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「大学への国語力」のコンテンツは現在

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以下は初出の文章をいくぶんリライトしています。

「大学への国語力」とは

「国語力」と「国語科の学力」とはまず違います。違うからこそ、ここで「大学への国語力」と名付けました。すなわち「国語力」=「国語科の学力」であるはずだ/あるべきだと思い込んでいる人が飛びつくようなネーミングにしました。いずれにせよ、『大学への数学』や『大学への日本史』は過去・現在に参考書や雑誌に存在しましたし、物理科や化学科も予備校や参考書では実質的に「大学への物理学」「大学への化学」の役割を果たしてきています。これらは、とりわけ理系科目は、大学教育につながることが意図されている教科なのです。一方、そういう点で「大学への国語科」というのは、かつて存在しませんでした。存在するわけがないのです。ですから「大学への国語力」というものを、それとは別に、構想していくことが重要です。

「国語力はすべての基本」というフレーズがあります。しかしそこから「したがって国語科の学力はすべての学力の基本だ」と導出するならそれは誤りです。「主要教科は英数国」なのはせいぜい高校受験までであって、大学受験の主要教科は理系なら無論「英数理」ですが、文系も「英数古」か「英古史」であるはずです。あるいは日本で「トップ」の私立大学(慶應義塾大学)は入試科目に「国語」がありません(もちろん文学部もです)。いずれにせよ「現代文」「現国」は大学受験のなかでは付録でしかありません。そのことの理由や帰結を少し考えてみるのも悪くありません。また筆者の実感を言えば、「国語力があるから英語や数学の習得がうまくいった」というよりは「英語や数学を習得することによって国語力を上げることができた」というほうがかなっているように思えます。たとえば、「全否定と部分否定の違い」とか「普通名詞と物質名詞の違い」とか「必要条件と十分条件」などの項目は「国語力」の上昇に役立っています。いずれにしても学力のこの因果連鎖のなかに「国語力」は登場しても「国語科の学力」は登場しないように思えます。

「大学への国語力」のうち、とりわけ重要なのは「大学・学部学科専攻を選ぶための国語力」です。これなくしては、「大学講義の準備としての国語力」などは成立しないからです。とは言え、「大学・学部学科専攻を選ぶ能力」とは実質的には「大卒程度の能力」である、と独断的に断定できるので、結局は「大学講義の準備としての国語力」のことを想定することになります。そういうわけでスローガン的に言えば「狭く深く」ではなくて「広く浅く」学ぶことができる能力になります。あるいは「広く浅く」学んだことから帰結する能力になります。それらが「大卒程度の力」の前提だからです。のみならず「広く浅く」学ぶことのほうが、「狭く深く」学ぶより難しいのです。たとえば語学やスポーツや楽器の技能で類推すれば筆者の言わんとすることはわかると思います。二つの言語をネイティブレベルに到達させるよりも、十の言語について初級レベルにすべて到達させるほうが難しい、という事態のことです。いずれにせよ「国語力」について考えるとき、その達成目標を以上のように設定しておくことは決定的に重要です。

なぜ「大学への国語学」はありえないのか

「国語学」にはさまざまな代表的な文法理論があります。橋本文法のほかに、時枝文法や山田文法や松下文法や…があります。一方、中学校の「国語科」では「橋本文法」のみを正しいものとして教え込みます。しかも橋本文法であることをいっさい明示せずに、教えます。もちろん「なぜ橋本文法なのか」も教えません。中学の国語科を学んでも、自分が学んだことの「位置づけ」も「理由」もわからないわけです。そういうわけなので、「数ある文法理論のうち橋本文法を特に教える」ということを国語科が明示しないうちは、「大学で行なう国語学の研究」の準備科目としての位置は与えられないと思います。理由ぬきで橋本文法を教えるなら、「理由ぬきで橋本文法を教える」と明示して教えるべきです。そのように明示すれば、国語学の準備科目としての位置づけは可能です。しかしもちろん現実にはそんな明示が行なわれるはずはないのです。

また上記の事情により、「国語学」を専攻した人にとっては、中学で日本語文法(いわゆる学校文法)を教えるよりは、高校生に古文を教える方が魅力的な選択肢だったりします。その方が自由度が高く、専門性を生かせるからです。

なぜ「大学への国語科」はありえないのか

一つめの事情は、「国語学」だけが日本語文法を研究しているわけではない、ということがあります。「日本語学」では、三上文法や寺村文法といった文法理論の存在を前提にした研究が行なわれています。さて、日本語学を専攻した人も制度的には「国語科」の教員になることは可能かもしれません。しかし「橋本文法を排他的に教える」科目の教員になることは、自分が大学で専攻した学問を否定することになりかねません。ですから、日本語学を学んだ人が国語科の教員になることは、実質的にはほぼありえません。よしんば国語科の教員になったとしても、日本語学に依拠した内容を国語科で教えることは通常できません。このように、「日本語学」を専攻した者が「国語科」の教員集団から実質的に排除されているのなら、国語科が「大学・学部学科専攻を選ぶための国語力」のためには役立たないことはあまりにも明らかです。いくら学んでも、「国語学と日本語学のどちらを専攻したいか」の問いには答えられない教科内容だからです。なお、現在「国語学」は「日本語学」と学会レベルで「合併」し、「国語学」もまた「日本語学」を名乗るようになってきているので、これらの事情が一般人には非常に見えにくく、訴えにくいものになってもいます。

二つめの事情は、文法以外の日本語能力のうち、国語科が責任があるのは「漢字力」だけだからです。ただし、「漢字」が専門である中国文学の専攻者は、国語科の教員になっても主に担当するのは「漢文」になることでしょう。そのほうが専門性を生かせるからです。そしてそれ以外である、「単語力」とか「言語行為能力」に関しては、それを得意分野とする大卒者が国語科の教員にはなれないようになっているのです。言語学なら英語科教員でしょうし、言語哲学や論理学や日常言語の哲学や、言語心理学や会話分析の専攻者は、社会科(公民など)の教員にしかなれません。また公民の教員になったところで、専攻した学問のことを生徒に伝える機会はほぼ皆無です。さてそこで厄介なのは、「単語力」の専門家(コトバノイミの専門家)が国語科教員になることができない、というだけではありません。「言葉の意味・用法はその語源や由来を重視すべきである」という主義主張と「国語科」という教科が結託している、という問題点もあるのです。だからつまり国語科では、「現在はこういうふうに使われている」という事実を軽視しがちな態度が形成されます。もちろん国語学そのものは言語を歴史的に研究する学問なので、それでいいのです。しかし、主に国語学の専攻者にのみ排他的に担当させる教育制度によって、「単語」や「言語行為」における「現在の用法」は無視・蔑視されがちになることは否めないのです。そして、この態度が「大学・学部学科専攻を選ぶ能力」の養成のためには、決定的に妨害要因になります。

専門分野が異なれば、同じ単語を研究者が使っていてもその用法が異なっていることはしばしばです。また、専門家と素人とが、同じ単語を使っていてもその用法が異なっていることはしばしばです。だから、「専攻分野を選ぶための国語力」の中の中核部分に「相手の語用規則を見極める能力」が不可欠になります。そもそも学術的な専門用語にせよ、一般的な漢字語の多くにせよ、明治以降の「発明品」です。つまり、もともと日本に無かった欧米由来の概念を漢字を用いてなんとか表わそうという苦肉の策から生まれたわけです。そういうタイプの単語力を「単語の語源」や「漢字の字源」を用いて理解しようというのは、唯一の方法でないのは当然として、最上の策でもありません。あくまで補助手段でしかありません。たとえば「科学」という単語を理解するために「科」+「学」に分解して理解するのは、補助手段でしかありません。「親切」という単語ならなおさらでしょう。あるいは、ラグビーの選手がサッカーのルールを理解しようとして「蹴鞠」などを持ち出す必要はありません。そういうのは補助でいいのです。むしろ、ラグビーのルールとサッカーのルールを等価に眺める視点こそが必要です。ところがそういう態度を形成するのに役立つ学問分野の専攻者は、英語科か社会科の教員にしかなれないことが多いというわけです。したがってむしろ、「サッカーを理解するために蹴鞠を持ち出す」発想や「科学という語を理解するために『科+学』というふうに見る」発想の方が形成されやすくなるのです。

国語科という教科は、ニュートラルな教科や学問ではありません。むしろ日本語の運用を「語源や由来」に遡って理解し、また現代の運用に対して規範的な評価を下すという姿勢を形成する「偏った」教科だと言えます。少なくともそういう側面があるということは理解しておいて良いことです。そして、これは「大学への国語力」という達成目標のためには、プラスにならない側面なのです。

「大学への国語科」がありえない三つめの事情は、書く・話すといった「発文」する能力のほうが形成されにくいことです(「発文」は筆者の造語です)。どういうことでしょう。もちろん日本語文法の学習に関する偏りという先述の事情もありますが、他にもあります。それは国語科では「わかりやすい日本語」に接する機会が乏しいことです。というのは、「読む」学習のほうでは、「読解力を必要とする」文章ばかりを扱うからです。なぜならそうでないと試験問題や教材にならない(と考えられている)からです。だから、「現代文」や小中の「国語科」で、「読みやすくわかりやすく、したがって設問や読解など不要である文章」などにはまずお目にかかれないわけです。ところが、大学での「レポートの書き方」のような授業では「読みやすくわかりやすい文章を書け」と突然言われるわけです。まずい料理ばかり食べさせられていた子供が「おいしい料理を作れ」という授業を受けさせられるようなものです。これはつまり、もし小中高でレポートの書き方という単元を国語科が担当したら、その教師は「まずい料理を食べさせ」る一方で「おいしい料理を作れと命じ」ることにもなる、ということです。二枚舌やダブルスタンダードになりかねないのです。これが小中高で書く能力(や話す能力)が形成されにくい事情です。だから、「書く能力」は大学の担当になり、その教育の担当者も国語科と縁のない人、とりわけ理系的な人になりがちなのです。

「大学への国語科」がありえない四つめの事情は、国語科教員の有資格者のなかに「現代文の専門家」が居ないも同然、ということにあります。これは「現代文」という教科設定にトリックがあるからです。センター試験の「現代文」を考えてみましょう。一題は小説、一題は論説文であることでしょう。「現代文の専門家」が居ないというのは、つまり「小説と論説文をカバーできる専門家」が居ない、ということです。「小説と論説文」を両方とも「現代文」の守備範囲にしてしまい両方を必ず担当させることにトリックがある、というわけです。こんなことには無理があるので、兼任になることが予想できます。「小説(文学理論など)の専門家が論説文も担当する」か、あるいはその反対か、です。そして言うまでもなく、実際に世の中で普及しているのは「小説(文学理論など)の専門家が論説文を解説する」という事態のほうです。なぜそうなのかは、種々の理由があると思いますが、最大の理由は「論説文の専門家は誰なのか」についてのコンセンサスが無いことでしょう。どちらかと言えば、「論説文一般」の専門家は居ないに近い、と言って良いくらいです。だから、小説の専門家が論説文を解説するのは、素人芸になりやすいと言えます。ただしある時期までは、「論説文≒文芸評論」だったので、そのことが不問にふされてきただけのだと言えます。ついでに言えば、入試問題の論説文は、誰が出題しているか不明なので、出題する側もまた素人である可能性が充分考えられます。だからそういうわけで、論説文や説明文といったジャンルは、他教科に比べて、よほど素人の占める割合の高い、専門性の低い教科になりやすいと言えます。「素人が出題して素人が解説する」わけです。ただしとりわけ予備校の現代文教師は「入試現代文の専門家」という変な専門家ではあるでしょう。そして、比較的こういうジャンルに強い学問の多くはやはり、学校教育では国語科教員にはあまりなれずに、英語科か社会科の教員にしか門戸が開かれていないのでありました。たとえば『論理トレーニング』の著者が学校の国語科教員になって「論説文」を生徒に解説する、ということは教育制度上ありえないのです。

さて、上で「論説文」に関して述べたことは、入試「小論文」にあてはまるでしょうか。まず解説する側の素人性という点では、現代文以上だろうと推察はできます。一方、出題する側は一定以上専門家が出題していることでしょう。つまり、出題する側は自分の得意分野を出題すればいいのだから気楽だし、解説する側は素人だからこれまたある意味気楽だ、というわけです。もしそこに問題点があるとすれば、解説する側の素人性を否定しようとするときでしょう。「小論文一般の専門家」とは「文章の書き方の専門家」にほかならない、と強弁し、その上あろうことか「文章の書き方の専門家→国語科教員」である、とさらなる強弁をするなら、そこに問題が生じます。ただ「小論文」という教科や単元が教育制度的に存在する、というわけではなく、これは単なる入試科目にすぎません。ですから公教育の「国語科」教員に「小論文」の解説責任が回ってくることはおそらく少ないとは思えます。予備校や民間事業の「国語関係者」が自身の事業領域を広げようとして「小論文一般」に手を出そうとしたときに生じやすい問題だと言えます。

国語教育を改革しようとしても無駄である

国語教育を改革して「大学への国語力」を高めようとしても無駄です。国語教育を改革しようとすれば、集まってくるのはたいてい国語科教員の有資格者か、予備校の現代文教師です。有資格者が恣意的/作為的に限定されているというその状態こそが改革したい当のものであるのだから、国語教育を改革しようという試みはまったく無駄です。そのことを知らしめるためには、したがって「国語教育を改革する」と思わせるタイトルを付けることこそが必要です。そういうタイトルに惹かれて集まってくる人に対して「そんなの無意味だ」と言わなければ、事態は一歩も進まないからです。だからこのコンテンツは「大学への国語力」という誤解を招きやすいタイトルにしています。