしてしまうだろうと思ったからだ。このように、日常語と同じ形をしているが、定義や用法や典型例がまったく異なっている専門用語は、「いっけん専門用語の少ない」ように見える学問分野には実に多い。またさらに混乱させるようなことを言えば、分野や学派や立場の違いによって、学者どうしでも「同じ形をした用語」を異なった使い方をする場合は、まあ少なくはない。

著者のこの態度は、そのまま「とは何か問題」への理解のなさに通じる。著者はp63-64にかけて「とは何か問題」への否定的態度を記している。つまり、学生が「○○とは何か」というテーマでレポート・論文を書きがちであるが、しかしそれは止めるべきだ、という趣旨の文章を書いている。その際、著者はその態度をかなり揶揄してもいる。うひょー、テツガク的。という表現がそれである。しかし、そんな衒学的動機とは無関係に、学生が講義や学術書に接したときに「○○とは何か??」という疑問に囚われることは大変に多いはずだ。それは別にテツガク的でありたいなどという衒学的な理由からではなくて、単にほんとうにわからなくて困るからだ。それをテーマにレポートを書く場合も、「いちばん自分にとって切実な問題は、○○とは何かがわからないことなので、それについて書く」ということだって多いはずだ。

そこで「とは何か問題」についてあたらめて図式的に示してみる。学生が講義や学術書に接したとき、次のような「とは何か問題」に直面する可能性は高い。

「とは何か問題」は、その派生形として次のような疑問や反感を生む。すなわち「なぜそう呼ぶのか問題」である。たとえば、戸田山はこの本でp57で問題意識を捏造するという言い方を用いている。しかしその後読み進めても、どういう行為を指して「捏造」と呼んでいたのか、読後に思い出せない読者がほとんどだろう。なぜなら一般的な語感からすると「問題意識の捏造」に該当するような内容などどこにも書いていなかったからである。単に「問題意識の形成」についてしか書いてなかったように思えるのだ。ただその周辺の文章に何箇所か「デッチあげる」といった語が用いられてはいる。どうやらその周辺に「問題意識の捏造」の事が書いてあったということらしい。さてそこで肝腎なのは、「なぜ、それを形成ではなく、捏造・デッチあげ・問題意識があるふりと呼ぶのか/呼べるのか?」である。その論証を戸田山は特にしていない。しかしまあそれはいい。肝腎なのは、論文での「論証」としては、著者が全く述べていない「なぜそう呼べるのか?」という論証もありうるということ、そして読者の側としては「なぜそう呼べるのか?という問題意識」もまたありうる、ということである。ただしはっきり言って、物を書く人に「なぜそう呼ぶのか?」と問えば、学者も含めてかなりの確率で嫌われる。だから表立っては言わないほうが「身のため」だろう。しかし、ともかく、「なぜそう呼ぶのか、という論証」「なぜそう呼べるのか、という問題意識」というものは、それ自体は重視したほうが良い、ということだ。そこを筆者は声を大にして言いたい。

謎の用語「事実」と「意見」、謎のフレーズ「普遍化されたものとして書く」

「意見」「事実」が曖昧なまま使われている

上で予告したとおり、「意見」もまた人や立場によって用法が異なっている語彙の一つである、と言いたい。そして、戸田山のこの著作のなかで使われている「意見」という語にはほとんど解説がないため、その点特に気をつける必要がある。

p40あたりをさらっと読むとわかるのは、次のことである。

いっけん回り道になるが、まず先に「“事実”と“気持ち”とは違う」というほうを検討してみよう。これはかなりカテゴリーミステイクの気配濃厚である。たとえば「涙が止まりませんでした」という言い方(p44)を、戸田山はまあ「気持ち」と扱うのではないかと思われる。書いてはいないのでそこは推察ではある。しかし、「涙が止まりませんでした」というのは、「涙が長い間止まらなかった、という事実」と「涙が最終的には止まった、という事実」のうち、前者を強調するような仕方で表現されたものであり、事実の表現だと言っても言い過ぎではない。同様にして、たとえば「私はこの論文を読んで悲しくなりました」「私はこの論文を読んで怒りがこみあげてきました」というのも、「そういう気持ちに至ったという事実表現」である、と分類することは可能だし、ごく一般的にはそうなる。ということは、「気持ち」と「事実」とは、同レベルのカテゴリーではない、という疑いが強くなってくる。

だとすると、「気持ち」と「意見」だって同レベルのカテゴリーかどうか疑わしくなるし、何よりもまず、「事実」と「意見」が同レベルのカテゴリーであるかどうかが非常に疑わしくなるのである。

ちなみに、戸田山も巻末で推薦している木下是雄『レポートの組み立て方』(1990,筑摩書房)(amazon)ではかなりはっきりと、「事実」と「意見」とが同レベルのカテゴリーではない、という態度を打ち出している。しかしこちらの木下本を検討する前に、もう少し戸田山の説明を検討してみよう。

p46の次の箇所はかなり奇妙である。検討する価値がある箇所だ。

自分の考えや価値判断を書いたら論文でなくなってしまうのだとしたら、事実を報告しただけのもの、みんながそう思っている常識をなぞっただけのもの、過去の学者のテキストをまとめただけのもの、こういうのだけが論文ということになってしまう。だったら、論文を書くことなんかにほとんど意味はない。(後略)

ここで「考える」と「思う」という二種類の動詞を使い分けているのが著者の無自覚に用いたトリックなのである。これはどちらかに統一して構わない。なので、「考える」のほうに統一してみよう。そうすると次のようになり、著者の真意がはしなくも浮かび上がってくる。

このうち「自分の考え」は「意見」である。だとすれば「みんながそう考えている常識」というのはしたがって「事実」に入らないとおかしい。しかもそれは「みんながMという常識を考えているという事実」というだけではない。「みんながMという常識を考えているなら、Mは事実である」という主張でもあるのだ。Mをなぞったものならば論文になるのだから、そういうことになるはずだ。

「自分の考え」だと「意見」に分類されるが、「みんなの考え(ている常識)」だと「事実」に分類される、これが戸田山が暗黙のうちに前提している「事実と意見の違い」の基準だった、というわけである。そのことがこの箇所にはしなくも表われてしまっていたのである。とは言え、この区分・語用規則はそれほど馬鹿げたものではなく、ある程度理にかなっているように思えるところがある。これ自体は検討に値する。ただこれだけでは戸田山の「意見」という語の用法のすべてを解明したことにはならない。

次の論点はこうである。戸田山は「事実を報告しただけのものが論文になってしまうなんておかしいではないか」という趣旨の事柄を書いていた。しかし、「世界初の新発見」を学術論文の必須条件と考える筆者からすると、この趣旨は少し贅沢だ。なぜなら「論文であるためには、まず事実の報告があることが最低条件ではないか」と思うからだ。しかし、もし戸田山が「世界初の新発見された事実」のことを「事実」と呼んでいないなら、話は別である。そして、その可能性は決して低くはない。というのは、戸田山が巻末で推薦していた木下是雄『レポートの組み立て方』(1990,筑摩書房)でならそう分類される可能性が高いからだ。はっきり言ってしまえば、木下本では「世界初の新発見された事実」というのは「意見」に分類されるのだ。

さてここで木下本の検討をしないといけないところである。しかしこの「事実と意見」という話題に関していえば、ほとんど幼児の落書きのような粗雑な分類なので、まともな検討を行なうことの価値は大変低い。そこでまず戸田山本に直接関係するものについて先に書き、その後、超特急で問題を指摘だけしておく。

戸田山本に直接関係あるだろう木下本の難点は次のものである。この本では「意見」という語が二義的に用いられている。次の表を見てもらうと早い。

「事実の記述」と「意見」(木下是雄方式)
「事実の記述」 「意見」
  • 事実(直接経験の事実・伝聞の事実)
  • 法則 law
  • 意見 opinion
    • 推論 inference
    • 判断 judgment
  • 仮説 hypothesis
  • 理論 theory

上掲の表にも記したように、木下は「意見」を二義的に用いている。「事実(の記述)」と対比させた「意見」と、その「意見」の下位分類に含まれるopinionの訳語としての「意見」とである。だからたとえば「進化論」などは木下の考えだと万人に容認させる域に達していない仮説であるから、「事実」のカテゴリーには入らない。そして、木下の分類だと「事実(の記述)」に入らないものは皆「意見」なのである。しかも「推論」と「判断」は「意見 opinion」のさらに下位分類とされている。

そして戸田山は木下のこの著書や姉妹本をまったく検討してみせていない。単に称賛しているだけだ。そして、「事実」と「意見」についての自分自身の用法や定義も明示的な説明をほとんど放棄している。なので、この木下の「意見」の定義や用法やそこに絡んだ混乱をそのまま継承していてもおかしくない。そしておそらくそうなのだ。戸田山もまたある場合には、「意見」をopinionの意味で用いたり、別の場合には、「事実(の記述)」に対立するような「推論+判断+意見opinion+仮説+理論(進化論など)」の包括概念として用いたりしていたのである。あるいは、少なくともそう見なすのが、戸田山本の不可解さをもっともよく説明する。

このことからわかるように、戸田山が「論文には自分の意見をぜひ書いてほしいのだ」というときには、ある場合には「いわゆる一般人の言う意味での意見を書いてほしい」の意味であり、別の場合には「まだ(進化論並に)不確実であるような仮説や理論であっても怖がらずにバンバン提唱してほしい」の意味と、二通りあるのだ。…というか、そう解釈しないと、この本のこの箇所はまったく救いようがないことになる。

さて木下本の問題点を列挙だけしておく。一つはp94で「今日は、海が荒れている」を事実の記述であると認定しているも同然のことを書いているが、つまり「実際に海に行ってみればわかるから、事実である」という内容を述べているが、それは当然おかしいということである。そういうタイプの文を分類するために「判断」という分類項があったのではないのかと思わずにはいられない。つまり、事実という語の用法からして木下には何か考えが足りないまま書き始めた疑いが強いということである。第二に、「事実/意見」という二項ではなく、「事実の記述/意見」という二項で話をしている。つまり「事実として正しいか誤りか」ではなく、「事実として正しいか誤りかいずれかである」か「そうでないか」という二項を用いている。それは「真理値を持ちうるもの→事実の記述/そうでないもの→意見」ということなのかもしれない。しかし、それは意見opinionには言えるかもしれないが、仮説や理論、あるいは推論や一部の判断にも適用は厳しい。これらの多くは「非事実」というよりは「未事実」なのであり、いずれ「事実」に昇格する可能性をもっている内容だからだ。要するに、木下の「意見」には「非事実(それもまた議論の余地がある)」と「未事実」とが混在しており、それならば偽命題をも「真理値をもちうるもの」として「事実の記述」に含める意義がない。筆者としては、推論や仮説もまた、事実に昇格しうるものは「事実の記述」(真理値をもちうるもの)の側に分類して、そのうえで「真理値をもちうる文/真理値をもちえない文」の二項の枠組をとるのが次善ではないかと思う。ただしその場合でも絶対的な二分法ではない。この二分法は目安に過ぎないし誰もが容認するような枠組などではない。と、以上二点を挙げるだけで充分であり、代替案などを今慌てて出す必要などない。

木下本は幼児の落書き並みに杜撰な分類であり、それを追認した戸田山もこの話題に関してはほとんど見るべきところが、無い。ある場合には「意見」と呼んだり、かと思うと「考え」などというまたわけのわからない概念を出してきたりして、混乱したままである。少なくとも読者は混乱させられたままである。

「論拠」と「証拠」を使い分ける著者

「意見」という語の戸田山の曖昧さは、そのまま「どういう論証が良いのか」の曖昧さに連なっている。もちろん論理学的に妥当な導出であるかどうかの話題ではなくて、命題内容自体が妥当かどうかの話題で、である。戸田山はここでも曖昧な記述を続け、読者を混乱させるが、それでも一つだけはっきりわかることがある。戸田山はここで「論拠」と「証拠」という単語を巧みに使い分けている。ここで「証拠」を伴うような論証は良い論証になりうる、と戸田山は考えている、少なくともこれだけははっきりわかる点だ。

しかし、その前に少し迂回しよう。たとえば「ある映画を見てわたしは涙が止まらなかった。だからこの映画のテーマにわたしは賛成である」という論証を考えてみよう。この論証の書き手が「涙が止まらなかった」証拠はあるだろうか。刑事事件のアリバイ同様、こういう場合は「証拠が無い」のである。もちろん、2017年の現代ならば携帯で自撮りしておいたとか、そういう画像があるかも知れないが、その画像が存在すること自体が、証拠の性質をむしろ薄弱にするだろう。「涙が止まりませんでした」というような心身の状態で自撮りをしているということ自体が、逆に証言が疑わしいという証拠になってしまうのだ。また、この論証がダメな理由は、「気持ち」を根拠にしているからではない。論証として不確実だからだ。たとえば「涙が止まらない」ことが「対象に対する賛成の態度」を帰結しなければならないのであれば、玉ねぎを調理することや催涙ガスの被害や花粉症の人の花粉体験などとの違いを述べる必要がある。あるいは、映画を制作する側からすれば「視聴者に涙を流させる映画を作るなんてチョロい」と思われているかもしれないことも考慮する必要がある。だから「涙が止まらない」というだけでは「映画のテーマに賛成」は論拠としても証拠としても弱い。そして自撮りは「涙が止まらない」ことの証拠にはなっても「感動している」ことの証拠としては疑わしい、それだけのことである。「気持ち」はダメ、「意見」はOKという話などではないのだ。「気持ち」を示す証拠からまあまあ妥当な論証(枚挙的帰納法やアナロジー程度のちょっと弱い論証形式)によって導出できるのなら、論証としてダメであると言われる筋合いなどはない、が、しかし大学でのレポートでは、「自分の気持ち」を示す証拠からまあまあ妥当な論証によって結論が導出できるような課題はまあほとんど課されない、というだけのことである。

そういうことを踏まえたうえで、戸田山の主張を再確認してみよう。次はp39。強調は引用者による。

(前略)論証とは、自分の答えを論理的に支持する証拠を効果的に配列したもののことだ。

次はp41。対話体で書かれている箇所の一部を引用する。強調は引用者による。

―あれ。だとすると、その論拠にもまた論拠が必要ですね。

―そういうことになるね。いま行われている動物実験のほとんどが不必要なものだと言うためには、いまどんな動物実験がどれくらいの頻度で何のために行われているかといった事実の裏づけが必要になる。(後略)

ここでの「事実の裏づけ」という箇所は「証拠」と置き換え可能なように筆者には思える。次p41-42。やはり、対話体で書かれている箇所の一部を引用する。強調は引用者による。

―そういうふうに、論拠を挙げ、その論拠に論拠を挙げ、ってやっていくと、いつまでたっても終わらなくなっちゃうんじゃないですか?

―おっ。スルドイね。原理的にはそうかもしれない。でも、たいていの場合、まあ、これはこれ以上論拠を挙げなくても、たいていの読み手も認めてくれるでしょうというところで打ち止めになる。たとえば、国連のしかるべき機関が調査した統計だから、まあ信用しましょうよ、とか、これってすごく当たり前の常識的な考え方だから、みんな受け入れますよね、といったところで止まる。(後略)

国連のしかるべき機関が調査した統計という箇所は「証拠」と置き換え可能なように筆者には思える。また、みんながもっているすごく当たり前の常識的な考え方が暗黙の裡にこの著書のなかで「事実」と同列に扱われていること、つまり「意見」の側に分類される項目でないことは、すでに述べた。なので、すごく当たり前の常識的な考え方もまた「証拠」の一斑として扱われていると見なすことが可能である。次はp44。

論文の評価のほとんどは、論証が正しくなされているかによって決まる。つまり、主張(結論)を支えるだけの論拠がきちんと与えられているかが重要だ。これに比べれば、結論じたいの正しさはあまり重要ではない。(後略)

「きちんと」では説明になっていない。次もp44。

たとえば私が熱心な死刑廃止論者で、死刑廃止運動に全エネルギーを傾注しているとしよう。でも「『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の、ビョークが絞首刑になるシーンで涙が止まりませんでした。人は人の命を奪ってはいけないと思います。だから私も死刑廃止に賛成です」みたいな「論文」と、「死刑は存続すべきです。なぜなら……」としっかり論証がなされている論文が提出されたら、迷わず後者に高い評価を与えるだろう。結論がどっちであるかということは、じつはほとんど重要じゃないのである。

「しっかり」では説明になっていない。ダメな方だけ具体例を挙げ、良い方には挙げていないので、参考にも指標にもならない。またダメなほうが「気持ち」を書いているからダメである、という著者の評価も間違いである。そうではなく「(自分の)気持ち」を論拠にして導出する結論(「人は人の命を奪ってはいけない」)としては、導出が飛躍しすぎているからダメであるのに過ぎない。次はp45。強調は引用者。

私の考えでは、論文で認められない主観的記述とは、「私」を主語にした文のことではない。じゃあ、何だ?というと、それは論拠が示されていない判断・主張のことである。

ここで読者を混乱させる原因とも言える表現が出てくる。「“私”を主語にした文」、これである。「主語」についての文法談義は今しないし、筆者の任ではあまり無い。ここでは、英文法をインストールした日本語母語話者が使うような、多数派の「主語」の使い方だと受け取ることにする。ようするに普通に・非学術的に「主語」と思えば良いとする。ところで、たぶんすべての主張は、私を主語にした形に書き換えることが可能である。「私は○○と考える」とかそういう形に変換可能だからだ。主張の強度に応じて動詞を変えればいいだけだ。だから「“私”を主語にした文」一般についての主張だと捉えると、戸田山のこの説明は虚しくなる。一方で、「必ず主語を用いないと表現できない文」がありうるのか、と考えると、どうもそれも断定できないように思う。たとえば「私は悲しい」は「悲しい出来事が起きた」とか書くことができるし、「私は怒りを感じる」なら「憎むべき相手がいる」とか書くことができる。また、それ以外でも、受動態で書けばたいがいの事柄は書けそうだ。要するに、「すべての主張は私を主語にして述べることが可能である」「多くの主張が私以外を主語にして述べることが可能である」の両方が成立しそうなのである。だとすると「“私”を主語にした文」という表現には内実が無い。もし強いて言えば、可能性がどうあろうが関係なく、とにかく実際に私を主語にして(かつその主語を省略して)書いた(と思える)文、ということになる。

しかし、ここで肝腎なのは一点だけだ。すなわち「論拠」として「“私”を主語にした文」が使うことができると著者が考えているかどうか、だけなのである。なぜなら、少し前の箇所で「私は涙が止まりませんでした」を論拠にした主張は、論拠の部分を理由にして却下したからだ。だが、論拠に「“私”を主語にした文」を使うことができるかどうかについては、結局、著者はあくまで言及しない。つまり、その話題を回避し続けている。だから「“私”を主語にした文を使って良い」という説明はその意義がまったく無かったと言わざるを得ない。次p45。強調は引用者。

(前略)でも、「私は○○が絶対正しいと信じる。なぜなら……」と○○が正しいと考えるべき根拠きちんと提示されていれば、これはりっぱな客観的記述だ。

「きちんと」では説明にならない。つまり、「なぜなら」以降が「“私”を主語にした文」になりうるかどうかが肝腎なのに、そこを著者は説明しない。なお著者は「論拠=証拠+根拠」というふうに暗黙に前提している、あるいは別の言い方をすれば、そういう語用規則に暗黙のうちに従っている、とこの箇所で暫定的に決めつけても良いと思う。次p46。強調は引用者。

(前略)しかし、これが『椿三十郎』が『用心棒』よりも優れた作品であると判断すべきさまざまな証拠を挙げる文章の末尾に置かれていたなら、れっきとした客観的記述になる。ようするに、記述の客観性は、どれだけきちんとした論拠を伴っているかによって決まる。主語が「私」であるかどうかなんて、どうでもいいことだ。

上掲の引用箇所では「論拠」と「証拠」がはっきり使い分けられている。「論拠」には「きちんとした」という形容が付くが、「証拠」には同じ形容が付かない。つまり、まるで「証拠」であれば「きちんとした」という形容をことさらに付けずとも、「証拠≒きちんとしている」ということであるかのようである。そして論拠に「“私”を主語にした文」が使いうるかどうかはやはり言及が無い。もし論拠に使えず、結論にしか使えないのなら、主語が「私」であるかどうかなんて、どうでもいいことだという言い方はまぎらわしくもあり、誤誘導的でもある。次もp46。強調は引用者。

つまり、これこれの証拠をふまえて、こんなふうに理詰めに考えていったら、キミも、あなたも、みんな私と同じ考えに至るはずだ、という「普遍化された私の考え」を提示するのが論文だ。

「理詰めで考え」というのが、例によって「きちんとした根拠」に基づいて、まあまあ妥当な論理形式で結論を導出したら、ということを意味することは明らかだろう。この箇所には、「根拠」(かまたは「論拠」)という語が暗黙のうちに使用されていると見て良い。そこで肝腎なのは、その際の「根拠」や「論拠」にどういうものが来うるのか、である。が、またしてもその説明は特に無い。

と、ここまで無い無いづくしで来たように述べてきたが、実は一か所だけ、少し説明が行われている箇所がある。少し前の箇所に戻るが、あえて引用しなかった箇所をここで示す。p41。強調は印象者。

―あれ。だとすると、その論拠にもまた論拠が必要ですね。

―そういうことになるね。いま行われている動物実験のほとんどが不必要なものだと言うためには、いまどんな動物実験がどれくらいの頻度で何のために行われているかといった事実の裏づけが必要になる。そして、苦痛を与えることは動物の権利を侵すものだ、と言うためには、動物には権利があることを論拠にしなければならない。さらにこの論拠そのものを主張するには、権利の主体であるためにはしかじかの条件が満たされればよく、動物はその条件を満たしているから権利をもつ、という具合にさらに理論的な根拠づけが必要になる。

ここで例示されている動物には権利があるという文言は、「証拠」ではなく「根拠」ないし「論拠」の例として提示された稀少な箇所である。そして、こういうタイプの文の例としては、他に「良い自然法則は(複雑ではなく)ごく簡単な整数比で表される」とか「どんな出来事にも必ず原因がある」とか「万物は流転する」とか、そういったものが挙げられるのではないかと推察できる。なおもちろん「円周率」は「自然」法則ではないので「簡単な整数比」で表すことができなくて良いのである。で、こういった文というのは、まず「事実」を表しうる文ではない。数学の定理のような「真理」とも異なる。しかしだからといって真理値をもちえないかと言うと、その辺もよくわからない。数学で言えば公理の位置を占める可能性をもつこういった文を、いわば「形而上的公理」とでも呼べるかもしれない。おそらく哲学ではこういった形而上的公理のような文を或る場合には根拠・論拠にして議論をし、別の場合にはむしろ結論と見なしその更なる根拠を解明しようとしているのだろう、また哲学以外の経験的学問やさらにはオピニオン雑誌の議論や新聞の社説なども、厳密にひとつひとつを明らかにするように叙述すれば、形而上的公理のような文でほんとうは溢れ返るはずのものなのだろう。ただ実際には厳密に議論しないから、たまたま文章に登場しないだけなのだ、と思える。

いわゆる「証拠」とか「事実を表しうる文」とは異なる、こういった形而上公理のような文の性質を、初心者に説明することこそが本来、戸田山の任だったのだと筆者は感じる。認識論や科学哲学と論理学の著書をもつ著者が、「論文」あるいは「レポート」の書き方を初心者に伝える、というのはそういうことだ。つまり、主として「証拠」に基づいて論じることに慣れている他のほとんどの分野の専門家と異なり、「証拠」とは異なるような「根拠」に基づいてもっぱら論じることに慣れているはずの著者であるからこそ、解説できる事柄があったはずなのだ。それが、論証に用いて良いような「論拠」についてであり、とりわけ「証拠」とは異なる「根拠」について明らかにする、というものだったのだ。

さて戸田山に代わって勝手に付記する。そこで先の節で少し言及した次の点に注目してみる。それは、みんながそう思っている常識をなぞっただけのものは、戸田山はまるで「事実」の側に分類しかねないような扱いだった、ということだ。だから少なくとも、みんながそう思っている常識をなぞっただけのものを表した文は、根拠や論拠としてなら使いうる可能性がある。そして、きちんといちいち論証していけば、実際の論文やオピニオン雑誌の論説や新聞の社説には、この種の文もまた溢れ返る可能性が極めて高い。しかも、これは形而上的公理のような文とも異なり、「べき論」か「価値判断」であることも多い。戸田山はこの件について、特段何も語っていなかったと思うが、実際に多少緻密な論証の根拠に使うことのできる文がみんながそう思っている常識であるという場合はすこぶる多いはずなのだ。ただし、一部の文章はそのこと自体に経験的な実証をほどこす。つまりアンケート調査の結果やある種の言説分析などで「実はみんなはこんなことを常識だと思っていました」と実証しようとする。その場合は、常識から何かを導くのではなく、反対に、常識それ自体を結論と受け止めてそれ自体を検証するということになる。一方、哲学ではそういったみんながそう思っている常識をさらに実証することはあまり無く、あるいはそういう実証が不必要なほどに自明な常識のみを用いて、論拠にしているのだろう。ともかく、論証の根拠に使える種類の内容としてみんながそう思っている常識は大変に有力な候補であることは間違いない。おそらく「自分の意見を普遍化されたものとして述べろ」というかっこうの良い言い方によって実際に含意されているのは、上記のような事柄なのだ。つまり、「みんながそう思っている常識だろうもののうち、自分もまた賛同できるもの」を根拠にして述べろということなのだ。それは決して馬鹿げた見方ではない。ただし、その論証によって導かれる結論のほうがみんながそう思っている常識になってしまう場合は、大学教員に課題として提出する意義も研究成果として公表する意義も少ないだろう。なので、ここで次のことが言える。「べき論」的な文章の場合、一般に、「誰もが承服するだろう根拠だけを用いて、誰もが承服するとまでは言えないだろう結論を導出すること」が一つの目標である、これである。

なおp149-152の「論証の根拠には裏づけが必要だ」に登場する謎の用語「裏づけ」についてはその意義がよくわからなかった。またもし書くなら、その説明箇所としては、もっと初めのほうの「論文に書くのは問いと主張と論証」と述べているp38-39の話題のなかに位置させるべき内容でもある。

著者が、論証における結論の話に終始し、その論拠についての説明が乏しかったように思えることには、筆者はある要因があると思う。それを次に述べる。戸田山は、二つの態度の調整がうまくできなかったようだ。一つはレポートを書く側の立場への考慮。もう一つがレポートを読む側の立場への考慮だ。この本は「レポートを読む側」の都合によって書かれた箇所が多いが、ときには「レポートを書く側」の都合も考慮し、というふうに中途半端に折衷されているため、主張がちぐはぐになっているのだ。「書く側」からすれば、「まず論拠を考え。それから結論を導こう」とする。だから「論拠に何を書いて良いのか」が喫緊の話題となる。他方、「読む側」からすれば「まず結論から読み、それから論証を検討しよう」とするので、まず「結論に何を書いて良いのか」から説明しようとする。「読む側」の都合を無自覚的に優先させた結果、「論拠」の内容についての説明が空虚になった。それは先に示した通りである。で、同じような分裂がアウトラインの箇所にも表われていた。まず先にアウトラインの完成形についての説明から行ない、いかにも「後から考えました」といった具合に「アウトラインのつくり方」の説明が後続して継ぎ足されていた。

さてそのちぐはぐが如実に表れたのが、「パラグラフライティング」の解説における矛盾である。再編成した順番では最後のほうになる論点ではあるが、先ににそれを述べる。

ここらでパラグラフライティングの矛盾が顕在化する。

パラグラフライティングは、多くの人が知らない間に、大学生、中高生あたりに「そのように書け」といつの間にか課されていることが少なくないような、約束事の一つである。ちょうど、もし掛算の順番が「違って」いると学校現場では生徒の答案が誤答とされるという事態に、多くの成人が知らないうちになっている、のと同じような感じかもしれない。パラグラフライティングは、戸田山自身を含む何者かたちによっていつの間にか普及させられており、世代間の差異を知らない間に産み出してもいるかもしれない規範でもある。たとえば、年長者が論文を読むときは、最も重要な箇所はどこだろうと内容的に探すのに対して、この教育を受けた学生は、「段落の最初の各一文目が最重要の文である」と独断的に決めてかかって読むのだ。もしそれで内容把握に差が出た場合、この教育を受けた世代は「その文が重要だなんて思いませんでした。だって段落の最初に位置していないじゃないですか。なんで最重要な文をそこに配置するんですか。そう書いた筆者のほうが悪いんです」と答えるようになる。つまり、最近の中高生くらいだとそういうことをまず教師から言われるため、自身が書くときには最重要な内容を段落の最初に必ず書くようにしているという場合がある。尤も、現代文の読解で読む側になったときにもその態度で臨むのかもしれないが、それだと「正解」にはおそらく辿り着けないだろう。かくして「年長者がこの様式に従わないのは仕方ない、が、学生という弱者である自分はこの様式に従う」という奴隷根性が養成されていく。

ともあれ戸田山がこの本で記しているパラグラフライティングは、おそらくその普及させられているものの標準形に近いであろう。また、文科省によって予告されている「論理国語」なる新科目のセールスポイントになるかもしれない点である。

さて、戸田山方式のパラグラフライティングには矛盾がある。その点の指摘をしておけばさしあたりは充分だ。次の四つの条件をすべて満たすことは、何か技巧でも弄さない限りできないのだ。

  1. 一つのパラグラフには一つの話題だけを書く。
  2. パラグラフ(形式段落)の冒頭の一文が、パラグラフの最重要の文である。(トピックセンテンスと呼ばれる)
  3. 論文には問いがある。
  4. 問いをはぐらかしてはいけない。

「論文には問いがある」と戸田山は述べる。これを「論文には問いが明示される必要がある。」と解釈しよう。「問題」や「課題」ではなく、「問い」とはっきり書いているのだから、当然それは必ず疑問文になる。

疑問文とその答とは、必ず「同一の話題」である。少なくとも、他のセンテンスとの関係よりは、緊密に「一つの話題」であると言える。ただし「一つのパラグラフに一つの話題にせよ」という規範は、必ずしも「一つの話題を必ず一つのパラグラフに収めよ」という規範に直結はしない。しかし「よりいっそう同一の話題に属すると言えるか否か」という優先順位はあるのだ。このとき、「問いと答」とはもっとも強い意味で同一のパラグラフに属する必要がある。もしこの二つが強い意味で同一の話題であるという関係にない場合があるとすれば、それは「問いをはぐらかしてはいけない」という禁則に違反している場合だけだ。

そして、「問いと答」とで、「答」を先行して書くことはできない。日本語でもおそらく他言語体系でも、「問い」が先であり、「答」が後である。今は日本語のことだけ考えれば良いので、そう決める。

したがって次の二点が帰結する。

  1. 「問いに対する答」をパラグラフの最初の一文にすることはできない。
  2. 上の系:パラグラフを「問いかけ」でつなぐことはできない。つまり、「問い」を前のパラグラフの最後の文にし、「答」を次のパラグラフの最初の文に位置する、ことは禁則である。

ところが戸田山はこの著書で、この禁則を簡単に破ってみせている。p190-191にかけて「良いパラグラフの例」というものが提示されているが、これが禁則に違反しているのだ。つまり、「問い」を前のパラグラフの最後の文にし、「答」を次のパラグラフの最初の文に位置するということを、まさに行なっているのである。つまり「一つのパラグラフには一つの話題」ということから想定される「より同一性が強い話題であるセンテンスどうしを、同一パラグラフにより優先的に収める」という規範に違反している。

そもそも戸田山が提唱するようなパラグラフライティングにおいては、「前のパラグラフの最後の文と、次のパラグラフの最初の文」がつながっている必要などない。むしろそこに緊密なつながりがあるなら、それは正しくないパラグラフライティングである、といった方が良い。その理由はこうだ。戸田山方式の場合、強くつながっていないといけないのは、「隣接パラグラフの冒頭文どうし」と「各パラグラフ内の各サブセンテンスと、冒頭文との間」だけである。それ以上の緊密なつながりが、たとえば「前のパラグラフの最後の文と、次のパラグラフの最初の文」の間に成立などしているのなら、それはセンテンスの配置に禁則違反がある、ということにほかならない。実際戸田山が挙げた「良いパラグラフの見本」でもそうであった。すなわち問いと答が別のパラグラフに属しているという禁則違反なのであった。そうではなく、これは同一パラグラフに収めないとならない。したがって、前の段落の最後の文から次の段落の最初の文へと読み進めるとき「宙ぶらりんの状態」に読者が置かれたと感じるのは、まったく正常な反応であり、それこそが戸田山方式のパラグラフライティングの正常な読後感である。それを否定的に捉えるほうがおかしい。

一方、p207ではパラグラフどうしを「問いかけでつなぐ」という禁則を破っている。そのため「問い」の文が冒頭文つまり、トピックセンテンスになっている。だが「問い」の方が、「答」よりも重要な主張である、というのはおかしい。実際、この例も答の文のほうこそが、段落の冒頭に位置するのが自然であるように見受けられる。いずれにせよ戸田山方式のパラグラフライティングでは、パラグラフどうしを「問いかけでつなぐ」というやり方は有り得ない。そもそもこの方式のパラグラフライティングでは、地の文に「疑問文」などただの一つも登場しないのが、おそらく模範的なあり方なのだ。たとえば倉島保美『論理が伝わる 世界標準の「書く技術」』(2012,講談社)(amazon)は、「ですます体」とは言え、全文パラグラフライティングで一貫して、著者である倉島によって書かれているが、ただの一つも疑問文は登場しない。あるのは、平叙文の中に引用節として配置された疑問文だけである。おそらくこちらのほうが、戸田山方式のパラグラフライティングのあり方としては模範的なのである。

ここで一段落分だけ、重要な余談をしておく。つまり戸田山本の検討とは直接の関係が無い話題を語る。もし戸田山の提示するような「世界標準」のパラグラフライティングが、つまりトピックセンテンス冒頭配置型のパラグラフライティングが、強い約束事として普及した場合、文章の読み方を根本的に変える必要が生まれる。それはこうだ。まず各段落の冒頭文と、それ以外とでまったく読み方が異なる。冒頭文の場合、そこに使われている接続詞は、直前の文を受けてはいないし、直後の文にもかからない。なぜなら冒頭文の接続詞は、前の段落の冒頭文か、次の段落の冒頭文としか連接しないからだ。そして指示語も同じことだ。冒頭文に使われている指示語は、まず間違いなく、前の段落かせめて次の段落の冒頭文のみにその指示対象が存在する。他の解釈はちょっとありえない。また前の段落「全体」を受けているのですらない。あくまで受けているのは冒頭文のみである。なぜなら世界標準のパラグラフライティングというのは、冒頭文だけ読んだのと、文章の全体を読んだのとで、「同じ内容」をきっちり読み取れるように書かないといけないからだ。だから「段落全体」などを参照しないといけないように書かれているはずがない。すなわち、段落冒頭文の指示語の指示対象は、前の段落(とせめて次の段落)の冒頭文のみ参照すれば必ず見つかるはずなのだ。一方、各段落の冒頭文以外のサブセンテンスは、自身の属する段落の冒頭文とのみ必ずつながる。次の段落の冒頭文とのつながりは無い(もし有ったらおかしいのだ)。したがって、各サブセンテンスに含まれる接続詞や指示語も、すべて当該冒頭文との関連を考え、当該冒頭文にその指示対象を探しさえすれば良いことになる。たとえば、サブセンテンスどうしのつながりすら考えなくて良いのだ。なぜならサブセンテンスがつながる相手はただ一つ、冒頭文だけだからだ。だから、「世界標準」のパラグラフライティングで書かれた文章というのは、飛ばし読みをせずすべての文章をきっちり読んでいくと、文ごとのつながりがズタズタであるはずだ。そうでないとおかしいのだ。すべてのサブセンテンスは、冒頭文とのみ連接性をもつため、そしてすべての冒頭文は、隣接する段落冒頭文とのみ連接性をもつため、結局、隣接するすべての文どうしではつながるというわけにはいかないはずだからだ。その一方、それを「世界標準の読み方」で読めば、ということはつまり各段落の冒頭文のみを拾い読みしていき、サブセンテンスをすべて無視して読めば、指示語と指示対象の関係や接続詞の修飾関係が円滑につながっているので、大変流麗に読めるはずだ。そうでないとおかしいのだ。ともあれそういうわけで、パラグラフライティングというのは、「この文章はパラグラフライティングで書かれている」と冒頭に宣言しないと、大変有害な規範である。なぜなら、そうであるかないかで、読み方そのものも受け取り方も大きく異なるからだ。しかし英語圏で実際に起こっていることはおそらくむしろ逆だ。英語圏では「特に断りが無い限りパラグラフライティングで書かれている」のだ。だから日本人との間に、様々なコミュニケーションギャップが生じうる。たとえば日本の優等生がアメリカに留学して学習障害の判定を受けるなどがその一例だろう。あるいは、アメリカ人教師などが日本の高校や大学で英語で教える際にも、同じようなことが起こるかもしれないわけだ。

閑話休題、戸田山本の評価に戻る。先の節でも書いたが、この戸田山本の特徴の一つは、まず先に「レポートを読む側」の立場から構想し、「レポートを書く側」の立場からは後づけで補足する、といった書き方がされていることである。なので、その二つの立場が曖昧なまま折り合っていない点は随所に見受けられた。そして、パラグラフライティングをそもそも導入したこと自体もまさにそれなのだ。トピックセンテンスを書け、そしてそれをパラグラフ冒頭に配置せよ、というパラグラフライティングの規範・様式は、「読む側の都合」に特化した典型的な規範である。すなわち、読む側が読みやすく、またできるだけ読む量が最小限になるために飛ばし読みができるように、書く側のほうが最大限労力を使え、というそういう話だったわけだ。つまり、書く側も努力するから読む側も同じくらい努力してください、という話ではなかったのだ。もちろんこれは、教師なり管理職なりといった、「学生や部下のたくさんのレポートを捌かなければならない」立場という制度が生み出した文章様式でもある。言うなれば、マークシート方式が、内容上の都合ではなく、実施上の都合、学校制度の都合によってのみ生み出された学力試験の様式であるのと、同じことだ。そして、そのパラグラフライティングという様式が、おそらくあまり強く意図することなく、しかし結果的に求めたのが「レポートからは疑問文とその答というペアを一掃せよ」という規範だったというわけだ。

ところがこれが「書く側」の都合と、ものすごく折り合いが悪い。あらためて言うまでもない事柄を確認するが、戸田山は本書のかなり最初のほうで開口一番、論文とは「問いと主張(答)と論証だけを書け」というような主旨を述べたのだ。だから書く側からすれば、当然まず「問い」から考え始める。そして、アウトラインの書き方、というかその前段階の作り方の説明ででも、たくさんの「問い」と「答の候補」を列挙し、その中から自分の問題意識に見合う内容を取捨選択し、直線的に配置せよ、と提案したのだ。だからここまでの段階で、学生の下書きには「問い」の痕跡がありありと残っている。のみならず、「問題」や「課題」と言わずに、あえて「問い」と著者は説明したのだから、当然その「問い」は多くの場合「疑問文」の形をしているはずでもある。ところが、その疑問文とその答というペアを一掃して、消去するなり、平叙文にすべて置き換えるなりしなければ、パラグラフライティングの様式には抵触することになる、というわけだ。少なくとも問いと答がその生まれたときの形のペアのままでは、パラグラフライティングの様式の中にそのペアが占める位置は無い。おそらく「問いと答」のペアを「アウトライン」という中間形態に作り直す際に、抹消しあるいは変換するということになるだろう。この点を著者は明示する責任があったと思えるが、残念ながらそういったことは明示されていなかったし、そこまで著者の考えが及んでいなかったのだ。パラグラフライティングの様式で書く場合には、「問いと答」の形でいったんは構想しても、最終的にそれは抹消しないといけない、そういう手間が存在する、ということなのである。

ところでパラグラフライティングは「レポートを読む側」にとってなら都合が良いのかというと、戸田山の態度はそこでひどく歯切れが悪いのである。確かにパラグラフライティングというのは、間違いなく「読む側」の言い分をあれこれ取り入れて確立された様式である。曰く「結論から先に言え」「要点が書いてある箇所が一目でわかるようにせよ」「内容の切れ目で段落を切れ。段落をだらだら長く書くな」などといった言い分を、である。しかし学生の側が読む側になって、パラグラフライティングで書かれた文章の「要約」を提出すると、戸田山はそれにも不満たらたらなのである。ここに戸田山の態度のはっきりしない点が表われている。p87-88。強調は原文では太字。

―オレの授業で出た(1)みたいに、人の本や論文を読んで要約しなさいっていう課題は、他人の論文のアブストラクトを作ることだと思えばいいんですか?

―その通り。要約については、どうも多くの人に誤解があるようだから、ここでついでに強調しておこう。要約するってえのは、たんに短くすることじゃない!要約が苦手だという人は、きまって文章全体を均等に短くしようとする。たとえば、第一段落からちょっと、第二段落からちょっと、……という具合に文を抜きだして、それを順番につなげて要約にしようとする。

―それじゃ「あらすじ」だ。

―またまたその通り。あらすじと要約は違う。要約ってのは……

(中略)

―そうそう。ということは、要約は文章を一様に短くすることとは違うということだ。むしろ、文章を「問い+答え+論拠」の形に再構成すると言った方がいいな。

…とこの通りなのである。つまり学生にはパラグラフライティングで書け、と戸田山は命じておき、そのパラグラフライティングで冒頭文をつなげて飛ばし読みできるように学生には負担をかけさせておきながら、そのつなげて読んだらできるはずの文章のことは「あらすじ」の一言で斬って捨てているのである。では何のために、学生に手間をかけさせて、読む側にとって読みやすい様式に書かせたのか、わからないというものである。のみならず、その要約を「問い+答え+論拠」の形に再構成する手間が要約の読み手に生じるのは、ほかでもなく、自身の推奨したパラグラフライティングが事実上「疑問文」を禁止するようなルールを設定していたからにほかならないのである。「一体、戸田山は何がさせたいのだ。どこまで我儘なのだ」という話なのである。読む側の都合ばかりを考えるにもほどがある、というものだ。

そういうわけで、戸田山は「学生のレポートを読む側」の都合を一方的に学生に押し付けつつ、その様式で書かれた文章を要約したものを読むときに、さらに生じる再構成する手間まで学生の側に帰責している、というわけなのである。

ただし、戸田山の態度とは別に、「要約」と「あらすじ」の違いという論点はまあ重要だと思う。パラグラフライティングというのは、結局読み手に「あらすじ」を提供するためのものだった、という態度を著者自身があらわにしたことが重要だ。ただ「あらすじだと、何がいけないのか」という点が今後明らかにされるべきだと思う。また、そもそも大学入試で「要約せよ」という出題では、戸田山の言う通りに答えたらおそらくあまり点がもらえないだろう、ということも重要だ。大学受験やそれまでの教育機関での「要約」と、論文のアブストラクトとはまったく異なるということがもっと注目されて良い。そして、にもかかわらず、大学教員の作成する大学入試問題では、アブストラクトのように要約することはなぜかおそらくダメであろうこともだ。

その他

「新書を読め→「新書」よりも「概論」「教科書」が優先では?」の件について。問題意識を「捏造」しよう、と言っている例の話題のあたりで、「まず新書などを読もう」と述べている。p58にはまずは『生命倫理学入門』といったタイトルの新書と述べてある。しかし、amazonで検索すると、「生命倫理」をタイトルに含む新書は、文庫まで入れても2017年時点で2、3冊程度のようである。(amazon:生命倫理 検索結果)。どうやら「生命倫理」という語をタイトルに含む書籍というのは、大学生向きの教科書や概論書も含めた中から選ばないと、選ぶほどの候補が無い選択肢集合だったことになるようだ。これはまあたまたまそうだったに過ぎないと言えばそうである。しかしともかく、新書になりやすい分野となりにくい分野の差というものは歴然とある。倫理学はなりにくいほうなのだ。また、新書になったらなったで、レポートの題材に使いやすい分野とそうでない分野もあることだろう。その新書の著者の立場が強く出過ぎていて、かつそのことに著者が無自覚なものは、つまり著者の書き方からそのような偏りを推察することが素人にはできにくいものは、おそらくあまり向かない。そこで、どういう新書が良いのかを知るためにも、むしろまず先に教科書や概論書を手に取ったほうが良さそうだ。誰もが自分の在籍大学に戸田山和久級の著名な研究者がいるわけではないし、まして自分の受講した講義の教員がそうである可能性はさらに低い。だから自分の大学で開講されている講義よりも、市販の教科書のほうが内容が良いという場合がほとんどのはずだ。新書に関する情報を入手するためと、新書の良しあしを判断する目をもつために、なるべく教科書や概論書をできれば数冊揃えておこう、と筆者は思う。むろん「問題意識を捏造」するためだけには少し負担が大きすぎると言えば言える。ただ後述するように、これは大学学部学科をそもそも選ぶためにもした方が良い方策である。

「これまでの研究の流れの中に自分の主張を位置づける」の件について。p94では論証とは何をするのかについて、箇条書でリストがありその中に唐突に一つ含まれていたのがそのこれまでの研究の流れの中に自分の主張を位置づけるという項目なのであった。しかしこれは大変な難事であるわりには、この戸田山本のなかにこれといって説明が無かったものである。いや、この本は実質的には試験代わりのレポート対策しか使えないので、この項目の説明は無くて良いとはまあ言える。しかし、読者の中には最初に言ったように、論文が何かなど知らないという者も含まれており、そういう者の認識を改めないことになるのはまずい。少しだけ付記しておきたい。先に剽窃の件でも述べたように、卒業論文以上の学術論文の場合、自分の考えが過去の研究と偶然一致しているなどということは許されない。従って、自分の考えや主張のうち、過去の研究と合致するものについては、必ず「これまでの研究」に言及する必要がある。つまり、その点は自分の考えとして述べるのではなく、「○○という研究で××という主張がある」と述べて、「で、自分もそれに賛成である」というふうに、いちいち先人を立てて書かないとならない。それが剽窃でない論文を書く、ということだ。そもそも、学生なり院生なりが論文をなかなか書くことができないでいるのは、「ほとんど先人に言われてしまっている」か、または「どうやって先人の言っている学説群と自分の研究を連関させればいいのか、学説群が複雑すぎて手に負えない」からなのだ。そして、もし万が一、自分の考えのうち世界初の発見が占める割合がゼロであり、すべてが先人に説明され尽くしているのなら、それは論文として発表できない。そういう意味で、この項目は説明抜きでさらっと挙げられていたものの、典型的な論文の場合はかなり重要で切実なものであるのだ。そのことに多くの読者がもっと気づいて欲しい。

「このくらい準備したところで、進学する大学と学部学科を初めて決め始めるのが良い」の件について。本来なら、こうあるのが理想だろう。つまり、戸田山本でなくても一向に良いのだが、新書を選ぶ能力と新書を読む能力をつけるために資するような内容の学習が一段落した時点で、初めて、高校生は進学する大学と学部学科を決め始めるのが良いのだ。しかし、もちろん実際には、盲目的に進学する大学学部学科を決めて入学したあとになって、新書や教科書を初めて読むのであり、そのプロセスの中でそれらを読む能力がついていくのだ。これはつまり実際には、大学教育というのは自分の学びたい大学を選ぶ能力をつけるために行なわれているかのような状態になっている、ということだ。この辺は、幼児や小学生低学年の児童が、音楽やスポーツの習い事をやるときの手順と似ていると言えば言える。要するにそれを習うことによって、その対象に対する興味を初めてもち、また師匠を選ぶ能力がついていくわけだ。「ああこの先生教え方下手だ」という判断力がついたのは全くもってその先生のおかげである、というわけだ。それと全く対照的なのが、中学生あたりの青年が、好きな音楽やミュージシャンというものをもってから独学でギターなどを習得していき、その後場合によっては誰かに私淑などするという経路である。中学生以上から始める音楽以外のスポーツやマンガ描き等でも同じことが言えるだろう。好きなマンガ作品やマンガ家をもたないまま、マンガの専門学校に進学する者などちょっと考えられない。で、その二つで比べた場合、大学教育というのは、小さい頃に否応なしにさせられるピアノやヴァイオリン(やその他各種習い事)の早期教育のほうに、圧倒的に近い。大学に入る前から理想とする研究者をもち、学問の動向に通じたうえで、自分の研究したい内容本位に大学を選ぶというようなギター独学青年のような大学の選び方は、まったくと言ってよいほど現実的ではないからだ。大学生のレポートの内容に対して、大学の研究者でもある教員が愕然とするのも、こういった事情が背景にある。要するに戸田山の講義を受講した学生は、別に戸田山和久を研究者としてすぐれておりなおかつ自分の研究したい内容に好適であるから選んだ、という動機も特に無いし、そもそも名古屋大学に入学した動機にもそういった選択や積極性など無かったということがほとんどである、というわけだ。

もちろん、その事に加えて次の事情もある。大学を選ぶといっても、大学で教えている内容本位で選ぶという選択もあれば、大学卒業後の進路のことを前提にしそのより良い手段のために大学を選ぶという選択もある。そして日本社会でエリートとか言われるコースというのはほとんどが後者である。つまり、より職業威信やブランド性の高い職種や職場に就職するための単なるより良い手段としてのみ大学が選ばれるということだ。医学部医学科や法学部法学科や…は皆そうだ。それに対して、哲学のように、あくまで大学での研究や教育の内容それ自体の価値ということで選択をすることになるような、そういう分野もまあある。それでも理系ならば学問自体の威信も高いが、文系の場合は研究に大した尊崇が払われているわけではない。そして、「良い就職」をするための大学がどちらかと言えば、「学習」、つまりいわば「知の消費者」になることのほうにウェイトが高いのに比べて、「良い研究」をするための大学は学習は単なる手段に過ぎず、要は「知の生産者」になることが目指されている。この違いも大きい。論文ではなくレポートという課題の段階であってすら、そのことが表われるわけだ。つまり、学生は知の消費者であることを目指さざるを得ないのに対して、大学教員はあくまで知の生産者であることを学生に求めるわけで、この志向の違いが如実に表れるのが「レポート課題」であるということなのだ。

さてここまで批判的な記事をかなりだらだらと書いてきた。ここまで書いておいて何だが、最初に言ったように、この戸田山本は読んで丸損するというほどの内容ではない。つまり読めばそれなりに得るものがある箇所もちゃんと存在する。特に、論証の形式について述べたことは、論理学や科学哲学に疎い多くの分野の学者にとって大きい。そこには学ぶところもあるはずだし、戸田山のこの本はもともと大学教員一般への牽制球的な要素も強いのだ。ただ、学生や、学術論文に疎い中高生相手の教師には、この本はやはり薦められない。彼らのなかには取捨選択して読む能力や著者の誤りには誤誘導されないという能力が、あまり高くない者が多いはずだからだ。また、この記事でも述べたように、この本は、「レポートを読む側」の立場からの提言が相当に多く、「レポートを書く側」の事情からの提言がそれと不整合を来している点がある。のみならず、この本は残念ながら、中高生相手の国語教師を誤誘導してきたという実績がすでにあり、筆者はそのことを少しだけ知っている。またこの本は、パラグラフライティングを盲目的に推進するという「御用学者」的な役目も果たしているだろうし、今後ますますそうなるだろう。その点でも、無条件で推薦などはとうていできない本なのだ。あくまで著者の同業者である大学に属する研究者一般にのみ、限定的に、補助的に読まれることが望まれる。