マンガ作文・テレビ作文のポイント

マンガ作文の前に考慮が必要な事柄

国語教師の典型的な学力観の一つに、「与えられた表現を、与えられていない形に変換して表現することが国語の学力だ」というものがある。結論から言えばこれがマンガ作文を推奨できない主な理由になる。というのも、「与えられた表現を与えられていない形で表現する」ために必要な知識や考え方を教師は生徒に教えていないし、そもそも教師自身が知らないからだ。

マンガ作文そのものは、ある意味では容易であると言える一面がある。すなわち基本は全部「心情」で書けばいいからだ。「出来事1の発生→登場人物Aの心情→登場人物Bの心情→出来事2の発生→登場人物Aの心情→登場人物Bの心情」というふうに心情の連鎖に出来事の発生をからめて書けば、終わりである。連鎖は順接の接続詞を使って表現すれば良い。登場人物の心情の多くはマンガの中に文字の形で書かれてはいないから、「与えられた表現を与えられていない形に変換して表現すること」に該当する。なので「良くできました」となる。だが、国語教師の期待に応えない・応えられない子供というのが必ず出てくる。それを「裁判での理想的な証言者」タイプの子供とでも呼べるかもしれない。

「裁判での理想的な証言」というのは、ようするに自分の「解釈」をできるだけ排し、可能な限り事実に基づいて証言するタイプの発話である。これがマンガ作文の「理想」ととことん対立する。マンガ作文で必要なのは、いかにして「自分の解釈」を述べ「事実そのもの」を書かないか、という態度のほうだからだ。その典型が「セリフ」の扱いである。マンガ作文でいちばん嫌われるのは「Aさんは“X”と言った」というふうに、「言った」を使ってとにかくセリフを忠実に再現する書き方である。裁判の証言ならこの態度のほうが好ましい。だがマンガ作文への態度としては「最悪」と受け止められる。

なので、マンガ作文を教える側には「Aさんは“X”と言った」を「Aさんは○○した」という形に変換して、かつできるだけ「マンガ内事実」に密着した形で表現するための、ノウハウを持つ必要がある。そのための知的リソースの一つは明らかに言語行為論系・日常言語学派系の見識だが、それだけでは必要だが不十分である。有用な補助線の一つは「AさんはBさんに聞こえるように、Cさんに向けて“X”と言った」というふうに、誰に向けて言ったのか、誰に聞こえるように言ったのか、ということを明確化するようにしてみる作業だ。特にある種の障碍のある生徒だと、おそらくこの次元での理解が困難であることが予想できる。一方、言語行為論系からの知見(飯野勝巳氏)としては「AさんがCさんに向けて“X”と言った」ことが、Cさんにどの程度のことを強いているか、という観点がある。最低限、返答や聞こえたという合図だけは返さないといけないのか、あるいはそれ以上に発言に応対した行動を採らないといけないのか、それともそれらの必要が特に強くはないのか、といった観点である。

問題解決のための会話や独演というものもある。会話の場合であれば、問題を共有しながら、各自が提案をして「問題解決」や「秩序回復」のために何を行なったのか、どう役立ったのか、という観点からまとめるとやりやすいだろう。そうすれば「Aさんは“X”と言った」→「Aさんは新たな論点を皆に提供した」といった具合に書き換えていくことができる。これは文字や音声での会話だけでなく、独演の形で行なわれる学校等の講義の場合でも適用することのできる見方である。「教師が“XはAである”と述べた」という文が「教師が問題解決のための着眼点を提示した」という文に置き換えていくことができる、というわけだ。

マンガ作文・テレビ作文における間接的言語行為のキモ

「俺の顔に泥を塗ってくれてありがとうよ」というBさんの発話を、多くの人はおそらく「AさんがBさんという人物に恥をかかせた件に関して、怒ったBさんがAさんに対して恫喝してみせた」というふうに理解する。しかしもちろんこれは社会文化的な学習によるものであって、その学習を経ていないがしかしある程度の日本語力を習得している子供の場合、そうは受け取らないしそうは受け取れない。

まずこの発話の中に使われている「顔に泥を塗る」という慣用表現の理解がどうか、という問題がある。これは「相手に恥をかかせる」とか「相手の名誉を損なう」といった意味合いで通常使われる。しかし、社会文化的な学習途上にありながら、ある程度は日本語力を習得している子供の場合、「顔に泥を塗って遊んだの?」とか解釈したりするかもしれない。まずここが一点目。

この一点目がクリアされていないと、次の二点目のクリアは不可能であろう。それは「俺の顔に泥を塗ってくれてありがとうよ」という発話を、「恫喝」とか「怒りの表明」とか「脅迫」などと受け取る、という理解力である。というのは、社会文化的な学習途上にある子供はこの発話を「感謝」と受け取るかもしれないからだ。というか、結構な割合でそういう「子供」はたぶんいる。それに対して、日本語を正しく理解しているというのは、「この文は感謝を表明するような形をとってその実恫喝するというように、ストレートな形をとらない婉曲表現によって、自分の強い感情を相手に効果的に伝える、というタイプの言語行為なのだ」といったものになるだろう。

ところが、一点目がクリアされていないのに、二点目だけクリアする、ということも、ある意味では不可能ではないと言いうる。たとえばある種の子供は「Bさんの顔にAさんが泥をうっかり掛けて汚してしまったので、Bさんは怒ってAさんに対して恫喝した」というふうに理解するかも知れない。慣用句の理解の仕方は間違っているが、相手の言語行為を感謝ではなく恫喝であると理解している点では正しい。そういうパターンだ。あるいはほんとうに間違って相手の顔に泥をかけてしまった場合にも、同じような発話が相手から飛び出してくることが絶対無いとは言い切れない、ということも考慮した方が良い。

「顔に泥を塗る」にしろ「○○してくれてありがとうよ」も、相当に自動化した慣用表現ではある。がしかし、これらの表現が必ず絶対100%慣用表現として使われるとは限らない。本当に顔に泥を塗った場合や本当に感謝の意を伝えるときにも、こうした表現を絶対に使わないとは限らない。確かに、そう使ったら紛らわしいから、より慎重な表現を使うのが常識的な配慮ではあるが、常にそうしなければいけないとは限らない。そういうことも考慮した方が良い。

土屋俊氏の「間接的言語行為という偽問題」、『なぜ言語があるのか 土屋俊言語哲学コレクション4』(くろしお出版、2009)というやや難解な論文を読みながらなんとは無しに思ったことを、書いてみたのが以上である。言語行為の理解という問題は、慣用句や比喩やオノマトペの理解と無関係ではないという直感を筆者はもっている。

テレビ作文の前に考慮が必要な事柄

四コママンガ等を読んで、「何が描いてあったか」を作文させる課題であるマンガ作文という教育技法があり、それに類比的な形で「テレビ作文」というものを想定することができる。とは言え、その場合、マンガ作文よりもはるかに多くの事柄をあらかじめ考慮しておく必要がある。

文字には「活字」というものが存在するが、「音声」には「活声」「活音」というものは今のところ存在しない、と言って良いだろう。ただ、以下は仮に「活声」というものが存在するとしても成立するような議論をしておく。たとえば、駅やATMのアナウンスやアナウンサーの発声を「活字」に匹敵する「活声」として見なしたとしても、なお、成立するような議論をしておく。

子供の言語習得がいかにしてなされるのか、その際、音声言語と文字言語との関係はどうなっているのか、に関して、「専門家」の多くは真剣に考えてなど全然いないということがまず指摘できる。その結果としての現在の学校制度であり、教育制度である。雑駁に言えばこうだ。「専門家」は文字言語の運用は難しいが、他方で音声言語の運用は易しい、とこう捉えている。なぜ「専門家」がそう捉えているのかと言えば、欧米語に関してはそれが当てはまるからだ。しかし日本語は違う。だから「専門家」の想定は誤りだし、その結果としての学校制度も誤謬に基づいている。

このことは既発表の記事で筆者は指摘しておいた。たとえば、同音異義語の存在がある。このため、音声で聞き取る能力というものは、「文字で表記したときどうなっているか」の知識を前提するものとなっている。だから、日本語の習得は「まず音声言語を身につけて、次に音声言語で教わることによって文字言語を身につける」という単純な順番をたどらない。「まず音声言語を身につけて、次に音声言語で教わることによって文字言語を身につけて、そのことによって次に、その文字言語を音声言語にただ置き換えたものの聞き取りを何とか身につける」という順番になっている。しかもその三番目の段階は「何とか」やりくりしているに過ぎず、絶対のゴールに辿りつくことは通常ありえない。何歳になろうが「相手の使用する同音異義語」が必ず正確に聞き取れます、などという人はいない。ありえない。

もちろん、「同音異義語」に加えて、「段落」「句読点」「諸括弧」「ハイフン」などといった文字表記に依存した要素のことを考慮に入れれば、仮に「活字」ならぬ「活声」が発明されても、その聞き取りが困難であることは明らかである。少々ふざけて句読点をわざと音声で逐一表現する人というのが昔いたと思うが、たとえば「もおにんぐむすめまる」「ありがとおございますまる」などと表現する人がいたと思うが、そういう手続きが「活声」にも必要になる。あるいはそれに匹敵するもう少し「まじめな」技法が必要になる。句読点や段落を表示する独特の音声を発明し普及させるということが、である。したがって、現段階では、それらのありとあらゆる要素の聞き取りは著しく困難である。「文字言語に比べて音声言語のほうがずっと情報量が豊かである」というクリシェを述べる人がたまにいるが、単なる馬鹿か欧米かぶれのどちらかである。

また、述語の位置が欧米語だと文のはじめのほうに位置するのに対して、日本語は文末に位置することから、重大な帰結が生じることも以前指摘した。それは「日本語は音声の場合、文が終わったことに気づくのは、次の文に突入してからになる」「つまり、日本語は音声の場合、前の文と今の文とを同時並行的に情報処理して聞かないと理解できないことがある」という話題である。そして、ここに「日本語は最後まで聞かないと、ということは次の文に突入しないと、その文が肯定文か否定文かどうかだったかすらわからない」という事情も加わる。もっともこれは、独演的に行われる講義やスピーチの場合であり、話者が次々交代する可能性の高い自由な会話場面ではまた、事情が違うかもしれない。しかしいずれにせよ、「小学校の授業」では、この事情が関与する可能性が高い、ということは言えるはずだろう。

いずれにせよ、日本の学校制度は音声言語の聞き取りは易しいが、文字言語の読み取りは難しい、という単純な言語観で設計されている。文字言語を身につけないと聞き取ることのできない音声言語の存在のことは、特に想定されていないことが多い。なので、学校での授業というものは、わりと安易に音声に依存して行なわれる。つまり、音声での聞き取り能力がすでに身に付いた子供を前提に行なわれる。ちなみに同じ言語観を、メディアの送り手もまた共有している疑いが強い。大人向けのバラエティには字幕が付く場合があるのに対し、子供向け番組のほとんどには字幕がいっさい付かない。音声を聞き取るほうが文字を読み取るよりも容易である、という考えに基づいているからだとしか思えない。しかしそれは間違っている。

さて以上は、「人の音声言語を一方的に聞き取り理解だけする」人間を想定した話になっていたし、その水準(授業など)の議論も必要なのだが、実際には音声言語の多くは「一方的に聞き取って理解だけする」ものではなく、「自分もまたそれに応じて呼応し返答し発信しなければならないもの」でもある。その際にきわめて多くの「理解し習得もしなければならない規範的事柄」が存在することには、言を要すまい。

ここまでは、マンガ作文であってもテレビ作文であっても、いずれにせよ理解しておかなければならない事柄である。四コママンガの構成要素の根幹に「会話」というものがあり、その「会話」を描写したり説明したりすることができることが、その作文の「能力」である以上、「会話」という社会的行為を高度に習得した子供でなければこの作文は可能ではない、それは明らかであるように思う。そしてマンガ作文を教えている国語教師や作文教師にそれに対応できる理論武装があるわけではないこともまた、筆者には明らかである。「マンガの会話というものは音声を描写したものだから、文字の本を読むより容易に理解できる」といった程度の幼稚な発想に依拠しているだけのものが、現在までのマンガ作文である。これ自体は、まあダメダメな事態であるが、今はそれに構っている暇はない。

それに加えてこうだ。マンガにせよテレビ等の映像にせよ、あるいは文字だけの小説でもそうだが、「フィクションの中の会話」というものが、「実際の」会話というものとはいくぶん異なるということが、まず考慮される必要がある。たとえばこうだ。「フィクションの中の会話」というものは、「登場人物」に伝えるためにだけ行なわれているわけではなく、読者や視聴者に伝えるためにも行なわれているし、そちらこそが主眼であるような「会話」もある、ということだ。なので、次のことが推察可能である。「実際の会話能力」が低くても、マンガやテレビの会話を理解できることがありうる、これである。つまり、それは「フィクションでの会話」の特徴を多くもち、実際には「読者や視聴者に伝える」ことに主眼があるような会話が一定程度存在する、ということである。マンガ作文の先に指摘した「難点」があまり顕在化しない理由の一つも、これであろう。「リアルの会話」を理解したり遂行する能力よりも、「フィクションの会話の特徴」を理解している子供のほうが、理解の程度が高いことがありうる、というわけだ。

もう一つ重要な点を指摘する。それは「フィクションの会話」では、先に述べたような音声言語の不自由さがまるでほとんど存在しないかのように進行するということだ。同音異義語の聞き取り問題も存在せず、まるで文字で筆談しているかのようにスムーズに進む。ときおり、「聞き取り問題」が発生することはあってもそれはストーリーの都合上生ずるものでありつまりネタである。だからそれは「リアルの会話」に常に潜伏しているような聞き取り問題とは無縁である。まとめれば、フィクションの会話というのは「字幕付き音声」で会話しているようなスムーズさを持つ、という点でリアルの会話とは異なる。ここからは先ほどとは反対の帰結が予想される。つまり「実際の会話能力」が低い者のなかには、テレビの会話を理解する能力も登場人物よりも低い者がいることが起こり得、またその視聴者当人の側にもそのことが意識されやすくなる、これである。これは会話を文字で表現するマンガでは起こらないことであり、会話を音声で表現するテレビ・映像メディアならではの起こりうる点である。

さて、マンガよりもテレビのほうが一段と錯綜した構造のもとにある。つまり「マンガ作文」よりも「テレビ作文」のほうがより考慮を要するようになりやすい。たった今上で述べた「テレビの会話を理解する能力も登場人物よりも視聴者のほうが低いことが起こり得る」というのもそれだ。その他の例として、二つの全く異なった次元の点を、以下指摘する。

一つめ。マンガでは音や声を音や声として表現できず視覚情報に変換されたうえで表現されるが、テレビだと音や声を聴覚情報のまま音や声として表現される。この違いから次の点が帰結する。すなわち、マンガでは「音」は必要以上には表現されないようになり「声」が中心になるが、他方でテレビは「音」の表現で充満しておりその使用に遠慮が全く無いという点である。そのことで、視聴者の側にはテレビから聞こえる音に関して、ある独特の識別を必要とするようになる。すなわち「この音は“登場人物”に聞こえ得るか否か」の識別である。

マンガと比較しよう。まず「声」だ。マンガでは「登場人物に聞こえている声」と「登場人物に聞こえていない声」とを、漫符として区別する技術を持っている。たとえば吹き出しでは、「声」を表現する吹き出しと「内面」を表現する吹き出しとの区別というものは、確立されている。同様に、「ナレーション」を表現するような吹き出しも確立されている。つまり、マンガのなかの「声」のうち、どの「声」だと登場人物に聞こえていることが可能であり、どの「声」だと聞こえることが不可能なのかは、その識別は読者にはかなり自明である。もちろん自明とはいっても、文化的学習を経なければならないものではある。が同時に、学習によってその理解は容易に達成可能なものであるのだ。

次に「音」だ。マンガでは「音」は主に手書きの文字によって表現される。このとき「登場人物に聞こえている音」と「登場人物に聞こえるはずのない音に似た何か」とは、漫符としては区別されない。つまり、オノマトペのうち、擬音語(聞こえる音)と擬態語(“聞こえる音”ではない何か)とは漫符として区別されているわけではない。この区別はむしろ言語レベルの区別だと言ったほうが良い。「キキキキー!」とか「ガオー」「ワンワン」だと「擬音語」であり、「シーン」とか「ゾワゾワ」「ガーン」だと「擬態語」である、というのはもはや言語理解と同等の理解である。つまり「聞こえ得る音」と「聞こえ得ない非音」とは「言語的」「単語的」に区別されている。これはより高度な学習の成果ではあるが、ともあれ文化的学習であり不可能な事柄ではない。

ところがマンガと同じことがテレビでの「音」(「音楽的な声」も同じ)については当てはまらない。つまりテレビで視聴者が聞こえる音のうち、「登場人物に聞こえている音」と「登場人物に聞こえ得ない音」との区別をつけることができるような文化的学習というものを想定することは無理である。現在の科学技術だとほとんどどんな音でも作ることが可能だし、編集で付加したり除去することも可能だからだ。したがって、テレビで視聴者に聞こえる音のうち、登場人物にどの音が聞こえ得て、どの音だと聞こえ得ないのかの識別は、本質的には不可能であると言ってよい。しかもこれはフィクションに限らない。バラエティやクイズや報道番組であっても、この区別が視聴者に不可能である点は変わらない。ただ多くの番組ではこの区別が単にあまり必要でない、というだけのことでしかない。その必要性の無さということを、人は発達段階のどこかで自然に学習していく。しかしそれはまっさらな幼児には無理だ。なので、幼児やある種の認知傾向のある人々は、テレビを見ていても「登場人物に聞こえている音」と「登場人物に聞こえていない音」の区別があることに気づかず、視聴に理解困難があるかもしれないわけだ。

二つめ。テレビに関しては、マンガと比較してきわめて多くのものからの影響を蒙りやすい。つまり、作られた作品・流された映像や音声といったものが「単一の意志」のもとに統御されているとはとうてい言い難いということがある。マンガの場合でも、とりわけ長期の連載マンガの場合編集者が途中で変わったりするなどで、作風や設定が少しずつ変わってしまい一貫しないことはままある。しかしテレビの場合、それがもっと短い期間のなかですら一貫できないことがままあるのだ。とりわけ、そのことが現自民党政権のもとでかなり露骨に番組に反映されるようになった。特に2016年後半から目立つ。と言うか、番組が何か理解しがたいしかたで「路線変更」をした場合に、「背後の政治的圧力」を想定するのが当然のような時代になったわけだ。もちろん、それまでだってあった事態だろうが、より露骨になってきたわけだ。また、そこまで行かなくとも、番組制作側が「自分のやりたいこと」と引き換えに「交換条件」を呑まされている、という観もぬぐえなくなってきた、と、そう言える。言うなれば、長期連載マンガだと「5巻と10巻とでだいぶ設定が変わったね」というレベルの話なのだが、テレビだと「第5話と第10話とでだいぶ設定が変わったね」「あのときの伏線はどうなったのかね」「初期設定のままでもっと展開できるだろうにね」というレベルの話になりかねなくなったのだ。またそのためだと思うが、作り手も最初から緻密な設計図を描いて番組を作ることを断念して作っているかのような趣になってもきた。今これを書いている2017年7月という時期は、そのことがもうかなりはっきりしてきた時期であるのだ。そこから遡及して、過去の番組でもそういった面があっただろうと推測できるようになってもきたわけだ。

なので次のことが言える。すなわち「テレビ作文」を行なう場合、その番組を選ぶときには、必ず「第1話から最終回まで全話視聴して」からでないと、その良しあしが分からないものだ、ということを念頭に置くべきだ、これである。おそらくこの「介入に対する脆弱性」の根本要因の一つが、「視聴者は民放のテレビ番組は無料で視聴している」という点にあるだろう。「商品」なら購買者の意見というものが一定の強さをもちうるが、無料で視聴できるテレビ番組の場合、「視聴者の立場」はとことん弱いというわけだ。「商品」であるマンガとの違いがおそらくこういった形でテレビ番組にはあり、そのことがテレビ番組を「教材」として無邪気に採用することの障壁にもなりうるわけだ。(同様に、テレビ番組の内容に「社会学的問題」のようなものを「発見」することもまた困難である、やるからにはとことん調査し尽くした上でないと、ということも言えるわけだ)

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