古い書評:スチュアート ヘンリ『民族幻想論―あいまいな民族 つくられた人種』:民族の例が浮かばない人のための民族・人種本

訳書ではなく最初から日本語で書かれた著作です。

「わたしたち日本人」(!)にとっての「民族」という問題と、「人種」という問題とはまったく違います。「人種」というのは、何よりも視覚イメージの問題です。そして視覚イメージの「好み」の問題です。

たとえば、1976年にテレビ朝日で放映された「超電磁ロボ コン・バトラーV」に登場する「南原ちずる」というヒロインは髪の毛が青系統の色です(Google画像検索:南原ちずる)。その一方で、1974年にフジテレビで放映された「アルプスの少女ハイジ」に登場する「ハイジ」は、スイスかどこかの国に住んでいますが全体的に和風の顔だちになっています(Google画像検索:アルプスの少女ハイジ)。あるいは1971・1977年に日本テレビで放映された「ルパン三世」の主人公「ルパン」は黒髪短髪のやはり和風の顔だちです(Google画像検索:ルパン三世)。日本人風の名前のヒロインが碧眼の少女だったり、西洋風の土地に住む西洋風の名前の登場人物が和風の面立ちだったりするのはなぜでしょうか。なぜ、テレビ朝日は日本に住む白人風の日本人を登場させたり、なぜ、フジテレビや日本テレビは、西洋風の地域に住む和風の外観をもつ西洋人を登場させたり、ということをするのでしょうか。そしてなぜ、その傾向が1970年代の番組までからは看取することができたのでしょうか。ここには、人種という「視覚イメージ」の「好み」の問題があらわれています。これは「放送局の好み」という意味です。「わたしたち日本人」の多数は、このような放送局の好みを反映して、「和風のハイジ」や「和風のルパン」をごく自然に思い浮かべるようになってしまい、白人風のハイジやルパンを思い浮かべることが難しくなっています。あるいは「実物」では見たことがないだろう「青い髪」の美少女をごく自然にたやすく思い浮かべることができるようになっています(これは「碧眼」の強調または代替物なんでしょうか)。言ってしまえば、放送局によってイメージ操作されたわけです。おそらくこの辺が「わたしたち日本人」にとっての「人種問題」です。これはとても理解しやすい問題なのです。

「人種問題」はわかりやすい問題なので、それについての学問的なアプローチもわかりやすいものになります。つまり、「人種による区別に生物学的根拠は薄弱だ・無い」というものになります。いうなれば「トマトが野菜か果物かの答に生物学的根拠は無い」というようなものです。実際、今回紹介したスチュアート氏の著作をはじめ、このテーマの議論ではたいがいそういった「生物学的根拠の否定」のような主張が入ります。これに関するわたしが今までみた限りでいちばんシャープな議論は小坂井敏晶『増補 民族という虚構』で読めます。

「民族」という問題はまったく異なります。「わたしたち日本人」には、教育程度にも因るでしょうが、「代表的な民族をいくつか挙げてみて」と言われて、すらすらと挙げることは難しい人が多いはずです。「アイヌ」「エスキモー」「ユダヤ人」「フツ族」…と「流通している呼び方」でちょっとばかり挙げて見ましたが、これだけですでに問題が現れています。呼び方に統一性が無い!これです。「民族」を指すときに、統一した仕方での識別しやすい呼び方が無いこと、これが「わたしたち日本人」にとっての「民族問題」にほかなりません。「ユダヤ人」?これだと、「アメリカ人」とかの「○○国人」と区別がつきません。「ユダヤ人」も「フツ族」もどっちも民族なのに、なぜ片方が「人」で片方が「族」なの?これもわかりません。さらに「民族」と呼んだり、「部族」と呼んだり、とますますわけがわからなくなります。

呼び方がはっきりしないため、「わたしたち日本人」は民族の実例をすらすらと思い浮かべることが難しくなり、したがって民族に関係した学問的な議論や主張に接しても、本当にわかった気に今一つなれません。スチュアート氏のこの著作が初心者向けに素晴らしいのは、「民族を指すときの呼び方」という問題にすごくこだわって、あれこれの角度から「呼び方の問題」についての立論をしているからです。その問題意識が初心者向けの本として適切だとわたしは思ったのです。もちろんわたし自身が初心者だからでもあります。

「民族」というカテゴリーのわかりづらさは、「地域」という曖昧なカテゴリーに似ていると思います。たとえば「横浜市青葉区」と「川崎市宮前区」とは、片や「横浜市」であり、片や「川崎市」です。しかしどう考えてもこの二つは「同じ地域」という感じがします。そしてどちらも「横浜という地域」「川崎という地域」に属する感じがいまいちしません。もし言うならば「多摩地域」とかそういったほうが適切です。さらには別の都道府県であるはずの「東京都町田市」と「同じ地域」に属する感じすらします。こういうときに、行政的な区分では何か捉えられない同一性や差異の感覚を「地域」とか「エリア」という曖昧な語によって拾い上げている感じがします。この感覚がある程度多くの人、とりわけ住民自身に共有されたときに、その「地域」というカテゴリーは「民族」というカテゴリーと近接しています。「民族」というのも、「国民国家」やその他の「行政的な区分」では捉えることができないものとして、まずは把握されるからです。「民族/国籍」という関係と、「地域/行政区分」という関係が、類比的なわけです。

ただし「民族」の場合、当事者によって把握されているカテゴリーだけでなく、他人によって勝手につけられる「蔑称」なども「民族名」として定着していることも多いのです。自称もあれば、他称もあり、蔑称すらあるわけです。「アイヌ」の人々は「アイヌ」と呼ばないで、「アイヌ民族」「アイヌの人々」と呼ぶことを望んでいます。「エスキモー」や「インディアン」という呼び方にはいちだんと錯綜した事情がいろいろあります。また、さきほど民族は国家的・行政的区分では捉えられないものだと言いましたが、反対に、国家的・行政的な区分によって民族が創出されるケースもあります。そういったややこしさを、ややこしい現実のまま説明しようとしているこの著作は、まさしく初心者向けのすぐれた入門書だと言えます。最後に言っておくと、そもそも「民族/人種」の区分からしてそんなにすっきりしていません。「人種」が視覚イメージの問題であるのは、あくまで最初のアプローチの話であって、「人種という語」が使われる場面においては「民族と人種の区別」からして容易なものではありません。そのことも忘れないほうが良いです。

ところで、国際的なスポーツの大会で日本という国のことを「ジャパン」と呼ばれるたびに「お願いですからニホンって呼んでください」と思う人はどのくらいいるでしょうか。そこで「別にジャパンでもいいよ」という人は、今回のこの本向きではあまり無いかもしれません。というのも、「ニホンって呼んでください」と感じる人のほうが、「他人の痛み」がわかる可能性があるからです。そこで「別にジャパンだっていいよ」「むしろジャパンって呼んでほしい」(エイゴカコイイ)と思うような人は、そう思わない人の痛みを感じない可能性が高いからです。今回はそういうタイプの本であり、そういうタイプの問題を扱っています。

なお、高校生向きというわけでもありませんが、「民族と人種の区別からして曖昧」という事態を実感できる本として、青柳まちこ『国勢調査から考える人種・民族・国籍―オバマはなぜ「黒人」大統領と呼ばれるのか―』は面白かったです。国勢調査というテーマのポイントは、いくつかありますが、「自国民をどうやって分類するかどうかは国家の意向に依る」ということとともに「調査される側にも通じる分類カテゴリーでないとならない」という制約が存在していることです。民族と人種の区別が曖昧、というのは、まずは国勢調査に答える側にとっての曖昧さであるわけです。