「演繹」定義の伝言ゲーム

序文:「演繹」の定義は棲み分けている

「演繹」という語やその派生語がある。それは通常使うことも触れることもまず無い語である。とは言え、「演繹」というのは実はなかなかありふれた現象ではある。ただそれをことさらに演繹と呼ぶ必要がほとんどまず無いのだ。譬えればそれは、私たちが自分の住所を緯度・経度で表現する必要が普段無いのと、まあ大体同じことだ。そういうわけで「演繹」という語は、主として入門書・学習書と事典・辞典に主に登場することになる。

ところが、入門書・学習書・事典・辞典で見かける「演繹」の定義・規定は、実はけっこうばらばらであり、混乱している。というか、秩序だったしかたで何パターンかに分かれており、その中でも両極端の定義・規定を見れば、それらは相互排除的である。つまり両立不可能である。その棲み分け具合はまるで伝言ゲームの結果のようでもある。つまり、最初は正しかったメッセージが、何人もの人をあいだに介在させることで、少しずつしかし確実に歪んでいき、最後にはほとんど無関係か両立不可能なのいずれかのメッセージにまで変貌してしまったかのようである。

この棲み分けには重大な問題点がある。それは、たいがいの人が「演繹」という語の第一印象を形成する機会に教わる定義は、伝言ゲームの結果として歪んだかのようなほうであり、つまりは専門性・汎用性に乏しいもののほうである、…という問題点である。つまり多くの人は、まず第一印象で「不適切な」印象を形成されやすいのだ。そしてこの多くの人は、その後演繹という語に縁の無い一生を送ることになる。また、その「不適切な」定義を多くの人に伝えた側も、実はその定義文を書くとき以外、演繹という語に用の無い人たちなのである。反対に、演繹という語を職業や立場の関係上比較的使う人にとっての定義は、この「不適切な第一印象」が形成された後に教わることになる。しかもそれはごく一部の人たちだけに限られている。演繹という語が比較的必要である度合いの高い、いわば「専門家」の用いる定義や規定は、ほとんどの人に伝わらない。また、こちらの方こそが「一般人」から見れば「誤り」と判定されるリスクすらある。特に、専門家の本で学んだ学生などがそういうリスクに直面しやすい。一般人からすれば「ほら見ろ、この辞典にはちゃんとこう書いてあるじゃないか!」というわけだ。専門的な定義で学んだ学生がそのことで割を食う破目になる。

「演繹」という語に比較的用のある専門的立場の者の定義が「誤り」とされかねない。そして、そのような事態になっている原因は、「演繹」という語にほぼ全く用の無い人たちが下しあるいは学んだ定義にあるわけだ。これは大学での学問の専門性を重視する、当サイトの立場からすれば、看過したくはない状態である。そういうわけで、「演繹」定義の現状に関して、何パターンかに分類し、それらの間の「伝言ゲーム」の過程で歪みが生じているかのように、描き出すことにした。実際にそのような伝言ゲームが行なわれたわけではないだろうが、あたかもそういう伝言ゲームが存在したかのように整理することで、事態が見えやすくなる、と期待してのことである。

step01. 専門家による「演繹」の説明 ―「演繹」と「それ以外」―

「演繹」の定義が棲み分ける原因の一つは、「定義文を書くことを仕事とする人」の書いた定義を、人々が最初に学習して固定観念を植え付けられてしまうことにある。なので、ここでは最初に、そうではない専門家の定義や規定を学習してもらうことにする。というのも、専門家の定義や規定を最初に学習する、というやり方が普及されるだけでも、棲み分け状態をマシにできると信じるからである

では「演繹」という語の専門家は誰なのか。少なくとも論理学の専門家ならば「演繹」という語の専門家であることは確かである。しかし日本の大学には論理学の専門家を養成するというコースはほとんど見当たらないようだ。また、すぐ後で言及する『新版 論理トレーニング』のp101に記載があるように、現代の論理学はそのほとんどは演繹を扱う。そのため、演繹と演繹以外とを比較するということは論理学だけの専門家ではやや不十分かもしれない。だからたとえば論理学を含む数学の専門家では不十分かもしれない。そういうわけで、論理学とその関連領域とに両方通じている専門家が好ましいと推察される。それは日本の大学制度では、まずは哲学の専門家ということになる。つまり、論理学に強く関連する著作を出しているような哲学の専門家がまずは良いわけだ。ではさっそく確認してみる。

『新版 論理トレーニング』(2006,産業図書)(amazon)の著者である野矢茂樹に登場願おう。この著作は、序論「論理とは何か」、第1部「接続の論理」、第2部「論証」、第3部「演繹」、第4部「議論を作る」という構成になっており、「演繹とは何か」の定義・規定を演繹以外との比較によってなしうることが期待できるわけだ。ただし、より明快で簡潔な定義は、練習問題を中心とした、『論理トレーニング101題』(amazon)のほうに記載がある。そこで『101題』のほうの記載をみてみよう。p91.

論証にもいくつかの種類がある。ここではそのもっとも基本的な区別である演繹と推測の違いを検討しよう。

(1)演繹:根拠とされる主張を認めるならば結論も必ず認めねばならないような決定的な力を期待されている導出。

(2)推測:ある事実をもとに、それを説明するような仮説を提案するようなタイプの導出。

推測の場合、根拠となる事実を認めることが結論の説得力を増しはするが、演繹のような決定的な力は期待されていない。

次に、論理学と科学哲学の両方の著作をもつ戸田山和久の著作から、「演繹」の定義・規定を引用してみる。

戸田山和久『「科学的思考」のレッスン 学校では教えてくれないサイエンス』(2011,NHK出版)(amazon)から引用する。強調は原文では太字。p100から3箇所。

これらが演繹と呼ばれる推論ですが、演繹の特徴はさきほどの非演繹的な推論とは対照的です。すなわち、演繹は、前提が正しければ結論も必ず正しい。(後略)

(前略)そういう意味で、前提が真だとすると、必ず結論も真になるのが演繹の特徴です。前提のもっていた真理が結論まで保存されているので、この特徴を「真理保存的」と言います。

一方、情報量についてはどうでしょうか。非演繹的推論は、結論が真理になるとは限らない、つまり、真理保存的ではないけれど、情報量は増えました。でも、演繹は逆に、真理保存的ではあるが、情報量が増えません。

…というわけで、先の『論理トレーニング101題』とおおむね同じような規定がされていることをまず確認しておく。ここで戸田山は「演繹的推論」と「非演繹的推論」という二種類の推論がある、というふうに分類をしている。そして、「非演繹的推論」には帰納法、投射、類比(analogy)、アブダクションの4種類があるとされており、各々が紹介されている。

これと同じような分類を行ない、なおかつ演繹的推論のほうも少し細かく分類を与えたのが、同じ戸田山和久の著作である『新版 論文の教室 レポートから卒論まで』(2012,NHK出版)(amazon)である。この著作はすべての箇所が読むに値する内容とは限らないと思うが、今回引用する箇所の周辺箇所は、戸田山の他の著作を読んでない読者には読まれても良い内容である。p164。強調は原文では太字。

以上、モードゥス・ポネンス、モードゥス・トレンスから背理法まで、計四つの妥当な論証形式を紹介してきた。これらの論証形式は、仮にそこで使われている根拠が一〇〇%正しければ、主張も一〇〇%信用してよくなるような論証、言い換えれば、根拠の信頼性がそっくりそのまま主張に伝わるような論証の形式だった。こういう論証のことを「演繹的論証」という。根拠の信頼性がそのまま主張に伝わるから、十分に裏づけられた信頼性の高い根拠を使って演繹的論証を行えば、主張の信頼性もそれだけアップする。

でも、われわれがふだん論証と呼んでいるものには、演繹的論証よりはもうちょっと広い範囲のものが含まれている。それは、根拠の信頼性がそのままぜんぶ主張に伝わらない。だから、主張の信頼のアップ度がどうも華々しくはないんだけど、それでもやらないよりはまし、と言えるような論証形式だ。

…と述べ以下先ほどの「非演繹的推論」と似た様な項目として、帰納的論証、仮説演繹法、アブダクション、アナロジーがそれぞれ説明される。p176のまとめの表によれば、これらはこの著作では「ちょっと弱い論証形式」としてまとめられている。他方、「演繹的論証」として紹介されたものは、「妥当な論証形式」としてまとめられ、「モードゥス・ポネンス」「モードゥス・トレンス」「構成的ディレンマ(場合分けによる証明)」「背理法」という四つの要素を含むものとされている。戸田山によると、演繹(演繹的論証)というものにはこれらの四種がある、ということになる。

野矢と戸田山はともに英米系哲学の専門家であり、彼らが共通して述べていた事柄を演繹のいわば定義と見なして構わないように思う。すなわち「前提が正しければ結論も必ず正しい推論」こそが演繹である。引用からだけでは断定しづらいが、「前提が正しければ結論も必ず正しい推論」というのは、演繹であることの必要十分条件であるのだ。そして、他の事項はそこまでの優先度の高い条件ではおそらく無いのだ。そして戸田山によれば、演繹的推論は細かく分類すると「モードゥス・ポネンス」「モードゥス・トレンス」「構成的ディレンマ(場合分けによる証明)」「背理法」の4種類がある。

他方で、演繹ではない推論のことを野矢は「推測」と、戸田山は「非演繹的推論」と呼ぶ。「推測」「非演繹的推論」とは、「前提が正しければ結論も必ず正しい推論、とは言えない推論」の総称のようだ。戸田山によると、非演繹的推論には、「帰納法(帰納的論証)」「投射」「仮説演繹法」「アブダクション」「類比(アナロジー)」があるようだ。

専門家が推論を分類するときに用いる概念は、以上見たように、まず「演繹」を規定し、次に「演繹以外」を規定する、というふうに出来ている。もっとも戸田山は『「科学的思考」のレッスン』では、「非演繹的推論」から先に紹介し、次に「演繹的推論」を紹介する、という順序を採っていた。その理由はおそらく、科学で行なわれる推論は非演繹的推論の方が重要であるからだ。ただ叙述の順番はそうであっても、分類を考察している哲学者にとっては、「まず演繹、次に、そこに入らないものを“推測”“非演繹”として一括する」という順番で考えている。哲学者が道具として用いる論理学はそのほとんどが演繹の研究であることや、哲学自体も演繹的推論の占める地位が高いことなどから、そのようになるのだ。

専門家は「演繹であるかないか」に関心が高い。ここが最初のポイントである。のちの展開を考慮して、ここで戸田山的な分類を表の形で再構成しておく。

推論の分類(戸田山和久方式)
大分類 演繹的推論 非演繹的推論
小分類
  • モードゥス・ポネンス
  • モードゥス・トレンス
  • 構成的ディレンマ(場合分けによる証明)
  • 背理法
  • 帰納法(帰納的論証)
  • 投射
  • 仮説演繹法
  • アブダクション
  • 類比(アナロジー)

なお、野矢茂樹『新版 論理トレーニング』や戸田山和久『科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる』(2005,日本放送出版協会)(amazon)には、「正しい演繹」という言い方が登場する。この言い方は当然のようにして「では正しくない演繹というものがあるのだな。その占める位置はどこだろう?」という疑問を喚起する。ただ、おそらく素人がそれを考えてもあまり役立たないように思う。「正しくない演繹」が仮にあったとして、その占める位置は、何か別のカテゴリーとたまたま一致していればそこになるだろう。また、そうでない場合、それは演繹でもその他でもない、何かナンセンスなものだ、ということになるように推察はできる。その程度にしておいて、あまりその問題には関わらないほうが良いように思う。

なお、野矢茂樹・戸田山和久の諸著作での「演繹」定義とじゅうぶんに整合する内容のものに、『哲学事典』改訂新版(平凡社,1971)(amazon)での「演繹的推理」の項の記述がある。確かに少し古い箇所もあるが、全体になかなか有益な定義であるので、ほぼ全部引用する。野矢・戸田山の「演繹」の定義や規定が「最近の新傾向」でないことはこれだけでもわかる。このような規定の仕方はある程度過去から行なわれてきているのだ。

推理といえば多くの場合演繹的であるが、演繹的でない推理も考えられるので、演繹的であるということを強調するために演繹的推理という言葉が用いられる。さて、演繹的推理とは、いくつかの前提から結論をその論理的形式のみに頼って導き出す、すなわち推理することである。いいかえると、前提や結論の内容とは無関係に、その形式だけを顧慮して行なわれるのが演繹的推理なのである。したがって、演繹的推理を厳密に定義するには、前提と結論の間になりたつ論理的形式がはっきりと定められていなければならないわけである。そして、このことが近代論理学の発達によってはじめて可能となったということもよく知られていることである。要するに、演繹的推理とは、形式的な理論として展開された近代論理学の枠内で定義される形式的な操作であるといったらよかろう。→公理的方法、推理

step02. 非専門家読者向けの注意 ―「演繹」と「帰納」とを区別しよう―

専門家の「演繹」の規定のしかたからわかるように、「演繹」に馴染みがうすいと「演繹」と「演繹以外」という区別は出てこない。また論理学のほとんどは演繹を研究する分野であることから想像できるように、論理学に馴染みが薄いと「演繹」に馴染みが薄くなるだろう。だとすると、論理学の知識を一時的に借用する立場の人や、論理学には素人である立場の人に何かを説明するときに、特に「演繹」と「それ以外」とを区別する必要が生じてくる。

さてしかし、「演繹」に馴染みが薄いのだから「演繹」と「演繹以外」と言ったところで、知らないものと、その知らないものでないもの、との区別でしかないことになる。この区別に注意せよと言われても何をどう区別すればいいのかわからない。たしかに、「演繹」を短い言葉で簡潔に定義することは先に見たようにもちろん可能だが、だからといって論理学に接したことの無い読者がその定義で即座に正確に理解できるわけではない。つまり、「演繹」を理解するためには、ある程度の実例や体系的理解の段階を少しは踏む必要があるのだ。

ところが、「演繹」と「帰納」とを区別しよう、となるととたんに話が分かりやすくなる。というのも、「帰納」は説明されれば当たり前のように行なわれている推論であるし、短く簡潔な定義だけでも相当正確にその言わんとすることが伝わるからだ。かくして、「演繹」と「演繹以外」とを区別しよう、という実効性に乏しい言い方ではなく、「演繹」と「帰納」とを区別しよう、という実効性にすぐれた言い方が流通するようになる。そして、それは実質的には「帰納」から「演繹」を区別しよう、ということにほかならない。

前述のstep01での専門家の知見とおおむね両立可能な内容であり、かつ、「演繹/帰納」という区分を話題に取り上げている著作に、たとえば次のものがある。

市川とゼックミスタらの著作は認知心理学に属し、研究対象である「人間の思考」の分類記述に際して「演繹」「帰納」という概念を借用しているわけだ。それに対して飯田の著作は経済学に属し、経済学者が行なうほうの思考を分類記述するために「演繹」「帰納」という概念を借用しているというわけである。久米の政治学の本も、他と同じような内容だが、「演繹」「帰納」はあまり重要ではない話題のようで、コラムでのちょっとした紹介だけである。そして、橋本のキーワードの解説は哲学史的なものであり、「帰納」「演繹」という概念が、過去の哲学者のうちベーコンとホッブズにおいて、どのような地位を占めていたかが解説される。とは言え、もちろん「帰納」「演繹」の規定のしかたは、上掲の現代哲学の専門家の見解と両立可能なものが紹介されている。

ゼックミスタ&ジョンソンの定義文を読むと、なぜ演繹と帰納とをワンセットで提示するのかがわかる。それは、論理学の素養があらかじめ無いと、この二つを混同しやすいからなのである。p182-183.強調は原文では太字と傍点が混在している。

論理学では(厳密な意味での)議論の「形式」を、大きく二つに分類している。これが演繹的議論帰納的議論である。

「演繹」とは、いくつかの前提をもとに、論理的に妥当な形式だけにのっとって結論を導き出す手続きのことである。「演繹的議論」では、前提がすべて真であり、結論に至る道のりが形式にきちんと従うとするならば、結論は前提の論理的・必然的な帰結となるので必ず真になり、強力な説得力をもつ。

(中略)

一方で「帰納」とは、個々の現象から一般的な結論を導き出す手続きのことである。帰納的議論と演繹的議論のどちらも前提が結論を導き出すための根拠になっている点では似ているが、演繹的議論とは異なり、帰納的議論では、結論は前提の論理的・必然的な帰結ではない。したがって帰納的議論においては、結論の確実性は保証されず、ある程度の可能性をもった結論として示されるのみである。

演繹と帰納の関係については、市川が歯切れよく断定している。その主張は少し独自すぎるところがあるほどである。p42,p42-43より引用する。強調は原文では太字。

ここで、「演繹」と「帰納」という二つの推論の区別をする必要が出てくる。演繹(deduction)とは、前提が真であれば結論も必ず真となるようなタイプの推論である。演繹では、結論で述べている内容は、実は前提の中に暗黙に含まれている。(後略)

それに対して、例1では、結論で言っていることが、前提に含まれている内容を明らかに超えている。そして二つの前提が真であっても、結論が真であるとは限らない。このような推論が帰納(induction)である。いわば「一を聞いて十を知る」のが帰納であり、そのうちいくつか(何回か)は誤っているかもしれないという危険がつきまとっている。帰納の中でもよく行なわれるものが、例1のように、いくつかの事例から一般的な結論を導く一般化(generalization)である。帰納といえば一般化をさすこともあるが、広義には、帰納とは、「演繹ではない推論すべて」のことである。(後略)

広義には、帰納とは、「演繹ではない推論すべて」のことである。の箇所が少し独自すぎるかな、という箇所である。先に一瞥した戸田山の規定だと「非演繹的推論」のなかに「帰納」が含まれる、という関係にあったことを確認しておく。とは言え、戸田山が「非演繹的推論」と呼び、野矢が「推測」と呼んだものを、市川は「広義の帰納」と呼んでいるに過ぎないとも言える。いずれにせよ、このあたりの規定の仕方は「はじめに演繹ありき」である点では変わらない。「演繹」と「そうでないもの」があって、それを区別しよう、という話なのである。ただ、そこで市川は「そうでないもの」に「広義の帰納」と名づけた。そこでこれによって市川の叙述は、「演繹と帰納のワンセット」で解説するグループに仲間入りすることになったのである。

一方、演繹と帰納との関係を強くは示さないままで定義文を示すこともできる。その路線であり、かつ、特に明快である飯田泰之の定義文を引用しておく。p28.

(前略)論証の2大分類が演繹法と帰納法です。

論証方法の2大パターン
・演繹法……前提を論理的に組み合わせて結論を得る方法
・帰納法……具体的な事実の集合から一般性を持つ法則を抜き出す方法

ここではこの二つを並列関係で示した目的は、この二つがまぎらわしいので区別するため、というよりは、単に最も重要な二大推論だから、というもののようである。実際、この定義文からは「演繹法と帰納法とは別物である」ということのみが導かれる。そして飯田自身もこの二つを、相補的なものとして活用していくことを推奨しているのである。

なお、高校生が触れる機会のある、社会科の教材である『現代社会用語集』(2014,山川出版社)(amazon)も、少し独特だが、このステップの他の定義と整合はする内容である。とは言え、他の定義のようにまぎれもないほど明快とは言い難い。演繹を規定する際に「論理的」「必然的」とは形容せず「理性的」と形容しているなどが独特。また「演繹法」と「帰納法」の項は、対比的ではなく、他の項目が間に入っており、そもそもこの二つを区別しようという目的で読むのなら、それにはそぐわない、

step03. 「演繹の対立項は帰納」

ここまでのステップと整合しつつ、「演繹」の対立項を「帰納」と規定する内容を記載している専門事典がある。『哲学中辞典』(2016,知泉書館)(amazon)である。「演繹」「帰納・帰納法」の項とも中村行秀という人が書いている。筆者はこの人は知らないが、哲学の著作がある人のようだ。「演繹」から以下引用する。対立関係に言及している箇所を引用者が強調しておく。

いくつかの前提から、観察や経験にたよらずもっぱら論理の規則だけによって結論を導く推理の手続きのこと。この推理では、前提と結論の具体的内容に関わる真・偽は問題にならず、手続きとしての形式上の妥当・非妥当だけが問題とされる。真である前提から、妥当な論理的手続きによって引き出された結論は絶対的に真である。演繹には、一個の前提から結論が導かれる直接推理と、二個以上の前提から結論が導かれる間接推理がある。間接推理の代表が三段論法である。演繹は、論理的手続きとして、帰納に対立させられ、正しい演繹によって得られる知識は絶対的に確かな知識であり、一方、帰納によって得られる知識は蓋然的な確からしさしかもたないとされるが、現実の推理では、両者は車の両輪のように相補的に用いられる。
→帰納・帰納法、真と偽
[文献]沢田允茂『考え方の論理』講談社学術文庫,1976

今まで紹介してきた文献の中では「演繹/帰納」のペアは、対比はされていても、対立関係とか対義語という扱いは特にされていなかった。この辞典ではそれがされている点で注目される。もちろん、「絶対的に真である手続きである演繹/蓋然的な確からしさしかもたない帰納」という点で対立している、というわけである。「蓋然的」などという形容詞を知っている人のほとんどは「帰納」の語に関連して学んだはずである、と言ってよいほどだろう。さて一方、「帰納・帰納法」の項ではそこまで強調はしていないが、無言及でもない。確認しておく。対立関係に言及していると取れなくもない箇所を引用者が強調しておく。

推理の手続きとしての演繹に対する語で、特殊・個別的な事実から出発して一般的な結論に達する推理のこと。この推理によって導かれる結論は、絶対的な確実性をもたず、たかだか蓋然的な確からしさしかもたない。そうした結論の不確実性のために、古代ギリシアのアリストテレス以来、中世を通して、演繹よりも劣る推理だと考えられていた。帰納の意義が認められるようになるのは近世になって経験的自然科学が発展したことによる。(後略)

「対する」といういささか曖昧な語でその関係が曖昧なまま示されている。ただ、「演繹」の項では帰納は「対立させられ」ていたのだから、この「対する」も強めの対立だと受け取っても良いはずである。

step04. 演繹の「通常のケース」に言及する定義文

「演繹とはどのようなものか」だけでなく「どういう演繹が通常なのか」にまで言及する事典・辞典の定義文というものがある。さて、このタイプの定義文には、ここまで「帰納」の定義・規定にしか無かったタイプの要素が、「演繹」の側にも登場する。

『新版 哲学・論理用語辞典』第一般(1995,三一書房)(amazon)の「演繹」の項から一部を引用してみる。強調は引用者による。

演繹 [deduction]
<ある前提から、必ずそうなる(必然的)結論を引き出す推理>。≪直径10cmの円の周囲は31.4cm≫(前提:≪円の周囲=直径×3.14……≫≪この円の直径は10cm≫からこの円の円周を演繹する)などはその例。[原語 ラ deductio は≪引きだす≫の意]
(1)《論理学》≪演繹的推理≫ともいい、≪帰納*≫≪帰納的推理≫とよばれる推論に対する。(イ)上に同じく、<一つまたはそれ以上の前提から必然的結論を引き出す推理>。その代表は三段論法*で、演繹=三段論法と考える人も多い。例は上記のほか→三段論法。
(ロ)[(イ)の意味での演繹は、普通は、前提として一般的事実、法則をもちい、これから個々の事実についての結論をひき出すことが多いので]<普遍的法則または事実から、特殊的法則的事実をひき出す推理>。(後略)
(2)《心理学》(省略)

この事典の定義は大変明快でわかりやすく、言わば「読む事典」を目指しているものと思われるほどである。そして説明の順序も理にかなっている。まず「演繹とは何か」を述べ、次に「どういう演繹が通常か」を述べている。その際に登場したのが、「一般→個別」「普遍的→特殊的」といったタイプの要素である。そういうタイプの演繹が「普通」である、というわけだ。ところで、これが単なる頻度に関する主張なのか、それとももう少し規範的な「普通はこうであるのが正しい」という主張なのかまではわからない。つまり、受け取る側の態度によってどうとでも受け取れる余地があると言える。

以上は専門事典であった。他方で、専門的ではない国語辞典にもそのようなタイプの規定を示したものがある。『広辞苑』第六版(2008,岩波書店)(amazon)の「演繹」の項から一部を引用する。強調は引用者による。

えん-えき【演繹】
(中略)
2.(deduction)推論の一種。一定の前提から論理的規則に基づいて必然的に結論を導き出すこと。通常は普遍的命題(公理)から個別的命題(定理)を導く形をとる。数学の証明はその典型。演繹法。(後略)

この有名な国語辞典の規定のしかたも、先の『哲学・論理用語辞典』と同じ手順を踏んでいた。まず「演繹deductionとは何か」を述べ、次に「どういう演繹が通常か」を述べている。もっともこの『広辞苑』の定義文は、受け取る側に勝手な解釈をあまり許さないようにはなっている。「普遍→個別」と言えばまあそうなのだが、要は数学での「公理→定理」であるぞ、というわけだ。そう言えば、先の『哲学・論理用語辞典』も挙げていた例は、「公理→定理」ではないにせよ、数学的なものではあった(定理の個別事例への適用であった)。

ところで、今回「どういう演繹が通常・普通か」の説明で登場したこの「一般→個別」「普遍的→特殊的」「普遍→個別」という要素は、演繹の説明に登場するのは、この文章でこの箇所が初めてであるが、帰納の説明にはすでに登場してきている。振り返ってみよう。

例えば、飯田泰之『経済学思考の技術』では帰納法……具体的な事実の集合から一般性を持つ法則を抜き出す方法と紹介されていた。ゼックミスタ&ジョンソン『クリティカルシンキング実践篇』では「帰納」とは、個々の現象から一般的な結論を導き出す手続きのことであると紹介されていた。細かいことを抜きにすれば帰納とは「具体→一般」「個別→一般」といった方向性を有する推論であるわけだ。この方向性は、先の「通常・普通の演繹」に見られるらしい「一般→個別」「普遍的→特殊的」「普遍→個別」を逆向きにしたものでもあるかのようである。

さて、ここまで見てきた定義や規定はかなり専門家寄りのものであり、言ってみればまともなタイプのものであった。しかし、ここに来て一つの境界線を越えようとしている。その萌芽はすでにここまでのまともなタイプの定義・規定にも現れていた。次にその境界線を一歩踏み出してしまったパターンを紹介する。

step05. 「演繹の対義語は帰納?/帰納の対義語は演繹?」

『日本国語大辞典』第二版(2001,小学館)(第1巻:amazon)は、「語誌」で語用の歴史を総覧し、また用例の典拠が豊富であるなど、きわめて情報量の多い辞典である。ただユーザーの多くは知りたい箇所しか見ない。そこで「演繹」と「帰納」のそれぞれ「目につく箇所」から引用して検討してみる。強調は引用者による。

えん-えき【演繹】[名]
(中略)
2.(英 deduction)前提から、論理的に正しい推論を重ねて結論をひき出すこと。⇔帰納(後略)

この「演繹」の定義は引用した箇所だけ見る限り、一見良さそうだ。ただ、この辞典では「帰納」は「演繹の対義語」として規定されているようである。そこで「帰納」の項目を確認してみる。

き-のう【帰納】[名]
(中略)
1.(―する)個々の観察された事例から、一般に通ずるような法則を導き出すこと。 。⇔演繹(後略)

さてこのように、「帰納」の項目を「演繹」→「帰納」の順番で閲覧したら混乱するはずだ。というのも、対義語にふさわしい定義文になっていないからだ。たとえば「演繹が論理的に正しい推論」であるのに対して、「帰納は蓋然的である」といった説明がこの辞典には書かれていないわけだ。だからつまり、帰納が演繹のどの点で「対義」語になっているのかがわからないような帰納の定義になっているのである。

もちろん、反対に、「帰納」→「演繹」の順番で閲覧した場合も同じ理由で混乱するはずだ。しかし一つだけ言えることがある。もし「帰納」の項目だけを調べて済ませた人がいたとすれば「演繹って、一般法則から個々の事例を導くことなんじゃないの?だって帰納の反対なんでしょ?」と言われても文句が言えない、という書き方になっていることである。そうであるから、実際に「演繹」の項を調べたら混乱するはずだと言えるわけである。

いずれにせよ、「演繹」と「帰納」とは、対義語どうしでありながら反対の意味内容が定義文に書かれていたわけではなかった。そういうわけで、ここに「演繹の定義が棲み分ける」事態の萌芽が表れてきているのである。つまり、step04で見たような「演繹とは一般法則から個々の事例を導き出す推論である」式の記述を求めるような受け入れ態勢を読者の側に生み出しているわけだ。つまり「だって演繹は帰納の対義語だろ?」というわけだ。

なお、「演繹」の1.には別種の問題がある。このタイプのものは後にまとめて説明する。ただしこの辞典は、語誌の記載などが役立つことや典拠が豊富であることから、全体的には独自の価値を有する辞典であり、捨てるには惜しい、とは言っておく。

step06. 「演繹/帰納」のペア扱いに伴って、定義の優先順位が変化する

「演繹」と「帰納」とが対義語である、というペア扱いの原因とも言いうるものを、筆者は探し当てることができた。そこで、それを以下紹介する。『世界大百科事典』改訂新版(2009,平凡社)(平凡社出版販売株式会社)である。その際、今までと「演繹」の定義での優先順位が入れ替わることに注意である。今まで「演繹とは何か」が規定され、その次に「通常の演繹はこうである」という規定が行なわれるという順序のものがあった。それが反転する。「通常の演繹に見られる特徴」のほうが「演繹の最優先定義事項」に変わり、それまでの最優先定義事項が補足の位置に落ちる。

いまひとつここで重要なことは、「演繹」「帰納」の項目は専門家の大出晁が執筆していることである。ただし大出は明らかにひと時代以上過去の専門家ではある。そのことがあるいは影響しているのかもしれない。

えんえき 演繹 deduction
より一般的な事態からより特殊的な事態へと推論するところの<演繹的推理(推論) deductive inference(reasoning)>の略称。(後略)
きのう 帰納
ギリシャ語の(中略)。もともとは<上方に導くこと>を意味したが、現在では、より特殊的な事例からより一般的な法則を導き出すこと、という意味で用いられる。その点で、より一般的な事態からより特殊的な事態を推理(推論)する演繹と対比的に用いられることが多い。(後略)

…とこのように記載されており、帰納と演繹の関係は「対義語」ではなく「対比的」と記されてはいるものの、事実上「対義語」のような定義が下されているわけだ。

この定義文では、「通常の演繹に見られる特徴」こそが、演繹の定義のような扱いになっている。一方、今まで演繹の定義として最優先に書かれていた事項は、言わば「2段落目」において、次のような記載になっている。

えんえき 演繹 deduction
(前略)
われわれは、前提命題Aから結論命題Bを演繹的推理によって導く―これを<AからBを演繹する>という―場合、Aを前提として認めるならば、かならず、結論Bも認めなければならない、と思っている。いいかえれば、前提Aを認めているにもかかわらず、Bを認めない、ということは不可能なのである。もし前提Aを認め、しかも結論Bを認めないのであれば、そのような結論Bは前提Aからは出てこない、つまりそのような演繹的推論は誤っている、とわれわれはいう。このように、前提Aから結論Bが正しく演繹されるときには、前提Aからはかならず結論Bが出てくるという必然性―とくに論理的必然性―がある、という点は演繹的推理のもっとも重要な特徴ではあるが、この必然性はつぎの意味で仮定的性格をもつことにも十分注意しなければならない。(後略)

…というぐあいであり、もっとも重要な特徴であると書かれてはいるものの、それにふさわしい位置に置かれてはいない。また、内容のわりに紙面を割き過ぎており、その点でも読者の印象に残りにくい書き方である。おそらくこの大出という人は専門家集団の中で生きているあまり、辞典の読者が何を知っていて何を知らないのか、についてのバランス感覚が失われているのではないか、と推察される。「帰納」の項も参照しておこう。こちらも3段落目からの記載である。

きのう 帰納
(前略)
ところが、帰納における前提と結論とは、演繹における前提と結論に対して、特殊―一般の関係において逆になっているだけでなく、前提―結論の結びつきにおいて重要な差異をもっている。われわれは、帰納の前提である個々の事例、たとえば自分の知っているどのイヌもウサギを追いかけたことは認めていても、その結論<イヌというものはウサギを追いかけるものだ>ということを認めるとはかぎらない。ウサギを追いかけることがイヌのすべてに共通する習性とは考えず、それを疑う余地は残っている。この場合、結論の言及している範囲は、前提の言及している自分の知っているイヌの範囲をこえて、イヌのすべてに及んでいるからである。これを<帰納の飛躍 inductive leap>と呼ぶ。(後略)

…と書かれており、最初に予示した、何が前提―結論の結びつきにおいて帰納と演繹とが重要な差異をもっているのか、についての対応する記述が「帰納」の項目だけ読んでもさっぱり見つからずわからないのである。そこで「演繹」の項目も読むと、「演繹には飛躍がないけれど、帰納には飛躍がある」という点で重要な差異だと言いたいのだ、とようやくわかる。このように大出は総じて、要領の悪い記述をしていると言える。

さて、それでもこの事典の記載が重要なのは、「演繹/帰納」とペアにすることの「理由」らしきものが書かれていることである。「帰納」のほうの続きから引用する。

きのう 帰納
(前略)人間の推理方法には、この二つの推理、すなわち、一般から特殊を導く演繹的推理と、特殊から一般を導く帰納的推理 inductive inference(reasoning) が存在し、しかも、それらが異なる特徴をもつことを指摘したのはアリストテレスであった。以来、演繹と帰納は人間の異なる推理方法として位置づけられ、論じられてきた。(後略)

アリストテレスの名前は、「演繹」の項の最後にも言及がある。そちらも念のため引用しておく。

えんえき 演繹 deduction
(前略)演繹に見られるこの必然性をできるかぎり広範にとり出し、広い領域に適用できる演繹的推理の体系を構成するのが、アリストテレス以来の演繹論理学の課題である。

というわけで、「演繹/帰納」というペアで扱うのが当然という態度は、どうやらアリストテレス由来のものであるらしいことがわかった。振り返ろう。大出の定義文は、出だしの箇所で演繹と帰納とが事実上の対義語になっているような定義文であり、しかもそれは「一般⇔特殊」というペアと連動したような定義文であった。つまり、事典の定義の出だしというもっとも影響力の強い箇所でわりとはっきりと「一般⇔特殊」と関連付けた定義を大出は断定してしまったのだ。そして、その態度の由来はおそらくアリストテレスにあると言えるのだ。アリストテレスということは、つまり現代論理学が誕生するまでの長きにわたって哲学史上論理学の範型として君臨してきた伝統的な枠組である。

この文章の最初に筆者は「専門家の定義や規定が省みられていない」という旨を主張した。その際の専門家として、英米系哲学者の野矢茂樹と戸田山和久を挙げた。ところがここで、その「専門家」性について補足しておく必要が、あらためて出てきたようだ。それは「アリストテレス(由来の哲学史の伝統)」と「現代論理学」とで、前者のほうを優先する専門家と、後者のほうを優先する専門家とでは、態度が異なってくるかもしれない、ということである。野矢・戸田山は明らかに「現代論理学」のほうを優先して書いている。彼らは論理学者でこそないが、現代論理学の解説書や教科書を執筆してもいる。他方、哲学の専門家であっても、現代論理学や英米系哲学が嫌いだったり、アリストテレス由来の伝統を優先したい場合、同じようにはならないかもしれない。大出は筆者の見る限りでは、やはり英米系哲学者の側なのであるが、しかしアリストテレス由来の伝統に対して冷淡にはなれなかったようだ。また現代論理学を踏まえた英米系哲学も大出の時代だとさほど主流感が無く、辞典の記述に記載するほどの動向は見られなかったのかもしれない。ともかく、哲学の専門家であっても、「アリストテレス以降近代までの哲学史を取るか、それとも現代論理学を取るか」の回答次第で記述が大きく違ってくる可能性にあらためて注目すべきである。

step06の続き. 「演繹/帰納」を「一般・普遍⇔個別・特殊」ペアで優先的に定義する

「演繹」を「一般・普遍→個別・特殊」という特徴づけでもって定義・規定することを優先させるタイプの紹介はとても多い。この特徴づけは「現代論理学」に基づいた現代英米哲学よりもアリストテレス由来の伝統のほうを優先していることからおそらく来ており、そのため、現代の専門家の採用している定義を基準にしたとき、そこから誤誘導され的外れになりやすい。だから初心者には決してお薦めできない。ただ、アリストテレスの枠組には沿っているためかどうか、この種のタイプの紹介は多いし、またその中には力作もある。それらを一瞥しておこう。

ウィル・バッキンガムほか著『哲学大図鑑』(2012,三省堂)(amazon)の巻末の「用語解説」には次のような記載がある。長短の違いはあっても、このようなタイプのものが、このステップでの定義・規定の典型である。強調は原文では太字。

演繹 Deduction:
普遍から特殊へと向かう推論。たとえば、「もしあらゆる人間が死すべき存在であるなら、ソクラテスは、人間である以上、死ぬにちがいない」。演繹が妥当であることは一般に認められている。これと対をなす過程が帰納だ。
帰納 Induction:
特殊から普遍へと向かう推論。一例として、「ソクラテスは死んだ、プラトンは死んだ、アリストテレスは死んだ、とすると、生まれた人間はだれでも130歳になるまえに死ぬ。つまり、あらゆる人間は死すべきものだ」といった推論が挙げられる。帰納は必ずしも真なる帰結を導くとはかぎらない。つまり帰納が本当に論理的な過程をたどっているかどうかは異論の余地がある。これと対をなす見解が演繹だ。

いや、帰納はそもそも論理的な過程をたどってはいないだろう。と一応言ってはおく。

さて、「このステップでの定義内容で良ければ」という条件つきで、次の二冊は大変良心的で丹精こめた定義や内容紹介をしている。ただ初心者はこの内容ではなく、まずはstep1に記した専門家の定義を(もう少し詳しく)先に知ってほしい。その上で読むのなら以下の二冊には一定の価値がある。

霜栄『生きる現代文読解語』(2012,駿台文庫)(amazon)。「演繹/帰納」で見開き2ページを割いている。最初に「要約せよ」とされている長文が著者の自作のものだと思うが、良くできている。そこでは、アナロジー(類推)についても一応言及されている。

沖森・中村『ベネッセ表現・読解国語辞典』(2003,ベネッセコーポレーション)(amazon)。巻末に執筆者が記載されているうち、井澤恒夫という予備校の国語教師がおそらくこのページの主担当だと推察される。さて「演繹」「帰納」とおのおの見開き2ページ(!)を使って解説しており、内容がきわめて豊富である。ただ、初心者にとって「重要な順」に提示・規定されているわけではないことは最初に断ったとおりである。しかし、専門家の情報によって、最小限の重要な定義・規定を学んだあとになら、お薦めできる。ただし、申し訳ないが「演繹」の例文は良くない。典拠があるのかないのかは不記載であるが、いずれにせよ学習者用の例文としては全くお薦めできない。特に「敷衍」と類義となっている例文は全部「敷衍」に置き換えてそちらを記憶した方が良い。この「敷衍」と同義という問題については後述する。

その他、次の書籍も、このステップに属する。

波頭亮『思考・論理・分析―「正しく考え、正しく分かること」の理論と実践』(2004,産能大出版部)(amazon)はビジネス書である。ビジネス書らしからぬ誠実な取り組み方には好感がもてる。内容が悪いというほどのことは全く無い。このステップに入れたなかでは、演繹の定義における論理性の優先順位は高い。つまりページを割いて説明している。なので論理性についての理解は深まると思う。ただし、演繹や帰納の紹介というよりは、演繹や帰納を含み込んだ思考プロセス全体の紹介といった内容になっているため、少し注意が必要だと思う。まず、論理的な正誤と命題単独の真偽の問題を等価に扱い過ぎている。そして、普通なら、初心者が誤解しないように論理的な正誤の問題に注意を払わせるところだが、著者の場合そちらを自身が相当周到に行なったと思っているためか、むしろ命題単独の真偽の問題のほうを強調する傾向にある。あるいは帰納法ならサンプリングの適切性の問題を強調する。そのため、論理規則に従った正誤という問題が初心者の場合少しぼやける。また、帰納によって得られた命題を演繹するという、演繹と帰納の相補的な役割を強調するのは良いのだが、数学のように帰納によって得られた結果を用いるわけではない、演繹だけを行なう営為もある。つまり演繹は帰納と一蓮托生とは限らない。その点も初心者の誤解を生みやすい書き方だ。また演繹と帰納とを相補的であると位置づけると「だから一長一短」という話になりやすいが、一長一短なのは主に情報量が増えるか増えないかという話題を考慮した場合なのであって、そうでなければ演繹のほうが単に確実であるに過ぎない。その点を注意されたい。

佐伯監修・渡部編『「学び」の認知科学事典』(amazon)に収録されている、今井康雄「2 “学び”に関する哲学的考察の系譜」の中でキーワードとして「帰納」「演繹」が扱われている。アリストテレスからベーコン・デカルトへの哲学史の中に置かれているキーワード解説であるため、当然アリストテレスの枠組での定義であり、現代哲学の動向とは少しずれている。

中山元『高校生のための評論文キーワード100』(2005,筑摩書房)(amazon)。このステップのものの中では、特に良くない。著者はそもそも大学の哲学研究者ではなく、在野の好事家に過ぎない。筑摩はそういう著者をなぜか好む傾向にあるが、何も知らない高校生は著者が大学院出身者であるかないか、などよく注意しないとダメだ。そして、巻末に特集している8人の哲学者のなかに、「英米系」の哲学者はおらず、無論アリストテレスはいる。そういうわけで、このステップの中に納まると言えばそうだが、記述には読者にミスリードさせる箇所が目立つ。「演繹は帰納と一緒に考えてほしい。」と言いながら、帰納の項目でアブダクションの解説を突然したりしており、英米系哲学の常識が無い。また、演繹は「前提が間違っていれば誤る可能性があるから確実ではない」と述べそれは良いとしても、それなら帰納にだって同じことが言えるのに、それは言わない。つまり「帰納は推論にその正しさを証明する力がない。」という主旨だけを述べる。ここからまるで演繹と帰納とは一長一短と言いたいように読めてしまうが、これは全くミスリードな書き方である。「演繹は前提が間違っていれば間違うが、前提が正しければ必ず結論も正しいのに比べ、帰納も前提が間違っていれば間違う可能性があるうえ、前提が正しくても結論が正しいとは形式からは言えない(帰納は推論にその正しさを証明する力がない)。」わけであり、全然、その点で一長一短ではない。一長一短なのは、step1で専門家が説明したように、演繹だと情報量が増えないけれど、帰納だと増える、という点を考慮した場合になのだ。中山のこの本は他の項目にも信用できないものがあり、お薦めしない。

step07. 「演繹/帰納」が対義語である理由が一点に減少する

step6では、「演繹」と「帰納」とが対義語である理由は、ともあれ二点であった。一つは「演繹:普遍・一般→特殊・個別」であるのに対して「帰納:特殊・個別→普遍・一般」である点。もう一つは「演繹:論理規則に従った必然的な推論」であるのに対して「帰納:蓋然的で、論理形式の点では不確実」である点であった。あと「情報量が増える=帰納/増えない=演繹」という話題もあるが、これは常に、二次的な特徴の地位であった。

ところが、この二点のうち、「演繹:論理規則に従った必然的な推論」であるのに対して「帰納:蓋然的で、論理形式の点では不確実」という点のほうの記載が無いものが、実はとても多い。より正確にはこうだ。「演繹」のほうの定義には確かに、「論理規則に従った必然的な推論」といったタイプの記載があるのだ。しかし「帰納」のほうには「蓋然的」「不確実な論理形式」といった記載が無い。そしてそのうえ「演繹の対義語は帰納、帰納の対義語は演繹」と規定されている、というわけだ。

だから「演繹」と「帰納」とが対義語である理由が事実上一点しかない。それは「演繹:普遍・一般→特殊・個別」であるのに対して「帰納:特殊・個別→普遍・一般」である点だけなのだ。

多くの国語辞典が実はこのタイプである。

一例として、『新明解国語辞典』第七版(2012,三省堂)(amazon)を参照してみよう。

きのう【帰納】
個個の特殊な事柄から一般的原理や法則を導き出すこと(方法)。「―法」⇔演繹
えんえき【演繹】
一般的な原理から、論理の手続きを踏んで個個の事実や命題を推論すること(考え方)。⇔帰納

と、このように演繹と帰納とが対義語である理由が、「一般→個個」と「個個→一般」という推論の向きにのみある、という規定になっているわけだ。

他に、『学研 国語大辞典』第二版(1988,学習研究社)(amazon)、『新潮 現代国語辞典』第二版(2000,新潮社)(amazon)、『カラー版 日本語大辞典』(1995,講談社)(amazon)が『新明解』と大同小異の定義・規定を行なっている。国語辞典の標準的定義はこのパターンに収斂するようである。以上は、国語辞典という国語学者中心に企画される書であり、また国語科教師によって読まれがちでもあるタイプの辞典での扱いであった。

一方、社会科の副教材として用いられる『倫理用語集』(2014,山川出版社)(amazon)はここに入れることができるだろう。同じ出版社の同じシリーズである、『現代社会用語集』に比べて、専門性の劣るステップに入れた理由は、ただ一点。「帰納法」の項目に、普遍的な命題から個々の結論を推理する演繹法と対照的な方法と記載してしまったからである。これによって、「普遍→個々」という性質こそが「演繹法」の中心的で唯一の性質であると規定したも同然になってしまった。他は『現代社会用語集』と大差は無い。なお、「演繹法」の項目には対義語等の記載は特に無い。また「帰納法」と「演繹法」とは間に2ページ挟んでおり、レイアウト的に対比されているわけではまったく無い。

step08. 「演繹」の定義から「論理性」「必然性」「確実性」についての言及が消滅する

「演繹」を定義する際に「前提が正しければ結論も必ず正しい」「前提から論理的・必然的に結論を導き出すこと」といった規定が、副次的なものに転落すれば、そのうちその規定が剥落することにもなる。実際、そのような定義も多い。このタイプの定義で注意するべきことは、演繹よりも帰納のほうが確実であるような印象を与えているかいないか、である。もしそういう印象を与えているのならそれは悪い定義である。

『大きな活字の三省堂国語辞典』第七版(2014,三省堂)(amazon)では次のようである。 強調は引用者による。

えんえき【演繹】 (名・他サ) [哲]
一般的原理や事実から、一つ一つのことがらを推論すること。例、鳥は卵から生まれるので、ペンギンも卵から生まれるだろう、と考えるなど。「―法」(⇔帰納)
きのう【帰納】 (名・他サ) [哲]
一つ一つの具体的なことがらから一般的原理をひき出すこと。例、毎回のテストで数学の点がいいことから、自分は数学が得意だ、と考えることなど。「―的・―法・法則を―する」(⇔演繹)

このような定義が、このステップでの典型となる。ところでこの例文であるが、「生まれるだろう」ではなくて、せめて「生まれるはずだ」と書くべきである。そのくらいに必然性・確実性のもと述べるのが演繹だからだ。

この点については定義文のほうにも欠陥があるので、述べさせてほしい。演繹も帰納も推論ではある。だがここで定義文のように、「演繹→推論する」、「帰納→一般的原理をひき出す」と定式化し、「演繹」にのみ「推論」の単語を使えば、「推論」という語の日常的使用での語感が影響して、演繹のほうが帰納よりも不確実であるようにしか受け取れない。実際、例文にもその不確実な気分が表われていた。このような記載は読者を誤誘導すること間違いなしである。編者たちも分かっていないのだろう。それもこれも元はと言えば、「演繹」の定義文から「論理性」や「必然性」の要素が剥落したからである。その悪影響は大きい。

さて、この例について今少し補足しておく。確かに少し改変して「すべての鳥は卵から生まれる。すべてのペンギンは鳥である。したがって、すべてのペンギンは卵から生まれるはずだ。」とすれば、ステップ1での専門家の規定に従っても、演繹である。しかし、その基準で行けば、同時に次のようなものも演繹である。「あるペンギンは卵から生まれた。すべてのペンギンは鳥である。したがって、卵から生まれる鳥はその時必ず存在した。」これである。このタイプの推論が、この三省堂の辞典の規定で演繹になるのかどうか、は筆者にはよくわからない。存在命題の位置づけがよくわからないからである。字面だけ見ているとむしろこの三省堂の辞典だとむしろ帰納に近いように見えてきかねない、とだけ言っておく。

なお、帰納の例は少し飛躍しすぎだろう。「自分は、毎回の数学のテストの点がいい。したがって自分はすべての数学のテストが得意だ。」くらいにしておいてはどうか。このくらいの推論が、いわゆる「帰納の飛躍」にふさわしい。

少し余談になるが、このレベルの定義をはびこらせている原因の一つは、「例文」を作るときに、量化子等をおろそかにする習慣である。日本語に単数複数の区別や冠詞の有無といった注意点が無いことも大きいだろう。とまれ、「すべての」とか「或る」といった量化子や「必ず」「必ずしも言えない」などの程度に関する表現をなるべくつけるようにするだけで、論理学的なトンデモ主張をしにくくはなるはずなのだ。

さて、いずれにせよ、この三省堂辞典のように、論理性についての規定が完全に消滅し、「一般→特殊」のようなタイプの対比項によってのみ定義するようなものがある。他に高校生向けの現代文の参考書にこのタイプのものが目立つ。執筆している国語教員が文系受験生だった者で占められ、論理学の素養がほぼ確実に欠落しているか、あってもせいぜい哲学史レベルであることが、その要因の最たるものだろう。もちろん、国語教員が悪いのではなく、現代文という教科設定をし、その担当を日本文学・国語学・国語教育学の専攻者にさせ続けている文科省と、こういった論理学や哲学関係の用語を現代文入試で出題する大学側が悪いのである。

ところで、このステップの中でも、どのような動詞表現を用いているかによって、序列があることに筆者は気付いた。先の三省堂の辞典もその点に欠陥が表われていた。次への展開にも必要な論点なので、この点を押さえておきたい。注意してほしい箇所を引用者が強調する。

step8にしては、比較的良い本

定義文の細かい点が注意深く書かれている、このステップ内での良い本は次のものである(演繹・帰納の定義以外は不明)。表記に適宜省略や加工をし、また注意点を強調する。

大前誠司『新入試評論文読解のキーワード300』改訂版(2016,明治書院)(amazon

演繹 +的
ある原理をさまざまな事実にあてはめること。
帰納 +的
さまざまな事実から一つの原理を導き出すこと。

「あてはめる」あたりの動詞表現が、この水準の定義なら適切だと思う。これはまあ良い。ただし、すぐ下に記した長野研一の本の「演繹」の記載のほうがもっと適切である。演繹は「あてはめる」だけで終わるわけではないからだ。

step8のなかでも、あまり良くない本

読者を誤誘導しそうであり、演繹と帰納のペアに限ってはあまり感心しない定義を下しているのは次の三冊。

長野研一『大学入試現代文キーワード&ボキャブラリー320』(2008,文英堂)(amazon

演繹 する
普遍的な法則を個別の事例にあてはめて、結論を導くこと。
帰納 する
多くの個別的な事例から、普遍的な法則を導くこと。

この定義は演繹のほうだけ見れば問題は比較的無い。しかし、この帰納の定義と並置すると問題に思える。演繹で導かれる結論は「前提が正しければ」結論は必ず正しい。ところがこのステップでの演繹の定義はそのような形容が付かないのであった。すると、帰納のほうに付いている「普遍的な法則」という形容がずいぶんと過大に見える。まるで帰納のほうが普遍的な手続きを踏んでいるから普遍的な法則を導くことができるかのようである。このように字面のイメージで、帰納のほうが確実な推論のように見えるため、この定義は結局あまり良くない、と言いたい。

小柴大輔『読み解くための現代文単語』(2016,文英堂)(amazon

演繹(法)
大きな原理を前提として個々の事例を説明する思考法。
帰納(法)
たくさんの個々の事例から大きな原理を導き出す思考法。

Z会編集部『現代文キーワード読解』改訂版(2015,Z会)(amazon

帰納
個々の具体的な事実から、一般的な知識や法則を導き出すこと。
演繹
一般的な理論から個々の具体的な事例に説明を与えること。

似たようなものなので、同列に扱う。「帰納」のほうはこれで良い。しかし「演繹」が「説明する」「説明を与える」営為だというのはかなり変な表現。「演繹」の多くは「当たり前だろ」「説明になってねーよ」という反応しか返ってこないものが多いものなのだ(だから「情報量が増えない」と言われるのだ)。むしろ「帰納」こそが「説明」のために用いられる思考法だろう(でも「帰納」の定義文はこのままで良い)。

step8のなかでも、特に良くない本

晴山亨ほか著『読解を深める現代文単語<評論・小説>』(2009,桐原書店)(amazon

帰納 個別の事例から普遍的な法則を導き出すこと。
たとえば、天体観測によって星の動きに法則を見いだすこと。「演繹」が対になる。(後略)
演繹 普遍的な法則から個別の結論を推論すること。
たとえば、大気の運動の法則から今日の雨量を計算すること。一つの事例から他に押し広めること。(後略)

何が良くないのか。二つある。一つは先の三省堂の辞典と同様、演繹の定義文にのみ「推論する」という動詞表現を用いていることだ。つまり演繹のほうが不確実な推論であるかのような印象を与えていることである。ただし、大気の運動という事例はこれで全く良い。

もう一つは、こうだ。この定義の補足説明には「押し広める」という動詞表現が用いられている。実はこれまで挙げた辞典・事典のなかにも、これの類似表現を定義に用いているものが多々あったのだ。しかし、今までは他の記載事項との兼ね合いで大問題は生じないと判断してこれまで言及することは、しないできた。しかし、他の記載事項も誤誘導的なものである場合には、この表現は看過できない。このタイプの表現で定義する文は、意味不明かまたは単に誤誘導するものにしかならない。

たとえば、この辞典の場合だと、一つの事例から他に押し広めるとあるけれど、「一つの事例」というのが「普遍的な法則」のことを言っているのか、だとしたら「法則」が「事例」になぜ化けてしまうのかが不明。「法則」のことを「事例」とは通常書けないはずだ。またもし仮に「数ある法則のうちの単なる一事例」の意味で「法則」のことを「事例」と表現するのなら、もっと長い例文にしてちゃんと書かないと通じない。そして「他」が何かもわからない。要するにこの箇所はダメな説明でしかない。

「押し広める」に類似した語を用いて定義しているものをもう一冊挙げる。

伊原勇一『頻出現代文重要語700』三訂版(2011,桐原書店)(amazon

演繹 意味を押し広げて述べること。
▼哲学では、<一般的な命題[→202]から特殊な命題を論理によって導き出すこと>の意。(対)…帰納(個々の具体的な事柄から一般的な命題や法則を導き出すこと)。

この定義文だと、小さい文字で書かれている箇所はこれでまあまあだと言える。しかし、まず最初に第一印象として読者に与えられるのは「意味を押し広げて」のほうである。これがとても良くない。というのも、意味を押し広げてというのがとにかく意味不明であり、何のために定義文が書かれているのかが不明である。この定義文にさらなる注釈文がもう一つ必要なほどに、意味不明だ。もし「意味の拡大解釈をして」という意味ならば定義文にそう書けば良い。もちろん、その次に書かれている論理学的な規定とも、どう両立するのかがまったく不明である。そういうわけでこの箇所はもう解読不能なので、この本は捨てるしか手が無い。

step09. 「deductionの訳語ではないほうの演繹」を訓読みで定義する文

「演繹」の定義文に「押し広げる」だの「押し広める」だの、もう一度さらに辞典を引く必要があるような意味不明が語が登場するのは、演繹という語の「語源」や「字源」や歴史に何が何でも触れないといけない、という「国語辞典」の宿命のようなものである。国語辞典の義務ではないのだろうが、ほとんど義務に近い。だから、「とにかくこの言い方を使っておきさえすればいいんだ」といういい加減で投げやりな定義にもなりやすいのだ。ちなみに余談だが、同じような考えの人はインターネット上のウィキペディアの「中の人」にも多いようだ。

しかし、ある語の意味を説明するために、その語の由来や字源や歴史に触れなければならない、というのは、誰でも当然受け入れるべき考え方などではなくて、それ自体が独自である数ある主義主張の一つでしかない。国語辞典(やウィキペディア)で調べることやその調べる行為を推奨するというのは、この主義主張をある程度受け入れる、ということをだから実は意味するのだ。かくして、完全に過去のものでしかない用法を、しかもたいていは投げやりに「とにかく入れておけばいい」という態度で入れた定義文が生まれる。現在の意味用法の理解の邪魔にいくらなろうが構わない、というわけだ。

そして現在の意味用法の定義・規定がちゃんとしているわけでもない…ことはこれまで縷々述べてきたとおりである。少し脱線になるが、そこにもまた、今度は哲学屋さんの一部の人による「アリストテレス以来の伝統」への偏重という、これまた似たような態度が反映していた。ただし哲学事典にはそういう定義・規定は上で見た限りでは見られず、ビジュアル版の哲学図鑑に見られた程度で、あとは哲学研究者が記載した百科事典にあったくらいであった。ただ、哲学屋さんの書いたものには少ないとしても、一般の国語辞典や学習参考書の記載のほうに、その態度はむしろ大きな影響力をもっていた。

話を「演繹」の語源的・歴史的定義のほうに戻す。

『ベネッセ表現読解国語辞典』によると、演繹の「演」には「おしひろ(めて)」の読みが、「繹」には「ひきだ(す)」の読みが対応するらしい。そして、いくつかの辞典に記載があるように朱熹による『中庸』にその使用が見られ、それを西周がdeductionの訳語として再利用したといったところであるらしい。『小学館 日本国語大辞典』から【語誌】の箇所を引用する。

【語誌】もともと動詞で、意義を敷衍して述べることの意。それを西周が「百学連環」で論理学の方法論の一つ"deduction"の訳語に当てた。さらに「致知啓蒙」では、induction(帰納)と対比して使った。その後、「演繹法」が「哲学字彙」に採用され普及したが、同方法の連用という意味の「演繹」は、「演繹法」という語が定着したのちに、一般化した。

で、それはとても良く分かったのだが、それはそれとして、「演繹」の語を西周が再活用する以前からあっただろう意味用法も、その後ある時期までは残り続けたようである。なので、擬古文的用法や古い用法として、辞典に補足的に記載するのなら構わないし、むしろある程度のサイズの国語辞典なら載せるべきである。だが、国語辞典での実際の扱いは、それよりもはるかに「上」である。読者の第一印象を形成するような位置に記載しているものが多く、次のようになっている。

辞典等の「演繹」の訓読み的定義一覧
辞典名等 「演繹」の定義・規定
ベネッセ表現読解国語辞典(amazon 2.話題や議論の範囲を広げること。ある物事に関する考えや事実をおし広げて、他の物事にもあてはめること。類▼敷衍
広辞苑(amazon 1.[朱熹、中庸章句序]意義を推し広げて説明すること。
小学館 日本国語大辞典(第1巻:amazon
  • 1.一つの事から他の事に押しひろめて述べること。
  • (徳富蘆花、夏目漱石、大岡昇平、朱熹・中庸の典拠・例文あり)
学研 国語大辞典(amazon
  • 1.おしひろげてのべること。
  • (1962年の読売新聞夕刊の典拠・例文あり)
新潮 現代国語辞典(amazon
  • (「繹」は引く、引き伸ばす、の意)
  • 1.一つのことから意味を押し広げて述べること。
講談社 カラー版日本語大辞典(amazon 1.一つの事柄をもとに他の事柄へとおし広めて、明らかにすること。deduction
晴山亨他『読解を深める現代文単語<評論・小説>』桐原書店(amazon 一つの事例から他に押し広めること。
伊原勇一『頻出現代文重要語700』桐原書店(amazon 意味を押し広げて述べること。

「意味を押し広げる」という言い方なら「意味を拡大解釈する」のようにしか思えないし、「一つの事柄を他に押し広げる」のならそれは「般化する」という表現が使える場合も含むように思う。あるいは字面だけ見てればむしろ「帰納する」に近いように感じてもおかしくない。「あてはめる」「説明する」「明らかにする」で終わっているのもそれぞれおかしい。そしてわかりにくい。

その一方で、驚くべきはこれらの定義文の説明能力の低さである。というのも、筆者の受ける印象としては、むしろ、この「押し広げる」式の言い方で定義されている例文の多くに対してすらも、上記のような「押し広げて」式の訓読み的定義よりも、むしろ哲学者によってステップ1あたりで解説された定義のほうが、しっくり来るように思うからだ。次にいくつかその例を挙げる。以下、すでに出典を記載したものばかりなので、いちいち文中では繰り返さない。HTMLソースには最小限の出典を記載する。カーソル等を当てれば多分、たいていの端末でタイトルが「表示され」る。

話題や議論の範囲を広げること。ある物事に関する考えや事実をおし広げて、他の物事にもあてはめること。類▼敷衍
人間と自然の共生という課題について、身近な事象から演繹して述べる。

身近な事象から「論理学の規則に従って確実な結論を導いて」述べる、で何にも問題ない。ただし「演繹して」→「敷衍して」に置き換えてもそれならそれで意味は通じる。

一つの事から他の事に押しひろめて述べること。
武蔵野夫人(1950)<大岡昇平>一三「彼等は戦争も『必要』から演繹してゐた」

何かの必要性について述べる命題から「論理学の規則に従って」、戦争についての何か確実な結論を導いた、(「戦争は○○べきである」)、…で何にも問題ない。

一つの事から他の事に押しひろめて述べること。
*思出の記(1900-01)<徳富蘆花>一〇・二「良人の肉食論を演繹した訳でもあるまいが、着物などは垢つかぬものを着て居れば木綿で沢山、食物は或る可くよくせねば、万事の原の健康を全ふすることが出来ぬと云ふのが鈴江君の主義で」

その「鈴江」君が夫のふだん唱えているだろう「肉食論」から、「論理学の規則に従って確実な結論を導い」た結果、独自の着物論や食事論を導き出して主義にしていた、…で何にも問題ない。

また、ついでに指摘しておくと、「押し広げて」式の訓読み調の定義以外の定義を掲げている場合でも、現代論理学を踏まえた哲学者の専門的な用法に従ったほうがわかりやすい場合がある。

演繹 普遍的な前提から個別の結論を推論すること。
この鼻とこの顔は到底調和しない。それを厳格に力学上の公式から演繹して御覧に入れようと云うのであります。(夏目漱石「吾輩は猫である」)

力学上の公式から「論理学の規則に従って確実な結論を導いて」御覧に入れる、…で全く問題ない。この場合見出しには「推論する」とあるが、むしろ「断定する」に近いのが演繹である。

同じ参考書の空所補充の練習問題の例文は現代の科学者の書いたものであり、なおさらのこと、哲学者の専門的な定義のほうがふさわしい。空所は勝手に引用者が補充する。

演繹 普遍的な前提から個別の結論を推論すること。
創造することが、もし確実な前提条件から既に確立したルールに従って論理的な演繹を積み重ねていくことでしかないとしたら、そこにはなんの新しいものも生み出されるはずはない。コンピュータが基本的に新しいものを生み出せない理由が、まさにここにある。(茂木健一郎「脳と創造性」)

そもそもコンピュータ科学は論理学を活用している学問なのだから、論理学を踏まえた哲学者の演繹の定義がしっくり来る、というかそのまんま、であるのは当然である。この例文の「演繹」を空所にしたのがもし大学入試でなら、その理由は「参考書の著者がどうせ分かっていないから」であり、本文の叙述そのままを定義文に使えるその箇所を出題した、のではなかろうかと思うほどである。

次も参考書の定義が却ってわかりにくくした例。

演繹(法) 大きな原理を前提として個々の事柄を説明する思考法。
一つの統一的目的からすべての行動を演繹的に導きだしうるほど、人間の世界認識はすすんでいないし、認識を行動にむすびつけるだけの演繹能力ももっていない。(塩沢由典『人はなぜ習慣的に行動するのか』)

一つの統一的目的から「論理学の規則に従った確実な結論」として行動(を提示する文)を導き出せはしない、というふうに読んでまったく問題ない。参考書にある説明する思考法という定義はかえって理解を妨害している。

ただし、次の例文の場合は、通常の現代論理学を踏まえた定義文だと、わかりにくい。

おしひろげてのべること。
「ギリシャ神話やローマ史を現代の国際情勢に―して意気けんこうなところを見せた<六二・一・一六・読売夕>」

通常の演繹の文法的用法は「Aから演繹する」であった。この場合、通常の論理学的定義で通用することが多い。それに対して「A演繹する」となると、ここで初めてdeductionの訳語ではないような「演繹」の定義群を参照したくなる。ただし、この辞典での定義は単にわかりにくい。その代わりに『ベネッセ表現読解国語辞典』にあったある物事に関する考えや事実をおし広げて、他の物事にもあてはめること。や、その他それと類似の定義文が援用するのが有効だろう。あるいは「同一視する」「なぞらえる」という語でもしっくりくる。ただし、「あてはめ」「同一視し」「なぞらえ」たあと「述べる」が後続する必要があるだろう。その「述べ」た内容が「意気軒高」なところを見せるものであった、というわけだ。

ところが、この「何かを何かにあてはめ」「何かと何かを同一視し」「何かを何かになぞらえて」そして「述べる」という用法だけが紹介された生徒向け教材が、何とあるのだ。

『語彙・読解力検定公式テキスト 合格力養成BOOK 4級』改訂版(2015,朝日新聞社・ベネッセコーポレーション)(amazon)では、次のようになっている。

演繹 ある理論を、広くほかの物事にも当てはめて説明すること。
用例 同年代の若者の行動の傾向から、彼の取った行動を―する。
類義語 推論  対義語 帰納

大変に困った記述である。少なくとも次のことは言っておきたい。

まず縷々確認してきたように、辞典や教材に載っている大抵の例文も含めて、ほとんどの場合、ステップ1で説明したような、現代論理学を踏まえた哲学者の定義・規定で通用する。そうでない場合は、おそらくきわめて少ない。また、そもそも演繹という語を知っている必要もあまり通常は無い。なので、どうせ教えるのなら、一番普通に使用されている定義・用法で教えるべきである。

次に、「AをBに演繹する」タイプの例外的な用法は、確かに「演繹」という語を用いることが可能なのだろうが、だからといって、そういうケースの時になら必ず「演繹」を使わなければならないわけではない。「(BをAと)同一視する」とか「(BをAに)なぞらえる」でも構わない場合もあるし、むしろその場合そちらの方が良い。だからある理論を、広くほかの物事にも当てはめて説明することという定義であっても良いのかもしれないが、その定義が使える語・語句は「演繹」だけではない。

そしてさらに困ったことに、この「用例」にある例文は、その種の定義文をまったく必要としない。この用例は「AからBを演繹する」という文法的構造をとっているからだ。だから通常の「論理の規則に従って導く」で構わないし、むしろその定義と結び付けるのがふさわしい。つまり、若者の行動傾向を表す「文」から彼の取った行動を表す「文」を論理規則に従って導いた、というわけだ。

ベネッセ&朝日新聞社の『語彙・読解力検定』には、信頼できる指標であって欲しいので、この点に見られる欠陥を改善してほしい。

step番外編 「その他」

その他のものについて、短い感想を書く。まずビジネス系のロジカルシンキング系の本で、「演繹/帰納」を使っているものは総じてよく分からなかった。事例がビジネスや経済の話題であるから分かりづらいというのもある。が、特に「帰納」の定義・規定が独自すぎてついていけない、というのが、おそらく分かりにくさの原因だったのではないかと思う。譬えれば、「世の中にはスネ夫型人間とジャイアン型人間の2種類があり、その2種類しか居ない」とか言われており、その定義がすごくわかりにくい、といった感じに近かった。その「スネ夫型人間」が「演繹」、「ジャイアン型人間」が「帰納」となっているような説明を想像してもらえれば良い。次の2冊がそのわかりにくいロジカル系の本に該当する。ただしこの2冊でも全く異なっている。『改訂3版 グロービスMBAクリティカル・シンキング』(amazon)と、『考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則』(amazon)がそれ。この分野の、他の評判良い本は、「演繹/帰納」という語の使用を意図的に避けているようにも思えた。

野内良三『発想のための論理思考術』(amazon)は、ろくに読んでいないが、独自の主張をいろいろしている。誰かひまな方が検証すると良いと思う。この本は排中律の解説が、「作者が誤解しているか、または、読者に誤解させるか」のいずれかであると感じ、検討する気を無くした。というか、時間がもったいない。ただし、独自の主張が独自の主張としてなされているのなら、比較的害は無いと思う。独自の主張を世界共通の真理か事実のように述べるのが一番迷惑なのだ。それよりはだいぶましかもしれない。また、この本をきちんと検討した場合、上のステップのどこかに位置づけることは可能かもしれない。その時間があまり無いのでここに入れた。

おわりに:「演繹」定義の棲み分けから言えること

誰でも知っていることから述べる。「現代論理学を踏まえた現代英米哲学」の標準的な内容を学んだ者は、2017年3月現在、国語教員にはなれないし、それまでも戦後期ずっとなれなかった。またその用法に準拠した、たとえば認知心理学や経済学、政治学の専攻者でも同様である。あるいは、実力主義でなることができるような予備校や塾の現代文講師にも、よほど小説と古文漢文が得意でないと、こういった分野の専攻者がなるのは無理だろう。もちろん、それでいながら入試の現代文にはこういった「国語教員になることのできない専門家」の書いた文章は絶えず出題され続けているのだ。だからそれを国語教員になることのできる有資格者は適切に解説する責任がある(というか押し付けられているし、無理である)。その一方で、国語辞典の編纂を企画し中心になっているようなメンバーには、国語学者や文学研究者がおり、彼らは国語教員の有資格者やそれに近いバックボーンをもっている者だ。そして国語教師自身も国語辞典のほうに馴染んでいる。かくして、「演繹」の「死んだ定義」が、国語や現代文という科目を通して、高校生以下に伝達されているという図柄が浮き彫りになってきた。国語辞典や現代文参考書はその「死んだ定義」の包囲網のごときであった。通常の「現代論理学を踏まえた現代英米哲学的な用法」での「演繹」を使っていると解しうるような、学者や研究者が書いた例文・入試問題であっても、解説する辞典や参考書では「死んだ定義」によって、勝手に定義され説明される。そしてそれが高校生以下に伝達されているわけだ。

上に見てきたような「普遍的な命題から個々の事実への推論を行なうこと」といった演繹の定義は「死んだ定義」であった。そう見なしたい。つまり、「演繹」という語が使われている文を理解するために、その定義文は必要ではなかった。哲学史上の文献を読むときや、哲学史に関する現代的な研究を読む際には使う可能性があるだろうが、その場合はおそらく注釈で説明されるであろう。要するにあらかじめ予備知識として蓄える必要はほとんど無い。少なくとも中高生が他をおしのけてまで学習する必要のある定義などではない。あるいは「押し広げて説明する」といったタイプの字義に基づく定義も、ほとんどの場合はやはり使う機会の無い「死んだ定義」に近かった。ただし、「AをBに演繹する」という文法的構造をとっている場合には、「押し広げて」云々といった定義であっても援用せざるをえない可能性はある。ただそもそも「AをBに演繹する」という用法がめったに無いのである。通常は「AからBを演繹する」であり、それは現代論理学を踏まえた英米系哲学での用法の理解で充分である場合がほとんどだ。のみならず、その「押し広げる」という定義文自体がそもそも説明になっていないことが多い。ここには、漢字の音読みを訓読みに変換することこそが「説明」である、という国語科ならではの思想が垣間見える。

しかし恐ろしいのはここからだ。このような「死んだ定義」は学習参考書と国語辞典を通じて、高校生までの生徒の環境のなかで包囲網のように勢いをもっていた。だから一冊調べて「おかしい」と感じても、他のたいていの本もそうであるという事実に突き当たり、「やはりこれが正しいのだろう」と言い聞かせるしかないような状況が出来上がっていた。そしてこれは生徒だけでなく、国語科の教師にとってもそうであるのだ。仮に国語教師が専門的な哲学事典を参照しても、「決定的な反証」に出くわすことはまれであった。専門的な事典であっても、その「死んだ定義」を補足的な位置になら掲載していることも多かったことは、確認したとおりだ。しかるべき書き方をすれば、それは「死んだ定義」というほどではないからだ。また、哲学史を重視する立場の本でもそうであり、あるいはそれ以上の扱いであることも多い。特にビジュアル版の哲学事典にその傾向がある。それらでは歴史上の哲学者に結びつけてその哲学者に限定的な定義・規定であるかもしれないものが一般的な形で紹介され、専門家はいいとして、一般人はそこでも鵜呑みにするしかない。そして、高校社会科の教材や国語辞典はこれらからもおそらく影響力を受けている。

ここでさらに恐ろしいことが起こりうる。事実多少は起こってもいる。一つは「国語辞典に書かれている演繹の定義文」をよりよく理解するためのさらなるカリキュラムや教材や検定試験といった、砂上の楼閣のようなものを産み出しうるということである。もう一つは、それ自体「(死んだ定義に基づく)演繹力」や「帰納力」といったものが獲得するべき能力の目標として掲げられ、そういうカリキュラムや教材や検定試験といった、砂上の楼閣のようなものが産み出されうる、ということである。この場合は、国語科だけでなく理社科などとも連動した一大教育プロジェクトとなりがちである。こうなるともう誰にも止められない。砂上の楼閣とはいっても、生徒はそこで何年間かを過ごさねばならないのだ。砂上ではなくなる。つまりそこを生き抜くための方策などというものが必要になってくるのだ。現に、ホワイトカラー向けのシンキング系教育の一部ではすでにこうなってしまっているわけだ。同じことが、独自の様相を帯びて、中高生あたりにも起こっているだろうとかなりの確度をもって推定できる。あまつさえ、大学に入学して哲学・論理学や実証科学で演繹の専門的定義を学ぶために大学入試に合格せねばならず、また高卒資格をとらねばならないため、演繹の死んだ定義をいったん学習する「必要」すら生じかねない。だが、そこで専門的定義を学んだ者は、国語教員にはなれないし、そもそも小中校の教員の枠自体がほとんど無い。なので、そういうカリキュラムや教材で育った者が、その後高校以下の学校でそういう教育を再生産する、という再生産サイクルも産み出しうるし、とっくにその二巡目、三巡目に突入してもいるはずだ。大学での専門教育の影響が及ばない「小中高の十二年間」という聖域が自己完結的に成立しているのである。そして、ホワイトカラー向けのロジカル何とかとも連動しうるのである。たとえばビジネスや社会事業の世界で現役で活躍している人材こそが、小中高の教師にふさわしい、となれば、えたいの知れないロジカルシンキングで学習した人によって、えたいのしれない「演繹」や「帰納」が教え込まれる危険もある。大学での研究に基づいた専門教育だけが排除される格好になりうるわけである。

なぜ「演繹」という語にこのような事態が象徴的に表れているのであろうか。もちろん、日本の大学において論理学の専門家を養成するコースがほぼ無く、したがってその代理として、英米系現代哲学や科学哲学・数学の哲学を専攻する者や、数学基礎論等を専攻する数学者によって、論理学の教育や学習書の執筆が行なわれていることが、まずは背景にある。つまり、国語辞典の「演繹」の定義にクレームをつけるべき責任ある立場が存在しない。とは言え、演繹と演繹以外との比較において演繹を記述する、ということになると、論理学のみの専門家よりは、論理学以外との比較で論理学を捉えることができ、かつ論理学を重視している現代英米哲学の専門家がよりふさわしい、ということになる。実際著名な論理学の学習書は推定7割くらいはそのような著者によって書かれてきたし、今もそうだ(残り3割くらいが数学者による)。しかし、彼らは自身のフィールドで責任をもって演繹の定義や規定は下し、学習書を執筆はするものの、国語辞典などにクレームをつけることまではしていない(と思う)。あくまで、国語辞典へのクレームになりうる内容に実質的にはなるように、自身のほうの仕事を行なうにとどまる。だから棲み分けは結局は温存される。

文学作品や文学者による著述に、「演繹」という語が登場することも、「死んだ定義」が温存され続けている背景にある。とは言え、まっとうに考えれば次のようになるはずだ。たとえば小説の中に、物理学の話題が出てきた場合、そこでの用語法の理解を決定する権限は文学研究者のほうになるか。無論ならないのだ。つまり、その理解に責任と権利を有するのはあくまで物理学者の方である。もちろん架空の物理学や架空の物理法則を想定した小説はあって当然良い。だがその場合であっても、読者は「普通の物理学の用語が普通の物理学者の用法に従って使われているものとして」読むことを想定して書かれているはずだ。なので、その理解を文学研究者や国語教員も前提する必要がある。そしてその前提の正しさや適切さを決めるのは、文学研究者や国語教師ではなくて、物理学者や物理学史の研究者のほうである。同じことが他のたいていの専門用語に言えるはずだ。もし小説の中に警察の話題が登場した場合でも、もちろん架空の警察をいくら小説で書こうがそれは問題ないのだが、それはそれとして、読者が備えているだろう本物の警察でどのように専門用語が使われているかの理解に関して、その適切さの権威は、小説家のほうにあるわけでも、文学研究者や国語教員のほうにあるわけでもない。警察の関係者の側にあるのだ。「演繹」だって同じことである。要するに、「演繹」は文学研究者や国語学研究者の管轄にある語では、あまり無いのだ。のみならず、少し検討したように、文学者の多くもまた、演繹という語を、意外と現代の論理学や英米哲学と共通の理解で使っていると見なしうるのである。間違っているのは文学作品の著者ではなく、勝手な注釈を与えている国語辞典のほうである、と考えることは充分可能であった。少なくともdeductionの訳語としての「演繹」についてはそう言える。また、西周が訳語として「演繹」を用いる以前からあったような用法に関しても、辞書の定義文は意味不明な字義のつぎはぎでしかない場合が多く定義としての用を為していなかった。たんに字源を言い直したに過ぎないのである。

しかし重ねて言うが、現代は、たとえば文学者が「演繹」という語を使用する際に、専門的な学習書で専門的な定義を学習した読者だけを想定すれば良い、というわけにはいかない。むしろ、国語辞典や現代文参考書によって「死んだ定義」を学習した読者もまた想定する必要がある、ということが問題なのだ。下手をすると、文学者が現代だとかなりの確率で、そちらの「死んだ定義」のほうしか知らない、ということだってありうるわけだ。そして、先に述べたように「演繹力をつけよう」式の教育プログラムが猖獗を極めるようになれば、もはやそれは「死んだ定義」ですらなくなる。少なくともその教育を受けている期間では、それは「生きた定義」になってしまう。そのプログラムの卒業生がたくさん輩出されるようになれば、「社会に出て」からすら「生きた定義」になってしまう。というか、現在でももう多少はその域に入っているのだ。

さて、「演繹」になぜこのような棲み分けが特に表われているのか、そのおそらくもっとも根深い原因は、次に述べるようなものだと筆者は推察する。それは「帰納は非論理的」という事態を覆い隠したい、そういう表現を消去したい、という「国策」である。つまり、こうだ。論理学的に言えば演繹というのは「論理的推論」のことにほかならない。とすれば、「帰納」は「非論理的推論」のことにほかならない。これは、論理学や科学哲学やある種の実証科学では当然の理解でしかない。だが、これが「国策」に関与する者からすると、まるで侮辱されたような気分になるわけだ。自然科学においても実生活においてもその多くを占めている「帰納」による推論を、「蓋然的」とオブラートにくるんではいるものの、とどのつまり「論理学的な意味で非論理的」とは何事だ、というわけだ。これでは自然科学が侮辱されているではないか、というわけだ。ここには、香西秀信の書評でも書いたことと関連するが、「非論理的」という表現を「論理的ではないもの」として受け取るよりもむしろ「論理的の積極的な反対語・対立語」というふうに日常語感として受け取る態度も関連するかもしれない。またそれどころか、むしろ「国策」に関与する者は「帰納こそが論理的である」というふうに言いたいのである。かくして、「論理学的な意味での論理的」という概念自体が隠蔽される。そこで、「演繹と帰納の違い」も曖昧にされる。論理学とは異なった「論理的」の用法も小中高までの学校やそれと連動する塾・予備校・出版社等の諸教育機関で普及させ、定着させられることになる。そこでの用法は「帰納こそ論理的である」と表現できるようなタイプの用法なわけだ。

「帰納は蓋然的であり、だから論理学的な意味では帰納は非論理的である」という言い方を回避することをどこか無自覚的に目指しているのが、高校までの教育関係者(特に教育行政関係者)の意識なのである。だから、演繹と帰納の差異が、論理学的なポイントに置かれなくなる。そこで、やはり無自覚的にアリストテレス的枠組が好まれるようになる。その結果として「この定義がわかりやすい」という判断を生み、さらに「この定義こそが便利だ」という判断を生み出しているわけだ。たとえば「特殊から普遍へ」という「帰納力」をつけることが、まるで知性教育の一大プロジェクトのような恰好に粉飾できる、というわけだ。「便利」である。そこでは「論理的である帰納能力をつけよう」というプロジェクトが目指されるが、「演繹とか帰納とか論理的といった単語がどのように使用されているか、そういう用例を集めて、そこから帰納的に一般法則を導こう」というプロジェクトだけは目指されない。

いずれにせよ、この「演繹」の定義の棲み分けは、二つの点で、かなり大きな話題に通じる要素をもっている。一つは、現代文とか国語という教科やその関係者・国語辞典などの関係物が包囲網となって、大学での専門分野から高校生を遠ざけている、という図柄である。もう一つは、小中高までの教育が「帰納こそは論理的である」と言い募りたい、という欲望に彩られ、そこに都合の悪い論理学などが排除されている、という図柄である。論理学の排除にも結局国語教員という立場の人たちがまことに都合が良く利用されている、というわけであった。そういうわけで、この文章が示唆する教訓は結局「国語科」「現代文」といったものが大学での専門教育や研究の妨害要因になっている、といういつもの提言に帰着する。