外山大先生から学べない内容がこんなにある:外山滋比古『「読み」の整理学』

外山大先生のこの著書から学ぶことのできない内容は実に多岐にわたりしかも重要な問題が多い。なので、筆者はこの著書を読むことは全く勧めない。しかしその「学ぶことのできない内容」の訴求に先立ち、まず大先生語録を少し提示しておく。外山大先生の大ファンという読者が全国にたぶんたくさんおられるわけだが、そういう人たちはきっとこの語録に引用したような箇所が大好きなかたがたなのだと推察する。というのも、大ファンである原因がそれしか考えられないからだ。そのため「類は友を呼ぶ」現象が今までにも起きておりその影響は決して小さくない。

なお、日本中に何名かは「外山大」というお名前のかたがいて、教員・講師又は議員・医師・弁護士・漫画家・芸術家等をやっておられるかもしれない。その方々にはお詫び申し上げる。

外山大先生語録

次は、p47からの引用である。

わかっていることについて読むのはやさしく、よくわかり、おもしろい。わからないことを読むのは、ひどくわかりにくい。

次はp97からである。

ここで、わたくしは、悪文を二つに分けて考えたい。「よい悪文」と「わるい悪文」である。「わるい悪文」というのは、わかりやすいことを不当にわかりにくくする文章で、苦労して読んでも得るところのすくないもの。「よい悪文」とは、必然性をもって読みにくくなっている文章で、努力して読めばかならず報いられる。

次はp98-99からである。

(前略)悪文に二種あるのなら、リーダブルな文章にも二種ある。よい良文とわるい良文。いまは、わるい良文が洪水のようにうずまいている。

次はp102-103からである。強調は引用者による。

これまでの章において、二つの読み方があることをのべてきた。序章は別として、第I章と第II章に分けて、それぞれが、この二つの読み方に対応している。

ここでもう一度、この二つの読みを整理しておきたい。

ひとつは、見て知っている野球の試合の記事を読むときに代表される読み方である。既知を下敷にしてわかる。表現そのものが完全に理解されているかどうかは、かならずしも問題ではない。かりに、わからぬことがかなりあっても、なお、よくわかったという印象をもつことができる。

文章を読んで、よくわかったと思っている人に、その文章の一部の表現を抜き出して、その意味をたずねると、まごつくことがすくなくない。それではわかっていないではないか、と言うこともできるが、それで、わかっているのだと考えることもできるのである。

次はp112からである。強調は引用者による。ちなみにこの書は、1981年に講談社から発行された書籍の増補改訂版であり、引用文に登場する現代は1981年(以前)を指している。また「音楽だ、」が二回登場する点は、原文どおりである。なお、この箇所は1981年の講談社版では、二回目のほうの「音楽だ、」は「水泳だ、」であった。

どんなこどもも、生まれたときにことばを知っているものはない。ことばは教えるから覚えるものであることは、オオカミの群の間で育ったこどもがまったくことばを知らなかったのでもわかる。ことばはもっとも早い段階に始まる教育だと言ってよい。ただ、その先生である母親が多くの場合、教えているという自覚がないだけである。

教育への関心がこれほど高くなっている現代において、しかも、早期教育が、音楽だ、外国語だ、音楽だ、絵画だ、とにぎやかに行われている現代において、もっとも基本的な幼児期のことばの教育が、なぜか、ほとんど問題にもならない。

p58。強調は引用者による。

声を出して新聞を読む老人に向かって、うるさいから黙って読んだらどうだ、という意地悪なことを言ったとする。そうすると、悲しそうに、声を出さなければ、読めないではないか、と答えたものだ。声を出すから読めている。黙って読んでは意味もわからなくなる。

こういう読者にどこまで内容がわかっていたか疑問であるが、当人たちはりっぱに読んだつもりになっていた。声を出せば、読めると思っていた。黙読が一般的になったのは、それほど昔のことではない。

p16。強調は引用者による。

もし、ことばとそれがあらわすものごとが切っても切れぬ関係になるとすれば、イヌということばはあの小動物と同じになる。つまりイヌはどこの国でもイヌと呼ばれなくてはならない。(後略)

『「読み」の整理学』総括:エリートが好きで大衆が嫌い

外山大先生による『「読み」の整理学』という書籍には、既発表である筆者の文章のいくつかは多少アレンジすれば充分、適用可能である。たとえば、欠陥書:香西秀信『反論の技術 ―その意義と訓練方法』PISAのアホな出題 検討されない「語彙の意味」「外延が違うよ」問題の看過:駄本―吉岡友治『だまされない<議論力>』で主張したようなタイプの愚かさは、外山大先生のこの書にも独特の形で見られるものである。それらをいちいち個別に指摘はしない。

たぶん外山大先生はエリートが好きで大衆が嫌いなのだと思う。ただし例外的に、同じ系統の「エリートが好きで大衆が嫌い」というタイプのエリートは、自分の分身を見ているみたいな気分になるので、そういう相手のことは大先生は嫌いなのだ。ともあれ「どうやったら大衆である愚かな自分が、エリートのような能力をもつことができるようになれるだろうか」というような読者層が、大先生の嗜好の同調者であるがゆえの支持者であるようだ。大先生のこの本を絶版にしないで文庫本化させた勢力とでも呼ぼうか。

ただしここで注意が必要だ。「誰がエリートであり、誰がエリートでないか」は、結局外山大先生の選択にかかっている。また、同じことだが「誰が大衆であり、誰が大衆でないか」も同様に外山大先生にすべてかかっている。ちょうど、何がステレオタイプであり何がそうでないかが吉岡友治の選択にかかっていた書籍が存在したのと同じように、である

かくしてその「エリートが好き」という欲求が体裁を取り繕われて、「難しい文章が読めるようになるにはどうしたら良いか」という問題意識として、ぼんやりとだが定式化されて、それを追求したふりをしたのがこの書である。ただしこれだと売れる本にはまだ弱いし、何よりもその表現が大衆的であり外山大先生の好みに合わないのだ。そこで外山大先生が本能的に選んだ隠れたキーワード「抽象」であった。「難しい文章が読めるようになるにはどうしたら良いか」だと恰好悪いと感じたので、そこで恰好つけたのが「抽象」とその派生語による粉飾である。かくして「いかにして大衆が抽象的な文章を読めるようになるのか」を論じたふりをして、実は何も論じていない本書が誕生した、というわけだ。数々の無駄なキーワード群はこのような動機と事情から生まれたと思えば良いのである。そこには整合性とか論理性とか批評性といったものなどは、およそ何も無い、と言って良いほどだ。

数々のキーワード群が無駄になってしまう原因は次のような事情にもある。それは大先生が「既知/未知」と「わかる/わからない」と「経験済み/未経験」とを混同していることがある。のみならず、さらにその前提として「経験済み/未経験」と「経験可能/経験不可能」との違いにも頓着しないことも又ある。つまり、「経験済み/経験不可能」という変な区分がしばしば登場する。そして「経験済み→具体/経験不可能→抽象」という砂上の楼閣を作ろうとする。なので、以下、この本から学べない事柄を追求する際にも、それらの区分をきっちりさせていくことが、要諦になる。さしあたり、「わかる」という語の使用は混同の原因になっているので、使用を控え、「理解している/理解していない」「理解/非理解(誤解又は無理解)」という区分を使用するようにしてみる。「わかる」という語が「知る」の要素と「理解する」の要素をもつため、あるいは、「経験する」ことは「知る」も「理解する」も帰結しうるため、この三つをごちゃまぜにしたうえでだらだら書けば、ページと字数だけならいくらでも埋めることができてしまうからである。ところがそれに対して「理解する」という語だと、「知る」の対義語として使う用法に多くの人がなじみがあるため、「知る」と「理解する」を無闇に混同することは避けやすくなる。つまり、「知識だけが有って(知っているだけで)ちっとも理解していない」というのは、普通ならステレオタイプに属する思考停止的な表現であるわけだ。しかし外山大先生のこの本に対しては、上記のような混同を防ぐうえで、むしろ有効な表現であるのだ。ただし「知識」という語は単に「知っていること」を指すというわけではなく独自の評価語として使われる語であるので、「知識」=「知っていること」という使用規則は採用しない。この二つも区別したい。

さて、たとえばp3-4の本書冒頭の次の箇所にもそのような混乱が早速みられる。だからこの冒頭箇所で読む行為をすぐ止めて本を閉じる読者がいちばん賢いと言える。

その後外国語だけではなく、一般の読みについて、二通りの読み方があることに気付いた。内容がわかっている文章を読むのがそのひとつ。もうひとつは、書かれている内容がよくわからない文章の読みである。同じ読みといっても、両者はまったく別のものであると言ってよいほど異っていると考える。いくら、前者、つまり既知の読み方ができても、後者の未知の読み方はそれにつれてうまくいくとは限らない、どころか、まったく読めていない。そういういわば発見である。

内容がわかっているという表現の曖昧さを利用して、「理解/非理解」の二分法と「既知/未知」の二分法とを両方とも述べたことにしてしまっている。そして、それは実際には、結局何も述べていないのに等しいのである。

『「読み」の整理学』から学べないこと:難しい語と易しい語

「難しい文章が読めるようになるにはどうしたら良いか」という問題意識を実際に追求した本であるかどうかがすこぶる疑わしい書籍であるが、しかし読者のほうでそのヒントを期待して読むことが多いという書籍ではあろう。そのために必要な考察はいろいろあるが、まずもって「難しい語とは何か。あるいは正反対に、易しい語とは何か。」という話題を考えておく必要がある。そして、この話題に関して、この大先生の著書はほぼ何もヒントを与えていないと思う。なので、この件がこの本から学ぶことのできない内容の一つである。以下それについて少し述べる。

難しいというのはもちろん理解するのが難しいということである。なので語の難易度という話題は、もちろん語の使用を理解することの難易度ということになる。ところで、「理解するのが難しい」というのは、内容が難しいからとはちっとも限らない。まずこの当たり前のことを押さえておく。

理解することが難しい文言の一つに、複数の解釈が可能でありどれだか決定できないというものがある。たとえば、文レベルの決定不能性であればいろいろ考案することが比較的容易にできる。特に、文法的に必須の成分が欠けていても構わないのならばそのような文はとりわけ容易に作ることができ、時には意図的に使われる。たとえば「欲しい物が欲しいわ。」とか「私はかわいいから卒業する。」などの、広告に使用される文がそうだ。これらの文には複数の解釈がありえ、一つの意味に固定しきれない。これらは異化効果を狙った計算づくのものであるが、一方で、大先生の著書のように「天然」でこういった文章を次々繰出してくることも起こらないではない。なのでこれがもし、語の場合であれば、いわゆる多義語もそうだが、多義的に使われやすい語、意味を固定させるのに不可欠の要素を欠落させたまま使われている語、などが「理解することが難しい語」に該当する一つのタイプである、と言える。多義性について言えば、たとえば「わかる」などもその一つである。内容がわかっている文章というフレーズの中での「わかる」は、特定の一つの意味に確定しがたい。つまり「既知である」も「理解している」も可能な解釈であり、しかもその二つは異なる。なので、この場合の「わかる」はこの段落に述べたような意味あいで、「理解することが難しい」語である。こういう難しさが存在するということは、この書から学ぶことはできにくいはずだ。あるいは不可欠の要素が欠落しているという点について言えば、こうだ。たとえば「○○は必然的である」とだけ書いて、何についての必然性なのかを一切書かないというような無愛想な書き方をすると、やはり文意が決定不能になる。しかも著者は説明した気でいることも起こりうる。たとえば「関係」という語について、そのようなことが起こりうる一例を示す。「新宿駅と南新宿駅との関係」と「品川駅と北品川駅との関係」は似ているか、似ていないか?この問いに対してはどちらの回答も可能である。路線的な関係なら似ている(「起点駅」と「次の駅」という関係)。地理的な方角関係ならまあまあ似ている。大まかには南北の関係にあると言いうる(google検索:新宿駅 南新宿駅google検索:品川駅 北品川駅)。しかし駅名の名称どうしの関係ならば正反対の関係である。このようなときに、ある特定の関係のみが念頭にあって、他の可能性を考慮していない人だと「“新宿駅と南新宿駅との関係”“品川駅と北品川駅との関係”は似ているか、似ていないか?」とだけ表現してすべて言ったような気になっているし、自分の想定した方向で理解しない相手を馬鹿だと見なすようにもなる。「説明不足」から来る難しい語というのは、こういうところにもその原因があるのだ。

多義性と関係ある要因としては、比喩的な転用も理解することの困難になりうる。特に、比喩を用いているため理解しやすいだろうと発信者自身が思い込んでおり、そのため語の説明に不可欠な要素を欠落させて使うと、そのようなことになる。なお、ここでの比喩的な転用の中には「時計の針」や「パンの耳」のような、他に表わす語が無いので使われている「やむを得ない」比喩も含めて、少し広めに想定している。さてたとえば「ことばとそれがあらわすものごととのに成立する関係」という言い回しに使われている「間」の語が、その比喩的な転用である。この「間」という語は、「新宿駅と南新宿駅とのにある距離」というときの「間」とは異なっているからだ。このような表現は単に説明不足を帰結しうるだけでなく、比喩的表現による誤解も生みやすい。たとえば「新宿駅と南新宿駅とのにある距離」と「南新宿駅と新宿駅とのにある距離」は同じになるはずだろう。しかし「ことばとそれがあらわすものごととのに成立する関係」と「ことばがあらわすものごととことばとのに成立する関係」が同じであるとは限らない。もし同じではないという用法に従った場合、たとえば「イヌという単語は、犬の個体たちを指示するのに使われたり、哺乳類の下位概念の一つを指示するのに使われたり、スパイを指示するのに使われたりする」という「関係」と、「哺乳類の犬を指示可能な単語には『いぬ』『dog』『hund』…がある」という「関係」とを区別することも不可能ではない。その一方で、もし同じであるという用法に従った場合には、そのいずれか片方のみを指していてそのことを明記していないケースがありうることになる。そのどちらなのかをこの表現だけから決定することは困難である。これが、比喩的な転用が産み出しうる誤解、特にその比喩の使用者自身に起こりうる誤解の、単なる一例である。なお、今しがた用いた「比喩的な転用が産み出しうる誤解」の「産み出」すも、比喩的である。「転用」ですら比喩“的”だと見なすことも不可能ではない。この点については後述する(←“点”も比喩的である)。

「ことばについてのことば」にも、習得の困難が予想されるものが少なくない。というのも、「ことばがあらわすものごと」の中に「ことば」や「ことばを用いた行為」などを含めた上で、言語教育・国語科教育を考えるということがおよそ満足になされていないから、という理由がある。外山大先生もまた、ことばがあらわすものごとの中に、こういったものを特に含めて考慮している形跡は特に無かったと思う。それに大先生のこの書は、そもそも「コミュニケーション」について、階級問題の箇所を除いてはほとんど書いていないのである。なので、これはこの書から学べない内容の代表である。たとえば「挨拶」という語も、「ことばについてのことば」の一つである。これを幼児が習得することが困難であることは、わりと容易に想像がつくと思う。「何をすれば挨拶になるか」までは多少習得できたとしても、「何をしたら挨拶にはならないか」までは習得することはまず難しい。あるいは「誇張」という語も、「ことばについてのことば」である。ところで「挨拶」もそうだが、「誇張」もまた評価語である。「挨拶」とはまずは望ましい事柄であるうちの、ある種の言語現象であり、「誇張」とはまずは望ましくない事柄であるうちの、ある種の言語現象である。なのでとりわけ「誇張」という語に関しては「外延」が人により立場により相当異なることが予想できる。ある人が「これは誇張だ」と主張する事柄が別に人は「いや誇張ではない」と主張することが起こりうる。ここでは実際には事実認識に関する対立から生じたものをも価値の対立のようにして争う者が少なくないので、決着は大概つかない。そんなこんなで、こういった語は習得もまあそうだが、自分が適切に使用するのもまた難しい語になりやすい。先の「挨拶」と同様、「どういうときにどういうふうに使って良い」のほうは習得できても、「どういうときにどういうふうに使うと良くない」のほうの習得にきりがないからでもある。

ところで、ことばと呼ぶか言語と呼ぶかは立場により異なるだろうが、とにかくその「ことば(又は言語)」というのは、文字化することも音声化することもでき、そのことでことば(又は言語)それ自体を物体的な対象のようにして扱うこと・見なすことが可能になる。言わば「ことばごっこ」「言語ごっこ」である。先に一瞥したような比喩的な転用と、この「ことば・言語を物体化してことばごっこ・言語ごっこ」を行なうことから、数多くの「難しい語彙」や「難しい表現」が産出可能である。たとえば「新宿駅と南新宿駅との間」という表現と同形と見なすことによって、「ことばとそれがあらわすものごととの間」という表現を作り出すことができる。これはわりと容易に受け入れられる表現だ。というのも「ことば」と「それがあらわすものごと」というふうに文字にして紙の上に描くことができるし、そうすると「新宿駅と南新宿駅との間」と同程度の難易度であるような気分になることもできるからだ。同様にして「ことばを使う」という表現も「鉛筆を使う」という表現と同形と見なして受け入れることが可能になるし、「長い文章」という表現も「長い鉛筆」とか「長い時間」と同形と見なして受け入れることが可能になる。「表現を産み出す」とか「比喩的に転用する」という表現ですら見方によってはそうだと言いうる。「発言を取り消す」ということで言わんとすることも、紙の上に書いた文字列を消しゴムで消す視覚的イメージや、抹消記号を上から重ねて描いたりする視覚的イメージ…「発言」…と結びつけて、理解しやすくなる。

身体感覚や知覚や感情に関する語のなかには、その習得の段階で困難があるものが少なくない。その困難を考慮すると「難しい語」と言いうる。たとえば色名である。「あれは赤色だね」「へーあれが赤色か」というようなやり取りで「赤色」の意味が伝わるだろうか。まず自分が見えているように相手にも見えているかどうかが、確信できない。また、同じように見えてはいても、「色」ということで同じ事柄を指しているかどうかもわからない。と言っても、そういうことを懐疑し出すのはある程度長じてからではある。なので、この種の困難も、ある程度長じてからのほうが深刻になりうる。ともかく、「同じ事柄」について指し示すときに、そもそも「同じ事柄」になっているのかどうかが、感覚・知覚の一部・感情に関してはまったく保証が無い。また、とりわけ身体感覚や感情のように、「自分の身体」にのみ起こっている事柄を指し示したい場合、「同じ事柄」をそもそも共有できない。なので、この種の語にはとりわけ習得段階での困難がある。おそらく「感覚質」や「クオリア」と呼ばれているものも、これだ。また、その感覚の名詞形やその上位概念は、いわゆる「抽象的な」語にもなりうるので、その「抽象的な」語の使用や受容にまで結局影響することになる。また、こういった種類の語の派生語や、これらを比喩として用いた表現も多いので、そういった関連語にも影響する。なお、上位概念というのは、この場合、たとえば「痛覚や圧覚や」といったものを「身体感覚」とまとめて表現したり、「視覚や聴覚や」といったものを「知覚」とまとめて表現したりする、その「身体感覚」や「知覚」のような語がその一例である。

専門用語や領域固有性の高い用語、それらと同程度に使用されうる固有名に関しても、外山大先生は何か述べていたと思うが、何か役に立つ内容であったという記憶は筆者には特に無い。大先生はとにかく新聞の社説というものにご執心であり、あれくらいは読めて当たり前だという態度であった。しかし、もしこれが「高等学校での教育を受けていればその成果によって読めるようになるはずの内容である」ということを意味するのならば、初版発行の1981年から2017年現在までの期間は、そういう期間ではなかった、そう断じて良い。新聞の社説をもし読めるようになりたいのなら、政治経済や世界地理・現代史に関するかなりの知識が必要であり、高等学校までの学校教育は特にそのために行なわれているわけでは全くない。かりに学校の教育内容が社説を理解するために役立つ場面があったとしても、それは偶然だったり回り道だったりするだけだ。この話題は筆者にはちと荷が重い気がするが、いちおう二点だけ補完的に述べておく。一つはこのサイトのあちこちで述べているように、「専門用語とふつうの語彙とが同じ形をしているのに、違う用法である」というケースが存外多いということである。ただ、もし政治経済の場面で考えるなら、それは「政治の用語と政治学の用語との用法の違い」、「経済の用語と経済学の用語との用法の違い」…ということになり、大先生的には、最初から一般大衆の生活世界の外部に存在する問題ではある。そして、社説はこの場合には「ふつうの語彙」のほうにむしろ該当することになる。なのでこの認識が役立つのは、政治学や経済学のテキストを勉強することで結果的に社説が読めるようになった人、のようなコースをとろうとする場合だけかもしれない。とは言え、そのコース自体は割合標準的なものではあるので、つまり、大学の政治や経済やの関係学部を出て、そのことによって結果的に新聞が読めるようになった人は少なくないはずなので、筆者の提言も一定程度役立つはずではある。もう一つは、専門用語や領域固有性の高い用語に見られる「理論性」である。たとえば、ジャンケンの「パー」だけ知っていて「グー」を知らないということがもしあれば、それはジャンケンの理解に著しく支障をきたすはずだ。「パー」「チョキ」「グー」はまとめて全部知っていて、またその相互関係も知っていて、初めてジャンケンの一部を理解していると言いうるからだ。将棋の駒の進め方のルールでも同じことで、「特定の駒だと知らない」というのでは、将棋についてほとんど何も知らないことになる。このように、「用語どうしの関係やつながりをまとめて一挙に全部理解する」ようにして学ばないといけない局面というのが、多々ある。日常的な語でも多少はそうだが、専門用語や領域固有性の高い用語だとなおさらである。なので、「首相と大統領とはどう違うか」とか「共和制と立憲君主制とはどう違うか」とか「資本主義と社会主義とはどう違うか」といったような事柄は、一つひとつをばらばらに学ぶとか、新聞の社説を読む経験を積む中で徐々に獲得していくものではなく、最初から教科書的な書籍なで一挙にまず学習してしまうタイプの語認識であると言える。まあ「理論性」ということで想定できる内容はこれだけではないだろうが、これもまた専門用語等の習得や理解のうえで重要なポイントの一つではある。これらは、大先生のこの本からはまず学ぶことができない内容である。

では、その反対に易しい語とはどのようなものか、となるとなかなかこれは難しい問いである。多義的・比喩的に使用したりすることができにくい、一語につき一定義のみ対応させれば済むような単語であり、なおかつ直接観察可能な物体・生命体の状態や運動・変化などを指示する語や、誤読してもあまり支障がないような・心情描写・風景描写などに使われる語、といったあたりになるのではないかと推察する。その一方で、価値的な評価を行なう語は、送り手と受け手の側で食い違いがあっても気づきにくいところがあるし、総論や一般論を述べるのに適した語は、日本語の場合冠詞がつかないので、量化表現などの論理性が曖昧になりやすい。そういった点を考えると、使う側にとっては易しい語であっても、受け手に正確に伝わるかを考えると少々それは疑わしい。なので、外山大先生とはこの点ではかなり意見が異なることになるが、文学作品に登場するような「描写」に使われやすい語というのが、比較的易しい語の候補として挙げることができる、と筆者は考える。反対に、全称命題を気安く述べることのできるようなときに登場しがちであるような、総論用・一般論用の語は、送り手が思っているほどには易しい語ではないかもしれない。

ただし、当然のことながら、漢字の習得には段階があり、その公教育上の順番や指定された読み方も定まっているので、そこから著しく逸脱するような「難しい漢字」を使わないと表記できないような語や「指定されていない読み方」をする語だと、いくら他の条件を満たしていてもダメである。また、同音異義語が多くその使用頻度も似たり寄ったりの語が多い語だと、それだけでもいくぶん難しい、というか使用上間違えやすい語になりやすい。

『「読み」の整理学』から学べないこと:「知っている」の様々

外山大先生はこの書で「既知」「未知」というキーサードを頻繁に使用している。しかしその頻度のわりには、これらについて理解が深まる書であるとはとうてい言えない。そのことが端的に次の箇所に表われている。p52。

(前略)単純明快。知識が多くなればなるほど、ひとのことばがよくわかるようになる。知識がすくなければすくないほど、読んだり聴いたりすることは難しい。

この箇所は端的に誤りだと思う。量化子などが特に書かれていないが、上の引用箇所は全称命題と主張したものだと解釈して問題ないはずだと思う。なので、反例を一つ挙げればそれで反証は充分であるはずの箇所であると受け取りたい。特に、外山大先生はこの原則を知らないのであえて強調しておく。ただし「知識」という語は特殊な含意を持ちやすい語であり総論の主張には不向きなので、引用箇所の「知識」は「知っていること」くらいに置き換えさせてもらう。また、引用箇所の「わかる」は「理解する」の意味だと受け取ることにする。

上の引用での主張が誤りであると言いうるのは、いくら「知っている事」が多くても、「相手が何を知っているか」や「相手が何を意図しているか」を知らなければ、相手の言っていることがよく理解できるようになるとは限らないし、反対に「知っている事」がそれほど多くなくても、「相手が何を知っているか」をある程度知っており「相手が何を意図しているか」がかなり見当がつくようなら、相手の言っていることがよく理解できる場合が多いからだ。それと同じことは次の箇所にもあてはまる。p69。

既知を読むには、文字さえわかればよい。ときには、その文字ですら明確にとらえられていなくても、文章の見当をつけることはできる。

それに引きかえ、未知を読むには、二重の壁がある。

既知の内容であれば読んで理解することは容易であると大先生は思っている。しかしそれが容易であるのは、その文章が既知の内容であることをあらかじめ知っている場合である。その文章が既知の内容か未知の内容かを知らないうちだと、仮にその文章が知っている文字、知っている単語、知っており理解も容易であるような内容であったとしても、それを読んで理解できるとは限らない。とは言え、われわれは超能力者ではない。なので、与えられた文章や音声が「既知であるか未知であるか」をあらかじめ知ることは、大概できない。ある程度「見当をつける」ことになる。なので、その「見当をつける」ことが可能な程度の情報を、相手の文章や音声から感知できるかどうかである。それができにくい対象である場合、文字・語・内容がすべて既知であり理解可能であったとしても、なお、理解することが容易にならない可能性は残るのだ。

この点に関連した誤誘導的な箇所がある。それは「ウソ」という語の用法に関する大先生の理解についてである。こういうことである。私たちの「嘘」という語には大別して二つの用法がある。「相手を騙す」ということを中核とした「嘘」と、「事実と異なることば・言語であると知っていてそれを述べる」ということを中核とした「嘘」である。この二つの用法のどちらがより基幹的であり、どちらがより派生的であるか、あるいはそもそも基幹的/派生的という関係には無いのか、は見た目よりはだいぶ難しい問題である。

というのはこうである。「事実と異なることを意図的に述べて相手を騙す」言語行為を「嘘」と呼ぶことには、あまり異論が無いと思う。問題はまず「事実と異なることを意図的に述べる」がしかし「相手を騙す」というわけではない、という言語行為がどうか、である。小説を書くことや、まじめなコマーシャルやドラマで演技をするときなどがたとえばそうだ。これらを「嘘」と呼ぶ者もいる。大先生も「広義の嘘」と呼ぶ。しかし、筆者の印象だとこちらを「嘘」と呼ぶ人は、なんだか分類や分析をなりわいとする人に多いというのがあり、あまり一般的に普及した呼び方ではないように思える。また、「騙す」ことを「嘘」と呼ぶときのような価値評価を下すようなところが全く見られない。その一方で、「事実どおりのことを意図的に言って相手を騙す」という行為もありうる。たとえば普段から嘘つきである人物があえて事実どおりの事を言って相手を騙そうとする場合などである。この場合も普通は「嘘」とは呼ばないだろう。「演技」とか「フェイント」とか「欺瞞」とか別の語彙を使って非難されることが多いはずだ。そういうわけで、「相手を騙す」言語行為であることと、「事実と異なることを意図的に言う」こととでは、どちらが基幹的でどちらが派生的ということは決めにくく、したがってどちらが狭義の用法でありどちらが広義の用法である、ということは決めにくいのでないか、と思うのである。これが大先生の主張の誤誘導的な点である。なお、この点に関連した立論を「ことばの意味」はどう教育されているかでも少々行なっている。こちらで批判している論も大先生の影響を受けているふしがあるので、併せて見ておくと良いかもしれない。

なお、単に「事実と異なることや事実の裏づけの無いことを述べる」だけなら、「嘘」と呼ばれる筋合いはない。たんなる「誤り」だったりたんなる「おしゃべり」だったりするだけである。幼児の言語について語るときにも、「意図的に事実と異なる」ことを述べているのか、それとも「意図的とは言えない」のか、の違いは重要である。またそれとは少し異なるが、「事実と異なる」と「事実に反する」と「事実の裏付けがない」などとは少しずつ異なっており、筆者は「嘘」と呼ばれ得ることを指すのには「事実と異なる」が良いと思えた。「事実の裏づけがない」言語行為とはたとえば、引用者による次の強調箇所などがそうである。p21。

マニュアルは商品についているいわば売りものである。わけのわからぬものを作って客に読ませるわけがない。書き方は上手でないかもしれないが、ワープロを動かすことのできる情報は伝えているはずで、そうでなければ、メーカーの内部でもチェックされるに違いない。実際、大多数の使用者は、そのマニュアルで何とか操作を覚えて使っている。(後略)

読者の中にはこの箇所を読んで、「外山先生は何と博識なんだろう。大多数の使用者がワープロをマニュアルで何とか操作している、などという事実まで知っているのだから」と感心した者もいたかも知れない。しかし筆者はそうは思わなかった。「事実の裏付けのない」ことをまるで事実を述べるときのように書いたに過ぎない、と思った。というのは、マニュアルがわかりにくければ、そのマニュアルよりも数倍分かりやすいということを売りにした「ガイドブック」が書店や電化品店に並び、どうせそちらをユーザの多くは購入しそちらを頼りに使うだろうと思ったからだ。たとえば筆者もパソコンのときはそうした。またこれがもし裏付けのある事実なら大先生は絶対その裏付けを書くと思った。だから書いていないということは事実の裏付けはないのだろうし、この書籍のなかにその種の裏付けの無さそうな主張は他にも溢れているから、きっとそうに違いない、と思った。いずれにせよ、このように「事実の裏付けを明示しないで」述べることを「嘘を言う」とはあまり言わないように筆者には思える。ただし、ここで今一つ重要なことは、「外山先生は、大多数の使用者がワープロをマニュアルで何とか操作している、ということを知っている」とも主張できないことである。「知っている」ということが言えるためには、その内容は事実でなければならない。しかるにこの本書の書き方であると、それが事実である保証は限りなくゼロに近いように思えた。事実(や真理)ではないことは「知る」ことはできない、これが「知る」という語の使用規則のかなり重要な今一つの事実である、と言って良いだろう。この本から学ぶことのできない事柄の一つである。

そういうわけでだいぶ迂回してしまったが、「嘘」という現象について誤誘導するような主張を外山大先生が書いていることは、「与えられた文が既知であるかどうかが、そもそも既知であるか未知であるか」という水準を全然考慮していないことと大いに関係があるように、筆者には思えたわけだ。言うまでもないが、相手の書いている文字・語・内容をすべて知っていたとしても、相手が嘘を言っているか、事実の裏付けの全然ないことをただ放言しているだけなのか、が判定できなければ、相手の言っていることについて、言っている文自体はかなり理解できたとしても、かなり重要な点についてなお未知のままである。言語理解というものは、「知っている事柄が多ければ多いほど、相手の言っていることが理解できる」などというほど単純なものではないのだ。

「外山大先生のこの本を読んで国語科教育について何か述べる人が表われる」という「馬鹿が新たな馬鹿を生む連鎖」が早く消滅することを願ってやまない。