ぶんかぶんか

目次

はじめに

サイト名は、漢字で書くといちおう「文科文化」のつもりです。さて『ぶんかぶんか』では次の提言活動をおこなっていく予定です。

上記の4項目はいっけん無関係のように思えるかもしれません。しかし実は大いに関係があります。それはこうです。大学で学ぶ文科系の学問の成果が反映するような教科が小中高までの教科にほんの少ししか無い―この指摘が上記の4つの提言のすべてに共通しているのです。

国語力とされうる能力は国語という教科を学んでも少ししかつきません。これは国語科の内容策定に活用されている学問分野が限られたものしかないからです。

問題解決型学習に必要な能力も教科学習だけではつきません。これは、文科系の多くの分野が小中高の教育で活用されることが無いためです。そのため文科系の学問で蓄積されてきた技法や思考が教えられることなく終わっています。だから問題解決のスキルが充分つかないのです。

高校までの教科をまじめに学んでも大学選びの助けには少ししかなりません。なぜなら、大学で教えられている多くの学問分野が、高校までの教科学習で紹介も活用もきちんとされていないからです。

高校までの教科学習では有権者に有用な知識やスキルがほとんどつきません。なぜなら、現代の社会についての諸学問も、情報を識別するための知恵を与える諸学問も、高校までに教えられるものはごくわずかだからです。

ところで、国立大学の文系学部の存続が危ぶまれる2015年も過ぎ2016年になって、文科省は高校までの教科の大幅な改変を告知しました。当然のことながら、ここでの新科目には大学での学問の成果が充分生かされない、という可能性が大きく残っています。学問の基盤である大学自体が存続が危ういからです。したがって、新科目の見かけの斬新さにまどわされずに、実質的な内容や策定メンバーを注視する必要があると言えます。

そういうわけで、旧作も残しつつ提言や提案を少しずつ増やしていきます。

著作者について

人生失敗だらけでここまで来ました。その一つに大学生活の失敗というものもあり、大学を卒業することにもまた失敗しました。つまり筆者は大卒者ではありません。

「文学部」と「勤勉の徳」との関係というものは、筆者が大学生の時から不思議であったものの一つです。こうです。およそ「勤勉」というものの徳性や規範性を懐疑したことのないような者が、「文学部」の学問に適性のあろうはずがあるまい。そもそも「まともな社会人」になろうとするのなら「文学部」になど入学するはずもない。一方ではそう言えるはずです。他方、文学部の著名な研究者を見ている限り、やはり一定以上の「勤勉」もまた不可欠の要素であろうとも言えます。「参考文献一覧」だけ見ても、彼らの「勤勉」は明らかです。というか、そもそも大学を卒業できている時点で、筆者よりはよほど「勤勉」なはずなのです。なので「勤勉の徳」を懐疑したり侮蔑しつつも、その懐疑や侮蔑をもまた懐疑するような、ある特殊な知性の持ち主こそが「文学部」の研究者にもっともふさわしい者であろう、と言えるかもしれません。…とかね。

「文学部」の或る学科に入学しました。その際「将来国語の教員にはなれません」という通知が含まれていて一瞬だけ愕然としたことは覚えています。現代文入試に出題されている分野を専攻しても現代文の教師になれないとはナニゴトカと。入学して翌年に細かく専攻に分かれた際、「自分の専攻の単位だけ取ってくださいね。よその専攻の単位なんて取らないでくださいね。自分の専攻だけで卒業要件に達するようにできていますから」と言われたことも、何だかとても記憶に残っています。結局、よその専攻の授業をいっぱいとったし、そのうえ卒業もできませんでしたし。

「良いレポート」を書くことができる人を目の当たりにして、かなりへこみました。自分の書くものと内容が天地ほどにも違い、いったいこれからどう生きていこうかわからなくなりました。同じことを「学生のときの論文を著書にした」本、というものを読んだときにも思いました。こういうものを学生(院生)のうちに書くことができる者もいるのに、自分のような無能な者もいる、さてどうしよう、というわけです。

高校生のときは「理系」でしたが、理系科目は0点ばかりでした。にもかかわらず「大学入試=成人式は理系で迎えなければならぬ」などと執拗に思い込んでいました。しかし、大学入試においては理系と文系とのあいだにいろんな差があり、対称的な分け方では無いことにはうすうす気づいていたとも言えます。この勘はある意味では大当たりであり、いわゆる文系の学者の代表のような人には、元理系がとても多いということがあとでわかりました。

以上、内容理解に役立ちそうな自己紹介でした。