「外延が違うよ」問題の看過:駄本―吉岡友治『だまされない<議論力>』

混乱しているように見える立論を少し整理しました。2017.05.10

「外延が違うよ」問題とは何か

吉岡友治『だまされない<議論力>』(2006,講談社)は「読むだけ時間のムダ」という読後感を筆者は抱いた。欠陥があまりにも多すぎる。たとえば、批判相手の書いている内容をきちんと読んでいない、相手の主張していない内容を勝手に措定して論駁しようとしている、同じような立論でも批判したりしなかったりと一貫していない、他人に対してなしている低評価がそのまま自分にも当てはまっている、論理規則の適用の誤りというものがありうることを考慮していない、等々である。これらをいちいち指摘して回るのは時間のムダである。ただし、この本の諸欠陥の中には、教訓にしておいて良いものも少し含まれていると感じた。なので、教訓上最重要な欠陥に絞ってここで取り上げる。それは「外延が違うよ」問題である。もちろんこれは筆者の造語であり、一般に通用する呼び方ではない。

「外延が違うよ」問題とは何か。「外延が違うよ」問題とは、「同じ単語がだいたい同じような定義に従って使われているにもかかわらず、その適用範囲に差が有りすぎる」という問題である。なので「外延が違うよ」問題は、「同じ単語を異なった複数の定義に従って使っていることが曖昧にされている」問題ではない。こちらを指摘する文章を筆者はすでに書いていた。PISAのアホな出題 検討されない「語彙の意味」である。こちらは言わば「(内包的)定義が違うよ」問題を主に扱っていた。たとえば「水位」という同じ単語を使っていながらその使い方が違っていた。それはつまり「水位」の定義自体が異なっていたというわけだ。同様に「落書きのための代金」や「コミュニケーション」も多義的であったが、それらもまた「異なる複数の定義」が想定可能であり、そこが曖昧であるために回答困難である、という出題上の不備であった。今回扱う「外延が違うよ」問題はそれとは異なるわけだ。

架空の例を挙げてみよう。「現代を代表する美人作家100人にインタビュー」という雑誌の記事があったとする。ところがそれを一瞥してみて「こんなの美人じゃない!」という思いに打たれた者がいる、とまあしてみよう。しかもそれはこういう感覚でもあった。「ここでの美人たちには、自分は美人だと感じない者がわりと多いが、しかしそれは、美人の定義から外れているというわけではない。単にこの編者が同じ定義に従ってはいるのにどこか異なった対象を選んだのだ」「そしてここで選ばれた“美人”たちにはどこか一貫性は感じられる」と、まあこんな印象を抱いたとする。すなわちここで起こっている事柄は「美人という語が異なった定義に従って使われている」ことによる違和感ではなくて、「美人という語が同じような定義に従って使われていながら、およそ異なった対象を指示している」ことによるという違和感であるわけだ。

さて吉岡のこの書の中での「外延が違うよ」問題は二重化している。

一つは著者自身がその「外延が違うよ」問題をまさに体現してしまっているという問題である。そもそもこの著者は全体的に自分の書く文章に対してどうにも評価が甘いという印象が多々あるわけだが、その一つの表われとして「外延が違うよ」問題を体現してしまっているという点があるのだ。

もう一つはこうだ。吉岡は自身が「外延が違うよ」問題を体現しているだけでなく、分析対象のそれに関してもチェックがまったく働いていない。つまり、著者はこの書で「大学入試の小論文」の出題等を題材として扱っているわけだが、その出題の中での「外延が違うよ」問題にもまったく反応していない。つまり「外延が違うよ」問題という問題の存在自体に気づいていない、というわけだ。

なお吉岡はこの書のなかで、PISAの出題に対してもまったく肯定的な評価を下しており、「定義が違うよ」問題に対してもまた鈍感であることも、併せて示した格好になる。要するに「同じ言葉を使っていても、およそ異なった定義や指示対象を想定している」言語使用一般に起因する誤読等に対して、この著者は鈍感であるというわけだ。

この著者は、小論文の講師をしている関係上、大学受験生をたくさん教えていることになる。大学受験生ということは受験大学学部学科を選ぶ必要のある人たちであり、要するに「同じ言葉が人によって立場によって(分野や学派によって)異なって使われている」という状態に充分習熟していなければならないはずの人たちである。そうでなければ学部学科を自身の関心に沿って選ぶことなどできないはずだ。さてそのような課題をもっている人をこの著者が相手にできるのか、いやできるはずがなかろう、という思いが筆者には強い。なので、この書に対するここでの指摘には一定の需要が必ずあるはずだと信じる。

「外延が違うよ」問題を体現している著者;「ステレオタイプ」の語に関して

「外延が違うよ」問題を著者が体現していることが、もっとも際立つのは「ステレオタイプ」という語の使用に関してである。著者はこの書の最初のうちから「ステレオタイプ」やその類似現象に関して、その弊害を繰り返し述べ立てている。まず「まえがき」のp6-7。ただしこの箇所ではステレオタイプへの非難は、言わば、ついでに述べてみたという程度ではある。主旨は「意見には根拠を述べろ」ということのほうにあるようだ。

私は予備校や主宰しているインターネット講座で、大学・大学院受験者や社会人のために小論文の書き方を教える仕事を続けている。そのなかで、学生たちには上記のような観点から議論を見る、という習慣がほとんどないことに気づいた。

彼らは意見の中身ばかり気にする。右か左か、競争か福祉か、論点や対立はいろいろだが、どうしてその「意見」が妥当なのか、理由や説明を出せない。これでは「意見」は自分の信じていることに過ぎず、他人とは共有できない。

しかも、その意見もほとんどどこかで聞いたことがある陳腐なものばかり。これをクリシェとかステレオタイプとか言うのだが、きちんと考えもしないでもっともらしいことを言っているだけなのだ。口真似するオウムと同じだ。しかし、ちょっとコツを教えてあげると、そういう彼らも自分の議論の根拠を検討し出す。結果として、議論は活発になるし、小論文のレベルも高くなる。

次にp20。この箇所では、主張の要がステレオタイプやその類似言説への非難である。

こうした対立状況の中で、一番信用してはならないのは、ステレオタイプの意見や耳触りのよい言葉を言う人間である。ステレオタイプとは「陳腐で平凡な」という意味だ。皆が使いすぎて、手垢にまみれた言葉。誰も表だっては反対を言えないような表現。そういう意見は一見もっともらしいが、実は議論の進行を邪魔する場合が多い。

なぜなら、議論の決着は具体的状況において、事実を丁寧に検証する中でしか決まらないからだ。状況に関わらない便利な決めぜりふなど、そもそもフェイクだと考えるべきなのである。(後略)

この引用箇所だけでも、ある種の読者は「問題だらけ」だとすでに感じるだろう。しかしその点はここでは論及・検討しない。ともかく、肝腎なのはこの箇所でステレオタイプに著者自身が簡単な定義を与えているということと、そのステレオタイプを否定的に評価しているということである。であるとすれば普通に考えれば、この著者自身が肯定的に評価する立論や言論は「ステレオタイプ」ではないはずだ、ということになるだろう。ただし多少勘のいい人だとそのような期待は一切しないかもしれない。いずれにせよ、読み進めると、ある箇所にたどり着いたとき、さして勘の良くない人でもはたと気づくようになっている。

それはp56-57にかけてである。この箇所ではあるテーマについて著者がすでに何やら論じており、読者の側には著者の立論への違和感が膨れ上がっているはずの箇所でもある(これは後述する)。そこに来て次のような文章が続くうち、以下に強調で示すような語句が続き、そのためあまり勘の良くなかった人は卒倒しかねないほど驚くことになる(その一方で勘の良い人は「ああ、やっぱり」と思うことになる)。

「高校生の規範意識」に戻ろう。先ほどの「読み=読解」によれば、「日本の高校生は犯罪がいけないという点では米中と一致しているが、倫理・道徳の面では、本人の自由でよいと考えている」ということだった。

さて、こういう傾向がわかれば、当然その次には「なぜこんな事態になっているか?」という疑問がわいてくる。だって、変ではないか。なぜ、日本の高校生は犯罪に対してはきちんと規範意識が働いているのに、倫理・道徳の面では規範意識が低いのか?

この矛盾ないし問題を考えるのが「解釈」である。簡単に言えば、起こっている現象の原因や背景など、説明する仕組みを考えるのである。(中略)

ではどう解釈すればよいか?たとえば、核家族化が進んで年長者の権威が下がったという理屈を立てたらどうだろう。あるいは都市化が進んで個人主義的傾向が進んだ、とか。年長者の権威が下がれば、彼らが教える道徳・倫理の信用度も下がる。あるいは、個人主義的傾向になれば、集団の掟である倫理・道徳の価値は下がる。当然、若者たちは権威・倫理・道徳を軽視する。この「核家族化が原因じゃないだろうか」「都市化が原因ではないだろうか」というアイディアが「解釈」なのだ。

筆者はここを読んでさらに続きを読んで、ひっくり返ったも同然の読後感であった。なぜなら、上の引用で引用者が強調した箇所こそが、「ステレオタイプ」ではないかと思ったからである。これらこそが「陳腐で平凡な」フレーズではないか、「事実を丁寧に検証」することの妨げではないか、と思ったのである。ところが引用箇所以降、著者はこういった平凡で陳腐で思考停止的な命題を大真面目に“検証”していくのである。

つまり、相当鈍感な読者であってもこの引用箇所に来て、「現代を代表する美人作家100人にインタビュー」という見出しに騙されて(美人目当てに)封のしてあった雑誌を買ってしまった人がそれを開封して一通り全体を瞥見した時、と同じような思いに打たれることになるのである。

いったいこの著者にとっては、何が「ステレオタイプ」に該当するのだろうか。筆者はそう思わずにはいられなかった。ただ勘の良い人だと「ステレオタイプは良くない」という主張自体がすでにしてステレオタイプの典型であると感じるであろう。またそのことを述べている箇所の「なぜステレオタイプが良くないか」についての「論証」がすでにきちんとしていなかったことにも気づくであろう。というのも、論が平凡であることと事実を丁寧に検証することとは独立であり、そこに関連があると説くならもっと説明が必要だったはずだからである。いずれにせよそういうわけで「少なくともこの著者にとっては“ステレオタイプは良くない”という言説はステレオタイプではないのだ」と気づき、したがってその時点でこの書にあまり過度の期待を持たなくなるはずである。

この著者が体現していたのは、「ステレオタイプは良くない」という主張自体がステレオタイプであるほか無い原因でもあった。つまり、そういうことを言っている人間が何をステレオタイプであると判定し、何をステレオタイプでないと判定しているのかという、その想定しているステレオタイプの外延自体が恣意的である、そこがまさに問題の所在であることに主張者が鈍感であるから、という原因であった。だからこれは、ステレオタイプの定義や基準に原因があるということではない。もし仮に定義や基準を示したところで、今度はその定義文や基準の適用範囲で違いが出るだけである。だからその場合でも今度は「何が平凡であるか」に関してその適用範囲にギャップがあったということに問題が移行するだけだ。つまり「え、こいつこんなものが平凡では無いと思っているの?」というギャップになるだけだ。

そのような状況で大学生くらいの立場でできることは、せいぜい「なるべく“(新)事実”の主張を結論にするような論を立てよう」ということくらいである。もちろん事実の主張と価値の主張とは截然と二分できるようなものではないが、それでも価値や当為の主張をなるべく混入させないように努力することならある程度できる。ステレオタイプはたいていの場合、価値や当為の主張がかなり込められているものだ。それをなるべく回避するくらいしか手は無い。それはつまり、大学受験生にはまず無理ということだ。なぜなら事実を主張すること自体が目的であるような立論は、大学に入ってからでないとそのような環境がまず無いからだ。高校生までなら「調べ学習コンクール」などの場を活用するなどしかない。

特に、小論文入試などまるきりそのような立論態度とは無縁と言って良い。というのも、小論文入試の多くはむしろいかにして出題者の喜ぶようなステレオタイプを上手な文章で述べるか、あるいは出題者の依拠しているステレオタイプをいかに早く見抜くかを競っているに過ぎないからだ。ただそれは高校生の生活空間の中ではステレオタイプではない場合が多い、ということに過ぎないのだ。小論文入試の傾向や趨勢を全く知りもしない筆者がこのように断定するのは次の理由というか経緯からである。かつて筆者が「これはまったくくだらない。ただ単に出題者の依拠しているステレオタイプをいかにして見切り、いかにして上手な文章に手際よくまとめるかだけを問うているに過ぎない」と思った小論文入試問題があった。ところがまさにその小論文入試問題を「絶賛」する「専門家」がいたのである。何だか小論文入試問題の中でも出色の出来であるとのことであった。なのでそこから、小論文入試の「全体のレベルと志」が想像がついてしまって良いと思えたのである。

社会科学系入試の小論文の教師が核家族化が進んで年長者の権威が下がったとか都市化が進んで個人主義的傾向が進んだをステレオタイプと感じない、というのは、その職能への期待から普通に考えれば、かなり致命的であるように思えるが、おそらくそうではないのだ。つまり大学入試の小論文なんてしょせんその程度であり小論文の教師もその程度である、と解したほうが良いのだ。だから志の高い受験生には小論文入試は全く薦められない。どうしてもというときは「魂を売る」ことになる、と筆者なら説明する。

「外延が違うよ」問題を看過する著者;「反抗」の語に関して

さて、先にこの箇所を「読者の側にはすでに著者の立論への違和感が膨れ上がっているはずの箇所」と述べておいた。その違和感というのは、著者の吉岡が題材としている出題の中に想定可能である「外延が違うよ」問題の可能性にまったく気づいていないということである。この出題は、出典の説明が何も無かった。そもそも入試問題なのかどうかもよくわからず、その出題の中での「調査」の手続きについての説明も無かった。極論すれば、調査結果も含めて著者吉岡の創作であってもわからない。なので、この出題内容に関しても調査結果に関してもいっさいの「責任」を著者吉岡に背負ってもらおう。

ただし、これが実際には吉岡以外の何者かによる出題である場合、その出題者のほうは「外延が違うよ」問題に気づいており、そこに気づくことこそが出題意図であるという可能性はある。大いにあると思いたいところだ。しかしそれはわからないので、これ以上追求・追及しないでおく。

この調査は、「日本」「アメリカ」「中国」の三ヶ国で行なわれた調査のようであり、推察するに「日本の高校生」「アメリカの高校生」「中華人民共和国の高校生」にそれぞれアンケート調査を行なったものであるようだ。さて、ここでこの三ヶ国でのアンケートが「全部日本語であった」と仮定したい。もちろん、最初アンケートが英語で作られ、日本語や中国語に翻訳された上でアンケートがなされたと仮定しても良いのだが、その場合問題がいっそう複雑になり、吉岡の対処できる問題ではなくなる。なぜなら「翻訳がきちんとされたのか」を考慮する必要が出てくるからだ。なので、三ヶ国すべてが日本語でアンケートが行なわれたのであり、その各国とも日本語のわかる高校生に限定してアンケートが行なわれた、と、設定が異常にシンプルになるように仮定しよう。そこまでシンプルにしたほうが問題の所在が明確になる。

さて、このアンケートらしき調査では、いくつかの項目に関して「本人の自由でよい」と回答する者の割合を算出しているらしいのである。で、このアンケートらしき調査では、一部の項目に関して、「日本」だけが際立って多く、他方で「アメリカ」「中国」は少なかった、という結果になっていた。なので、この際立った結果になっていた項目の間に、何かの共通項などがあるかもしれない、というわけだ。で、あまり真剣に分析するような調査結果では全くなく、それは著者の見解についても同様なので、要所を引用の形で示す。p51。

たしかに、「先生に反抗する」と「親に反抗する」の二つは、圧倒的に日本の高校生が多い。前者では、日本が七九%に対して、アメリカは一五・八%、中国は一八・八%だ。四倍以上も多い。それは「親に反抗する」でもほぼ同じである。

で、日本の高校生が「先生に反抗する」「親に反抗する」ことは「自由でよい」と回答した者が多いという結果を、どう把握するのか、なのである。著者はだいたい次のように解釈したらしい。p53。

日本の高校生は犯罪に関しては、米中と同様によくないと考えているが、権威に服従するなど、倫理・道徳の面では、圧倒的に本人の自由でよいと考えているようだ。(後略)

しかし、このような解釈が素直に言えるのは、日・米・中の三国の高校生が「反抗する」という語を同じように受け取った場合の話である。先生や親に「反抗する」という言い方がどんな行為に適用されがちなのか自体が、日本と米中で大きく異なっている場合には、この比較をここで済ませるわけにはいかなくなるはずである。要するに「反抗する」の外延である。「何をすることが反抗に該たるのか」である。これが国ごとに大きく違うという可能性、特に日本だけが際立って異なるという可能性は無いのか、普通はまずそこが気になるはずの点なのである。

たとえば「反抗する」という語を主に「校則に違反する」ことに適用しているのかもしれない。だとすると、その校則の細かさに応じて、違反=反抗の生起回数や確率も変わってくる。ごく大まかに言えば、校則が細かければ細かいほど、「反抗」するという事態が起こる回数や確率が増えることになる。一方で「反抗する」ということで、校舎や家庭の窓ガラスを片端から割って回ったり、殴られたときに殴り返すというようなことを指しているのかもしれない。つまり、日本の高校生は「注意されたら無言で無視する」とか「細かい校則の一つや二つに違反する」ことを「親・教師に反抗する」だと捉えて回答したのに対して、米中の高校生は「殴られたら殴り返す」ことや「学校や家の窓ガラスを叩き割ったりする」ことを「親・教師に反抗する」ことだと捉えて回答していたのかもしれないわけだ。その結果が、「日本の高校生は他と比較して圧倒的に多数の者が、“親教師に反抗するのは自由だ”と回答した」という結果であったのかもしれない。もちろん実際のところは全くわからない。だからこれは水掛け論にしかならない。

だから繰り返すがこうである。「親・教師に反抗する」ことが自由だと回答した者が、日本の高校生には飛びぬけて多かった、と、このとき、普通の調査者であれば最初に思い浮かぶのは、「日本の場合、それをすると“反抗”になってしまうような行為の種類や機会というものが飛びぬけて多いのかもしれない」という仮説である。間違っても「日本の高校生が飛びぬけて権威から自由であるのかもしれない」などではない。

いかにも行き届いていないこのような調査になってしまう原因一つは、各項目のカテゴリーがきちんと同レベルで揃っていないことにもある。本書で紹介されていたのは以下の項目であった。

…と、このようになっているので、「反抗する」「ずる休みする」辺りが他と比較して曖昧である度合いが高い。何が反抗であり何だと反抗でないのか、どんな欠席だとずる休みでありどんな欠席だと正当な欠席なのか、など曖昧でしかない。また、単に曖昧であり「外延」がその環境や文化によって異なるだけでなく、当人が「規範意識」が高いほうがむしろ「違反」に敏感になる、というある種の逆比例の回答結果になる可能性もある。ある程度規範意識の高い者のほうが「反抗」や「ずる」休みに鋭敏になり、したがって違反回数が多い者がするような回答をしがちであるというその一方で、規範意識の低い者のほうが「反抗」や「ずる」休みに鈍感であり気にしないので、したがって違反回数が少ない者がするような回答をしがちである、ということも起こりうるわけだ。他の項目だとそういうことには殆どならない。他の項目はそれらよりはずいぶん踏み込んで詳しく規定されているほうだ。だからそれらでは調査者の意図から外れた回答は出にくい。

また、言うまでもないが、これらの項目の中には重複になりうるものもある。たとえば「授業中にポケベルをする」ことは「先生に反抗する」ことの一部になりうる。もし、そうなりうる状況に置かれた者には、このアンケート項目自体が、「もれなくだぶりなく」からかけ離れた、出来の悪い項目設定であると受け取られる。まして「覚醒剤や麻薬を使う」ならなおさら、日本でなら親や教師に対する「反抗」の一部を構成しうるはずだろう。それらの重複可能性を無視して一括でこのような調査項目を設定し、分析のときに考慮しないのなら、それはまったく無駄な調査である。

おそらくここまで筆者が述べてきたことなど、アンケート調査のイロハであるだろう。調査データのこういった受け取り方が存在することを考慮せず、またアンケート項目にある「反抗する」といった語にまつわる「外延が違うよ」問題にももちろん配慮しない、というこの著者吉岡の「分析」などおよそ馬鹿馬鹿しくて読んでいられないものである。著者はまるで、「反抗する」という語があれば誰もが同じように受け取り、同じような指示対象を想定するものと決めてかかっているかのようである。この態度は著者自身が体現していたその態度と全く同根である。したがって、考察対象であるアンケート実施側のそういった無考慮という要因も見極めることができないわけだ。

そして当然のことながら、ここまでの立論は、ありえない仮定に基づいて行なってきた。つまり、アメリカの「日本語が分かる」高校生と中華人民共和国の「日本語が分かる」高校生に、日本語でアンケート調査を行なった、という仮定で行なってきた。それですら、吉岡が語るような話をする前にしておくべき話がこれだけあったのである。まして、もし実際にはアメリカの高校生には英語で、中華人民共和国の高校生には中国語でアンケートを行なったのならば、なおさらのことそれらのアンケートが言語の違いを超えて同一の機能を果たしうるものであったか、を綿密に検討する必要がある。要するに元のアンケートがどの言語体系で作成され、どのように翻訳されたのか、だ。これを考慮することは当たり前のことだ。もちろんこれは極めて高度の語学力を前提とするため、そもそもこの新書の主旨にもレベルにもそぐわない。ともかく肝腎なのは、著者吉岡が「翻訳」の問題をまったく看過しているというこの点である。

「外延が違うよ」問題は、評価語に顕著な問題かもしれない

「外延が違うよ」問題というのは、評価語に関しての問題であるという可能性が高い。評価語というのは、単なる概念ではなく、価値的評価を含んだ概念のことである。

「ステレオタイプ」は評価語である。ステレオタイプというのは、単に、平凡なモノの見方のことというだけではない。ステレオタイプという語は、その語を使用して他人の言語行為を定式化する者にとってはそれ自体として望ましくないものを指すのだ。もちろん「平凡」という語にもその価値評価が少々含意されているから、その自然な延長上にある価値評価である。ただ、そこでステレオタイプであると定式化されてしまった言語の発信者の側にとってはむしろ望ましい内容であり、そして、その発信者には内容が平凡というふうにもおそらく捉えられてはいない。なので、ステレオタイプという語を用いて他人を評価する者は相手より優越しているという感受をもっていることを表示してしまう。「ステレオタイプな物言いは良くない」という言い方自体がステレオタイプに堕してしまいがちな事情がそこにもある。それよりは単純だが、「反抗」も評価語である。反抗という語も、単に上の立場の者に従わないことというだけでなく、何よりもまず、その語の使用者にとっての望ましくないような不服従のあり方を指す語なのだ。

この本で見られた以上の二つは「それ自体として望ましくない」概念の外延についての不一致の看過であった。しかし反対に「それ自体として望ましい」概念に関しても、その外延が不一致を起こすということやその看過は容易に起こりうるだろう。たとえば「思考」とか「論理性」といった語は、それ自体として好ましいという意味付けを含んでいる。なので、こういった語に関して「あんなものは思考とは言えない」「あんなものは論理性とは言えない」といった不一致が起こりやすいのではないか。また、概念の適用対象である外延が、他人と異なっていることにも気づきにくいし、自身の概念適用が絶対であるように思いこみやすくなるのではないか、と推察できる。要するに、概念の定義としては、二者の間で一致していても、その望ましさに関して評価が真逆であるような場合に、とりわけ「外延が違う」問題が生じやすくなり、その看過もまた起こりやすくなるのではないか。そのように筆者には思える。著者に教わっているという生徒が諦め気味に語るようにまさに意見が違うならいいです。人それぞれですから(p84)という領域での問題だったわけだ。「いや大事なのは問題が解決することだ」と著者がいくら言おうとも、その「解決」もまた評価語なので、その「解決」が適用される外延が著者と著しく異なっている可能性は充分にあり、著者の考える「解決」が読者からみても「解決」と感じられるかどうかは保証はまったくない。その場合には読者は、この学生のようにやはりうそぶくしかないのである。