古い書評:戸田山和久『科学哲学の冒険―サイエンスの目的と方法をさぐる』:役に立つ科学哲学がちっとも普及しない事情

科学哲学や論理学は個人として身につけておくとたいへん役に立つ知であります。しかし、にもかかわらず日本ではこの知がちっとも普及しません。だから「人とつながる」ためには総じて役に立ちません。その事情について書いていこうと思います。

科学哲学(や論理学)が普及しないことは、経営学とのビミョーな関係にあらわれています。科学哲学での「演繹」と、経営学流ロジカルシンキングでの「演繹」とは、その定義や重点がはっきりと異なるのです。科学哲学での「演繹」とは「前提が正しければ結論も必ず正しくなる」推論のことです。そして「帰納」はまずもって「前提が正しければ結論も正しくなるとは言えない」推論の一種です。他方、経営学流の「演繹」とは「総論から各論を導出する」推論のことです。そして「帰納」は、「各論から総論を導出する」推論のことです。科学哲学と経営学とではこのように、定義で重点が置かれている箇所が異なるのです。だからいったん「伝言ゲーム」が開始されると、しまいにはまったく異なる概念になってしまいます。なぜこういう違いがあるのでしょうか。

このことと関係あるものとして、次の事柄も注目したいと思います。科学哲学では、「現象論的法則」と「基本法則」との違いに注目した議論があります。「現象論的法則は疑わしくないけど、基本法則は大いに疑わしい」というものです。「現象論的法則」の例として、本書では、ケプラーの法則や落体の法則、ボイル=シャルルの法則などを挙げています。それに対して、「基本法則」の例としては、ニュートンの二つの法則(おそらく慣性の法則と運動の法則)やマクスウェルの方程式が挙げられています。ところが、多くの人がおそらくこの区別にピンと来ないだろうと思われるのです。このことはどういった事情に基づくものでしょうか。

わたしは大学受験の合格体験記で昔読んだインタビュー記事を思い出しました。数学や物理の入試問題で解けない問題なんてありえない、と豪語している談話でした。その人によると大学受験の物理の出題というのは、「ニュートンの法則やマクスウェルの法則を微積分すれば必ず解ける」ものなのだそうです。つまり、現象論的法則は基本法則から演繹できる、自動的・機械的に解ける、ということのようです。だから「基本法則」さえ「わかって」いれば解けるということが、その人の言いたいことのようでした。入試レベルでこういう人は一握りです。その予備軍のようなレベルだって全国トップクラスのほうでしょう。もちろん理系での話でです。つまり、理系のトップクラスの物理選択者であれば、「現象論的法則と基本法則の違い」という議論に接したとき、「ああ、そうか」というふうに、言わんとすることが通じる、というわけなのです。反対に、物理など見たことも聞いたこともないし、手を出そうとも思わない、という人が「現象論的法則と基本法則」と聞いたところで、特に「基本法則」についてピンと来ないはずだ、と推察できます。基本法則というのは、実験や観測によって得られる法則ではまったく無い、からです。

先の話題に戻ります。科学哲学・論理学では、演繹とは「前提が正しければ結論も必ず正しい」推論だと定義します。この定義を聞いて、ピンと来る人とそうでない人との違いはどこにあるでしょうか。この定義は明らかに(だと思うのですが)幾何学を猛烈に意識しています。通常、中学校で学習する幾何学はエウクレイデス(ユークリッド)幾何学です。そして、それだけが「正しい」幾何学というわけではない、ことをある種の人びとは知っています。つまり、定義や公理の箇所(特に平行線公理)を入れ替えて、まったく異なる前提を有する、整合性の高い幾何学の体系を作ることができる、ということをある種の人々は知っています。幾何学というのは、言うなれば「約束事」です。現実に合致した記述なのではなく、「そういうことにしておこう」という単なる取り決めです。だから、前提が変われば、結論も変わりえます。平行線公理を採用した幾何学もあれば、そうではない幾何学だってあるわけです。幾何学は現実に合致した記述というわけではないがゆえに、前提が正しければ結論も必ず正しいという推論によってのみ厳格に進められなければ、成立しません。この事態は数学全般に言えることだと思いますが、とりわけ幾何学に鮮明に表れています。科学哲学や論理学での「演繹の定義」を聞いたとき、まず思い浮かぶのにふさわしいのが、「幾何学での推論」なのです。

ここで「伝統芸能」という変な言葉をわたしは使いたいと思います。大学受験において理系選択の人、あるいはそれに伍し得る学力のある人というのは、いわば西洋の「伝統芸能」保持者のような存在なのです。ユークリッド幾何学と古典力学・電磁気学にある程度知悉しており、したがってその限界というものも説明されればじゅうぶん理解可能だからです。おそらくこれにあとキリスト教や神話の素養が加われば、立派な西洋文化の継承者たりうるでしょう。まあそれはともかく、科学哲学や論理学といった学問が、何よりもその「伝統芸能」の継承線上にある、ということが理解される必要があります。そのことが「演繹の定義」や「現象論的法則と基本法則の違いについての議論」にまずは表れているわけなのです。

経営学流のロジカルシンキングは、おそらく「伝統文化の継承」ということにはあまり関心がない流派なのかもしれません。しかし日本で普及しているのは、圧倒的にこちらの知であります。当分のあいだは、知られないまま棲み分けており、気付いたら科学哲学・論理学を駆逐してしまっているかも知れません。経営学だけならいいのですが、これにあと「国語の先生」という、西洋の伝統芸能から最も遠い存在の人たちが、「小中の教育現場」において、論理学ではなく修辞学に基づく「論理めいた内容」を生徒に注入してもいるからです。彼らは「これまで太陽はずっと東から昇ってきた、したがって明日も太陽は東から昇るだろう」という帰納的推論を「論理的ではない」とは言いたがらないだろう存在なのです。むしろそういうのこそ「論理的」と形容したくてしようがない存在なのです。しかしこういう帰納的推論はこの本ででもそうですが、科学哲学的・論理学的には「全然論理的じゃない」のです。ここに乖離があります。

もちろん、とりわけ中学校の数学の授業のしかたにも、問題点が山積しているのかもしれません。「数学というものを単なる約束事ではなく、現実を説明する数理科学にしなくてはならない」と考える良心的な数学教育のかたがたも、ことによると「伝統の断絶」に手を貸しているかもしれません。文科省の数理教育の姿勢ももちろん大きいと思います。まさか彼らが「幾何学」を「現実と遊離した単なる約束事の集積」として教えたがっているとは思われないからです。そして彼らもまた、「したがって明日も太陽は東から昇る」という推論を「論理的ではない」とは言いたがらない存在だろうと思われます。

ここまで、科学哲学がいかにして普及しないか、の自説を述べてみました。で、ここから科学哲学がいかに役立つか、の自説を軽く述べてみたいと思います。

戸田山氏の上掲書を何度か読むと、実は少々議論が浅いように思えてきます。これは戸田山氏の責任というよりは、科学哲学領域全体の問題だと思います。ところが、にもかかわらず科学哲学が役に立つとわたしは言いたいのです。それは、科学に関する言葉がきちんと整備されているからです。この状況というのは、議論によって解決をはかろうとする姿勢からの、立派な副産物だと言えます。

科学哲学や論理学は西洋文化の「伝統芸能」保持者的存在であるがゆえに、各種の論点や概念がきちんと整備されており、それらにはたいていすでに名前が与えられています。この本は、自然科学(自然や人工物の科学)しか扱っていません。たとえば「なぜ彼らは他人のお茶を遠慮なく飲むのか」といった、人間の行動についての科学は扱っていません。ですが、この本で提示された概念や論点は、そういった「人間の科学」について道具立てを考えるときにも、まったくもって役立ちます。概念や議論にあらかじめ名前がついていれば、圧倒的に議論の効率は良くなるからです。ただし、人間の行動についての科学を扱うときには、本書の「観察可能性」の議論では圧倒的に不足です。そこは、自然科学とは違う点なので、もっと独自につきつめる必要があるでしょう。

困ったことに、「人間の科学」をおこなう研究者の、たぶん半数以上は「いわゆる文系」です。つまり、ユークリッド幾何学はまだいいとして、古典物理学からは相当に疎外された存在です。そのため、科学哲学上の議論を体感的には理解できない可能性が高く、したがって(となってしまいますが)科学の方法一般についての議論のスキルもまた、往々にして低くなってしまいがちです。いわゆる「文系」の学問における「科学方法論」は一部を除けば、非常に未熟なレベルにあります(知らないけど断定しちゃいます)。専門家がまずそのレベルに過ぎないことが多いのです。そのため、探求の「対象」についての理解は深くても、その探求の「方法」に関してはきわめて素朴だったり直観的すぎたりすることがままあります。「なぜ彼らは他人のお茶を遠慮なく飲むのか」の探求を行なう人が、本書を手に取り読み、有益な知見を獲得することもまた難しくなってしまいがちです。

この本の著者は、教駒高→東大理1ですし、さきの大学受験生にいたっては、灘高→東大理3です。どうしても、科学哲学や論理学には、こういう学歴レベルでの排他性が伴います。西洋の伝統文化を継承するのもなかなか大変なわけです。同じ理由ですが、文系の学問であってもしばしばそのトップクラスの人は、大学受験時理系であったことが少なくありません(特に哲学)。どうしてもそういうことになってしまうのです。文系の学問の半分くらいは、学問の体裁を整えるため物理学や幾何学に模範を仰ぎ、それに近づけようとして邁進してきたからです。この本は「なぜ彼らは他人のお茶を遠慮なく飲むのか」というタイプの科学をやる人にも、個人としては役立ちます。でも、その知見が、同業者や指導教員や上司(の大学教授)に共有されるという保証はあまり無いのです。

この本のなかでは「むしろ理系の学生が志が低い」という趣旨の批評も述べられていました。しかし、科学哲学の議論は、残念ながら「志の高い文系」の人よりは「志の低い理系」の人のほうが理解しやすい、とそのことは声を大にして強調しておきたいと思います。科学哲学が「自然科学・工学の哲学」である限りは、あるいは古典物理の一部を「文理問わず必須」にしない限りは、そうなってしまうのです。ついでに言っておけば「能率的な微分方程式の解き方」を教師に尋ねるのはたしかに志が低いかもしれませんが、「能率的な微分方程式の解き方を開発してやろう」と自力で追求する人はむしろかなり志が高いとも言えます。