古い書評:中村圭志『信じない人のための〈宗教〉講義』:宗教であるかないかが気になる人用の宗教入門

いきなりですが、「茶道は宗教か否か?」に答えられなくても茶道はできます。同様に、「宇宙人を信じることは宗教か否か?」に答えられなくても宇宙人を信じることはできますし、「星占いは宗教か否か?」に答えられなくても星占いを信じることもできます。あるいは「国家元首やロックミュージシャンやアイドルを崇拝することは宗教か否か?」に答えられなくても国家元首やロックミュージシャンやアイドルを崇拝することはできます。また「魔法少女や妖怪が使っているのは宗教的な力か否か?」に答えられなくても、それらが登場する物語を享受することはできます。そして…、それらと同じように、「キリスト教は宗教か否か?」に答えられなくてもキリスト教を信じることくらいはたぶんできるのです。対象を信じることや崇拝することというのは、「宗教か否か」には答えられなくても大体できるようです。

信じることや崇拝することにはこのように自由な面がありますが、服装や恰好、そして言動となってくるとそこまでは自由ではありません。ミスタードーナツやのバイト店員になったら、男性の場合髪の長さからして自由ではなくなります。社員ともなるとお経も唱えるそうです(伝聞です)。この段になっても、「ミスドは宗教か否か?」には答えられない人もいるかもしれませんが、どう答えようと関係なく、してはいけない髪型やしなければならない読経などは存在するわけです。ただこの段階だと、校則の少し厳しい公立中学校と区別がつかないとはまだ言えます。ただし一つだけ違う点があります。「なぜその髪型でないといけないのか」「なぜお経を唱えないといけないのか」と理由を聞かれたとき、公立中学校の場合は「とにかくダメだからダメ」「中学生らしくないからダメ」となるくらいなのに対し、ミスドの場合は「わが社は仏教を奉じているからダメ」「要するに宗教的な理由でダメ」という答え方が可能性としては存在し得る、ということです。同じことは私立の宗教系中学校にも当然言えることでしょう。売っている商品がドーナツであることにも、ミスドの場合宗教的な理由がひょっとして存在するのかもしれません(あくまで可能性があるというだけです)。

と、ここまで書いてきて、ミスタードーナッツの男性髪型(ヘアスタイル)は解禁されたの?などを見てみました。それによると、髪型の規制が思っていたより全然緩かったです。「角刈りより短くないとダメ」と聞いたのは昔の話だったのでしょうか?

…というぐあいに、ふだん無宗教な暮らしをしていてもふと考えてしまうことがあるのです。たとえば「ミスドでバイトしてみようか」とか「娘はミッション系の幼稚園に入れようか」とか「隣に引っ越してきた人はどこかの教団に入っているらしい」とか、そんなことからふと「宗教と非宗教の境目」といったテーマに思いを巡らせてしまうことが生じ得ます。ある特定の宗教にのみ関心をもつということも起こり得ますが、それと同じくらい「宗教一般とは何ぞや」「何が宗教で何が非宗教なのか」といった、やたら一般性の高いかたちをした関心が起きてしまうこともありうるのです。

もちろん、「ひどい目にあったのは天罰だ」とか「もはや運を使い果たした」とか、そういったことを考えてしまうときにも、宗教的なテーマにどこか触れていると言えます。とはいえ、これらは既存の宗教を知らなくても考えることはできる、ということも重要です。自分の考えている事柄が宗教であるか否かを知っている必要もありません。

また、社会学や人類学や歴史学、あるいは哲学・心理学あたりをやっていると、その中に「宗教社会学」「宗教人類学」「宗教史」などといったかたちで「宗教」に関係のある話題が登場してくることがままあります。民俗学ならなおさらでしょう。こういう諸学を学ぶときにも、宗教についての特に固有名のごく初歩的な知識や語感があった方が得かとも思います。

さて、宗教については大要、次のような観点がありえます。

  1. 非信者が宗教についてどう思ってどう行動しているか
  2. 信者が宗教についてどう思っているか
  3. 信者が宗教に対してどう行動しているか
  4. 宗教家が宗教についてどう思っているか
  5. 宗教家が宗教に対してどう行動しているか
  6. 宗教学者が宗教についてどう思ってどう論じているか
このとき、上掲の中村氏の著作では、5番目の「宗教家が宗教に対してどう行動しているか」が中心に説明されている、と言えます。しかもそこで扱われているのは有名な宗教がほとんどです。そういうわけで、中村氏の著作の特に前半2/3くらいは、まずは「有名な宗教に関して、開祖やその後継者がどう行動したか」を中心に扱っていると言えます。ですから有名な宗教や派閥、有名な宗教者の固有名がたくさん出てきます。誰がどうした、どうなった、という行動や勢力関係の話題が多くなります。つまり宗教史です。歴史の年表に(可能性としては)書かれるような事柄です。そこには実質的には、3番目の「信者が宗教に対してどう行動しているか」も含まれていると言えます。宗教団体の盛衰や動向に直接関わるからです。そしてそれを取り巻くような形で、宗教家や信者や民衆が「何を感じ考えていたか」といった話もときどき登場する、というわけです。「何を感じて考えていたか」は歴史の年表には書かれませんよね。その違いです。そういうわけで、この著作は、まずは、「どんな有名な宗教があり、どんな有名な宗教家がいて、どんな有名な歴史上の人物と関係があったか。宗教どうしの勢力関係や影響関係はどうだったのか」といった事柄を押さえるのに適しています。ただし網羅的な本ではないので、「この本で知識を習得する」本というよりは、「この本で、どんな知識を習得すれば良いかを知る」本といった感じです。説明も上手ですし、そういう初心者向けの教材としてこの著作はすぐれていると、まずは言えます。

さて、そのようにして宗教年表や宗教思想史のようなものを作ろうとしたときに、「儒教って宗教なの?」とか「尊王攘夷思想って宗教なの?」といった、わりと難しめの問いがどうしても出てきます。先の区分での1番目から5番目に登場する「宗教」に何が入り何が入らないか、を決めないと先に進めないわけです。対照して、宗教の信者になるときには、あるいは何かを強烈に崇拝するときには、その対象が宗教の対象であるか否かを知っていることはあまり関与しません。しかし宗教年表や思想史を編纂しようとするときには、おそらく「何が宗教であり何が宗教でないか」を態度決定する必要がたぶん出てくるのです。あるいは図書館や書店の本棚を作るときに、「宗教の棚」に何を入れて何を入れないか、を決めるときにも必要になります。

6番目の「宗教学者が宗教についてどう思ってどう論じているか」こそが実は最初にあった、ということがそこで重要になります。宗教学者が宗教と非宗教との仕分けをしてきたからこそ、私たちは宗教についての歴史を編纂し、宗教について論じたり(「神とGodは違う」など)できるようになったのです。宗教を信じたりするだけなら、宗教かどうかを知る必要はありません。しかし宗教についての事実を説明したり、宗教史を編纂したり、といったことをするときには、それが宗教であるかどうかを知る、というより決める必要があるのであり、そこの次元に関わっているのがまずは宗教学者という存在だったのです。ただし宗教学者の認識は、政治経済などの生活次元で後押しされてもいます。中村氏のこの著作を貫く認識がそれであり、印象的に表明されている箇所がp187にあります。強調は原文では傍点です。

「昔の人びとは宗教的であった」「ヨーロッパは合理的だが、アジアは宗教的だ」というのが常識的な認識ですが、それとは逆に、「宗教近代ヨーロッパにおいて生まれた」と言う見方も成り立ちえます。「宗教」が人生のなかで屹立した独立領域になったのは、西洋の近代においてだからです。

この認識が透徹していることが中村氏のこの著作を、単なる「初心者向けのわかりやすい教材」以上のものにしています。「何が宗教であり、何が宗教でないか」という区分をしたがること自体が、近代西洋の産物だったわけです。著者の比較的独自なそういった主張が主に後半1/3くらいで述べられます。またおそらくそのためだと思いますが、この本は全体的に宗教の教義についての知識があまりつかない本だとは言えます。先の区分でいったときの4番目の「宗教家が宗教についてどう思っているか」についての知識ということです。この著作ではむしろ、宗教外のひとびとの営みを知ることこそが宗教を知るためにも重要である、という姿勢を特に後半で打ち出しています。

ところで、先の区分でいったときの2番目の「信者が宗教についてどう思っているか」と4番目の「宗教家が宗教についてどう思っているか」と6番目の「宗教学者が宗教についてどう思ってどう論じているか」とをまとめて「宗教観」という概念であらわすことも可能でしょう。その水準に照準して、この中村氏の著作と似たような論調を見せる本に以下の、宇都宮輝夫『宗教の見方―人はなぜ信じるのか』があります。

宇都宮氏のこの著作は、宗教観の検討を中心にした宗教概念の解明を目指しています。論旨が全体的に中村氏の本と似ているので、特に「宗教学者がどういうことを述べているのか」の知識や見識を得て議論をしたい、という向きには薦められます。必要十分条件にこだわり厳密な議論をめざす姿勢が見られ、ある程度専門的に勉強する大学生や市井の好事家にお薦めです。p79には、ミスドの親会社であるダスキンについて「経済活動もやる宗教団体という見方もできる」と一言ばかり言及してもいます。中村氏の本が「宗教入門」であるのに対し、宇都宮氏の本は「宗教学入門」とでも位置づけられるでしょうか。