古い書評:許光俊『クラシックを聴け!―お気楽極楽入門書』:結局はドイツロマン派入門だがそれで良い

許光俊『クラシックを聴け!―お気楽極楽入門書』。クラシック音楽に造詣の深い若造が書いた、バナナのたたき売りのような、羊頭狗肉で首尾一貫しない本です。とは言え、どう考えても逆よりはマシです。つまりクラシック音楽に造詣の深くない人や趣味の悪い人が書いた良心的な本よりは、クラシック音楽に造詣の深く趣味の良い若造が書いたハッタリ本の方がはるかに良い、です。この著者(そしてこの本)が重宝されているのは結局そこに尽きると思います。

さて、この本のメインテーマは結局「ドイツロマン派の終焉」という話です。すなわち、モーツァルトが終わらせてしまった従来の音楽にとってかわるようにしてベートーベンの第九が登場し、そして、第九のような音楽に憧れつつもそうなることを良しとしなかった作品群がその後の時代で次々と登場し、そしてついに「第九のような音楽に憧れた時代」がやがて終わっていく、という、そういうよくある話が結局この本のメインです。なお、そういうオーソドックスな話をしている本であることがこの本の人気の秘密なのかもしれません。

さて、この中心的な話題がぱっと見では気づきにくいのは、「最初に聞くべき三曲」のうち一曲がチャイコフスキーのもので、もう一曲がモーツァルトのものであることによります。しかしこの二曲は結局「ベートーベンの第九を理解するためのより良い手段」として選ばれたものである、と解すればさほどの違和感はありません。すなわち、ドイツロマン派のエッセンスは、ドイツロマン派の結果であるチャイコフスキーと、ドイツロマン派の前提であるモーツァルトに、もっともよく表れている、ということだからです。そして、この二曲で耳を訓練してから「さあいよいよベートーベンの第九を聞こう」というわけだからです。

以上の基本主題がわかると、この本の羊頭狗肉なところがわかります。次の三点が尻切れトンボだったり、または曖昧だったりします。

第一点。この本は「クラシックはすでに滅びたか、または滅びる寸前かである」ということを序盤で述べて、読者の好奇心をそそっています(注:1990年代の著書です)。ですが、基本主題がわかってみると、それは実は次のような話であることがわかります。「クラシックの曲と言えるものは、実質的に19世紀のブルックナーで終わっている。それ以降の曲は堕落や形骸化でしかない。しかし、それでもなお、クラシックを深く理解して演奏できる指揮者やオーケストラは20世紀になっても存在していた。ところが、今やついにそのような指揮者やオーケストラも風前の灯である」、これです。つまり著者の言う「クラシックが滅びた」には「クラシックと呼べる曲が作られなくなった」の意と「クラシックの曲を正確に演奏できる指揮者・オーケストラが無くなった」の意とがあり、両者の間には一世紀ほどのスパンがある、ということが言えるわけです。すなわち、クラシックと呼べる曲は十九世紀で滅び、クラシックの演奏は二十世紀末で滅びそうになっている、というわけです。だから、この前者と後者が混然一体となって終末感を作っている著書だったというわけです。なお、著者はバルトークについて本当は一章を割いて論じたかったけど良いCDが無かった、という旨のことを述べていました。もしこれが真であるなら、クラシックと呼べる曲が二十世紀になっても存続していた、という主張になるはずで(曲の滅亡と演奏の滅亡とが時期が近接することになりま)すが、この一章は幻になってしまったので、著者の主張はわからないままになってしまいました。

第二点。「クラシックを聴く前にまず本格推理小説を読みましょう」という主張が尻切れトンボで終わっています。つまり「全体のない部分は無い。部分のない全体は無い」「それこそがクラシックだ」という主張です。この主張がなぜ尻切れトンボに終わっているかというと、結局は「ドイツロマン派以外何がクラシックなのか」が曖昧、というかクラシックであるかないかの根拠が曖昧、ということに原因があると思います。たとえば二十世紀の、技術ばかりが発達したと位置づけられる時代の音楽はどうなのか、リヒャルト=シュトラウスの音楽は「全体のない部分は無い。部分のない全体は無い」というタイプのものなのか、そうでないのか。あるいはソナタ形式で書かれていないだろうバッハの音楽はどうなのか。バッハの音楽は「全体のない部分は無い。部分のない全体は無い」というタイプのものなのか、そうでないのか、その辺がどうもはっきりしないわけです。またもちろん、クラシック以外の音楽であるならば「全体のない部分は無い。部分のない全体は無い」というタイプのものではないと決めつけることができるのか、という疑念についても読者は充分に説得されるわけではありません。そういうわけで、「全体のない部分は無い。部分のない全体は無い」という序盤の主張は、きちんと着地も収束もしないで消えてしまった観があるわけです。つまり、第九に憧れることは滅びたとしても「全体のない部分は無い。部分のない全体は無い」という音楽への志向まで滅びたのかどうかはわからない、ということになるのです。

第三点。「クラシックを聴く前にまず手作りサラダを作りましょう」という主張が尻切れトンボで終わっています。この主張はオーケストラの良しあし、演奏の良しあしを判断する方策として持ち出されていると思えます。特に日本のオーケストラがダメであることを理解する方策として持ち出されていると言えます。あるいは、「録音で音楽を聴くのは良くない」という主張とも連動しているかもしれません。ですがその帰結が今一つはっきりしません。おそらくその原因は「クラシックの全盛期にあっては皆、模範的な演奏をしていたのか。たとえばブルックナーは十九世紀ならちゃんと正確に演奏されていたのか」という疑問をどこか置き去りにしているからかもしれません。さらに言えば本当は著者がこの本を書いていた時期(1990年代)こそが実は「クラシック演奏の全盛期」であったのではないか、という疑惑すらありえます。少なくともブルックナーに関してはその疑いは濃厚です。この尻切れトンボさは、「曲の全盛期」と「演奏の全盛期」とが一致しているはずだ、という無根拠な思い込みに基づいて生まれたものと思えます。しかし生演奏に関しては、録音によって再現することができないと主張する以上、ある程度以上過去のものについては生演奏の良しあしの検証はできないので、著者の主張は肯定も否定もすることができないままになります。

最後に、この本が1990年代の著書であることからもわかるように、ほんとうに怖ろしいのは、著者のような書き手が絶滅危惧種になっているのではないか、滅びようとしているのはクラシックであるだけでなく著者のような書き手の存在ではないか、と思えてしまうことです。少なくとも若造のうちにこのような本を書く著者が滅びた、とは言ってよい気がするからです。ですがそれはもう別の話になってしまいます。わたしとしては、著者のような若造の書き手が現れてほしいのです。バナナのたたき売りのようなハッタリをかました本を書いてほしいのです。だから、そのためにはこの記事で行なったような著作の検討が必要だったのです。