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以下は、初出の文章をリライトしています。

「発文動詞」という分類のやや希薄な存在意義

「ほめる」「命じる」「論じる」といったタイプの動詞群を「発文動詞」と仮に呼んでみましょう。ただし「発文」自体が筆者の造語であり、何か言語らしきものを発すること一般を指すことにしています。さて、このグループの特徴は音声言語であっても文字言語であっても使うことができる動詞群ということにあります。だから「話しかける」とか「署名する」のような語群とは異なるグループに分類する、ということになります。こちらは聴覚言語か視覚言語のいずれかに特化しているからです。そして、次の論点ですが「発文動詞」は何かしらの言語を必ず随伴するもの、としておきます。ということは「怒る」とか「なだめる」とか「妨げる」といった動詞群と、その点で区別するわけです。「怒る」「なだめる」「妨げる」は言語を発している場合も発していない場合も使うことができる動詞だからです。言葉を使った行為でも言葉を使わない行為でも可能なのです。だから仮に「発文可能動詞」とは名づけることができるでしょう。

さて、

  1. 言語を必ず随伴する「ほめる」「命じる」「論じる」などの「ふつうの発文動詞」
  2. 音声か文字か片方にのみ特化した「書き込む」「話しかける」などの「特定型発文動詞」
  3. 言語を用いても用いてなくても適用しうる「怒る」「なだめる」「妨げる」などの「発文可能動詞」
…と上記を読むと、いろいろと不自然な分類であるという印象をもつのではないかと思います。その印象はおそらく正しいので、それを以下解明してみましょう。

まず、二番目の「特定系発文動詞」に比較して「ふつうの発文動詞」は、不特定動作動詞の特徴を備えており、不特定動作動詞の一種である、という分類になっていることがいえます。「ほめる」ときにとる「動作」は口をパクパクさせることもあれば、キーボードで打鍵することもあるでしょう。また、それらに付加して「相手の頭をなでる」動作を随伴させることもありえます。いずれにせよ、「ほめる」ことに固有の動作や姿勢というものはありません。その点で、「話しかける」や「書き込む」という動作よりは、不特定動作動詞の特徴を確実に備えています。

注意すべきは次の点です。すなわち、「命じる」ことがそのまま同時に「話しかける」にもなっていたり、「ほめる」ことがそのまま「書く」ことにもなっている、という関係がありうる、という点です。つまり、「話しかける」や「書き込む」はどちらかというと身体動作によってその場面を代表している表現なのに対し、「ほめる」「命じる」は身体動作とは別の観点でその場面を代表している表現だと言えます。着目している次元が異なる、とでも言えるでしょうか。

さて問題は、三番目の「発文可能動詞」と一番目の「ふつうの発文動詞」の違いです。ここに厳密な線引きをすることに積極的な意義があるのかどうかです。筆者の印象は、ここへの厳密な線引きにはさほど強い意義はない、というものになります。というのは、どちらの動詞であっても、原初の意義というのは「あの人はああ述べることによって何をしたのだろうか?」という当惑だったり、推論だったりするからです。このとき「必ず発文する動詞」と「発文するときにも使用可能な動詞」とでの区別にはあまり意義がありません。どちらであっても「はじめに誰かの言葉ありき」という点は同じだからです。

「発文可能動詞」と「ふつうの発文動詞」との間にきっぱりとした区別を導入したくなるのは、おそらく「すでに起こってしまって確定した出来事」を理解しようとする場面でです。このとき、「言語」と「非言語」とは截然と分離可能であり、特に「言語部分」に照準して出来事を解釈しよう、という、そういう場面において、この区分が登場しうるのです。より正確に言えば、「言語の分析」に特化した「発文動詞」というグループを特に想定する意義が出てくるのです。反対に、「これから起こること」や「今起こりつつあること」に対処する場面では、この区分には全く意義が無いように思えます。今は言語として現実化している出来事が、いつ他の身体動作に転換していくかは、わからないからです。というか、それは往々にして自分自身の対応にかかっている側面もあるからです。ようするに未来は不確定であり、そのため進行形の現実の出来事に対処するときには、あまり意義が無さそうなのです。同じことが発文する側にも言えます。発文する側にとっても、文を発することに特化した行為をとるか、そうでないときも可能な行為をとるか、という区分にはあまり意義がありません。身体動作や顔の表情呈示を一切封じられ言論のみによって何かを達成しなくてはいけない場面でもなければ、あまり出てこないだろう区分だからです。

不特定動作動詞というなんだか膨大なグループがあり、それを事後的に分類するときに登場するという程度の存在意義なのかもしれません。ただし事後的な分類なので、後付けで理解しやすいということは言えます。不特定動作動詞のなかには、発文行為に適用することができる動詞があり、さらに発文行為に限定して適用される動詞もある、という話なわけです。

たとえば次のような場合、この分類に意義が感じられることと思います。それは「相手にこたえる」というフレーズを書くとき「相手に応える」なのかそれとも「相手に答える」なのか、表記を決めようという場合です。「相手に応える」だとどうも間違っている気がして「やっぱり“答える”が正しいだろう」と感じる時がもしあれば、そのときにはふつうの発文動詞を発文可能動詞から区別しようという意義が感じられていると言えます。むろん「答える」がふつうの発文動詞で、「応える」がやや希薄ながら「発文可能動詞」あるいはたんなる「不特定動作動詞」なわけです。

「発文動詞」の難しさ

相手の発文行為を理解しようというとき、原初的には「感情」「表情」に関連したカテゴリーで相手や事態を理解することになるとおそらく思われます。「今起こっていることは恐怖を感じるべきことなのか?それとも安心を感じるべきことなのか?」とか「相手は怒っているのか?それとも喜んでいるのか?」といった把握の仕方です。

その次に登場する把握カテゴリーは「自分は何をするべきか?」といったことに関連したカテゴリーです。「相手の発話は自分に向けたものなのか?そして自分は応答して良いのか、あるいはそもそも応答しなくてはいけないのか?」とか「今対応するべきなのは自分なのか?それとも隣にいるAさんなのか?」とか「今話題は転換したのか?していないのか?」とかそういったタイプの一群の把握の仕方です。そこに登場する行為をどういう動詞で表現するか、という以前にもっと大まかな状況把握が必要である、というわけです。

そういった大まかな事態を細かく適切に指示できる動詞が常に存在するとは限りません。それよりは「話題を転換する」とか「(相手を)促す」「(相手を)止める」「(相手に)対応する」といった大まかな不特定動作動詞のほうが発文行為理解のために必要だったりします。先にも述べたとおりたとえば、発文行為から、身体動作的な行為に転じたりしえます。あるいは意図的行為から、生理的な反応といったものに転じたりしえます。このようにコミュニケーション的な出来事というのは安定した様相を見せるとは限らないものです。

「発文動詞」のようなものが特に要請されやすいのは、「言っている内容とやっている行為とで異なる」ように見える場面を理解するときです。たとえば「どうしてそんなに時間がかかるかな」という発文は、文意だけ見ると疑問文のようにも見えますが、多くの場合「疑問を呈示する」という行為が行なわれているわけではありません。たいていの場合は「非難する」や「抗議する」といった行為がその発文で行なわれているわけです。ただし、こういったときに、言語の内容と言語行為の間に、一対一の対応一覧表のようなものが作成できるわけではありません。慣用的なものなら暫定的に作成できるでしょうが、発文行為では必ず「通常の用法を逆手にとった用法」というものが可能になるため、真に悉皆的な「一覧表」は原理的に作成不可能です。たとえば「ありがとう」という発文なら必ず「感謝する」という行為であるとは限らず、その用法を逆手にとった言語行為がいくらでも可能です。そういうことが全般的に言えるのです。

「発文動詞」の習得はどのようになっているか

こういったタイプの言語行為は間接的発話行為などと呼ばれることもあります。ある種の障碍のある人や幼児にはこれが理解・習得しづらい、という指摘もあります。それを鑑みれば、発文動詞の「習得」という認知発達のプロセスというものが存在し、多くの人はいつの間にか一定程度の習熟を遂げている、ということになると言えます。たいがいの場合、それは十分条件を習得していることになるでしょう。すなわち「こういう場面は『批判する』としか呼べない、たとえば『非難する』ではおかしい」というような「習得」ではなくして、「こういう場面は『批判する』と呼ぶこともできる」とでもいうような「習得」こそを積み重ねていって習熟していくことが多いのだと思われます。

ここで、発文動詞と発文可能動詞とが明確な区分がしにくくその意義がない、ということが積極的な意義につながります。つまりそうであるからこそ、発文動詞を発文可能動詞と結び付けて理解する、という方途があるわけです。発文可能動詞とは不特定動作動詞なので、動作や姿勢といった形で現実化します。そのなかでも、典型的で記号化したような「動作」や「姿勢」というものがあります。たとえば「攻撃する」だったら「相手を殴る」とか、「妨げる」だったら「通せんぼの恰好をして立ちはだかる」とか…といったようなものです。そして発文動詞はたいがいそれとある程度置き換え可能な「発文可能動詞」をもっています。たとえば「批判する」だったら「攻撃する」と置き換え可能です(ただし「攻撃」ではない「批判」もあり、たとえば「検討」などと置き換え可能です)。あるいは「諫める」だったら「妨げる」と置き換え可能です。このようにして、可視化しづらい発文動詞を、「記号化した身体動作」に置き換えていくことで、理解がしやすくなります。万全の理解でもなければ、必要十分な理解でもないですけど、当座はそれで充分です。そしてほとんどの場合それで「習得」は完了だと言って良いほどです。

また、言語行為という出来事は、漫画化してしまえば発文の箇所は「吹き出し」という疑似的な物体になりますから、その物体を取り扱う身体動作として理解可能になります。たとえば「批判する」という動詞を、「吹き出し」を拡大鏡で眺めたりそのあとハンマーで殴ったり、といった身体動作として置き換えることで、ある程度の理解ができるようになります。あるいは、相手に答える行為を「吹き出しに対して矢印を発する動作」として可視化することで、ある程度の理解をすることができます。

これらは実際に多くの人がたどっている「習得プロセス」というよりは、その可能性の提示です。実際にそう理解しているかは定かではないけど、そういう理解が可能な以上、習得も可能だろう、というわけです。ただそこでは「なぜ『非難』ではなく『批判』なのだ」というほどの精密な理解が目指されているわけではないし、その必要もありません。またしばしば、言語行為を精密に把握するための簡潔な動詞表現が存在しないこともあるのです。

なおこの論法でいくと、発文可能動詞である不特定動作動詞は「典型的・記号的な動作・姿勢」によって理解されていることになります。ですが、だからといって不特定動作動詞全般にそれが妥当する必要まではありません。不特定動作動詞のなかには、典型的・記号的な動作や姿勢に置き換えることである程度の理解ができるものもあり、したがって発文可能動詞の中にもそういうものがある、という程度のことが言えれば充分です。そうでない場合、発文場面での自分や相手の「感情」を把握することを手がかりにして理解したり、発文内容を「吹き出しという物体」化して図解的に理解する方途もあるからです。