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最終更新:20170502

ある程度定まった著作者のスタンス等を、まとめて知ってもらうためのページです。、少しずつ更新してコンテンツを増やしていきます。また、旧作であっても随時通知なく書き換えを行なっています。

注意している論点

論者の立場や系統によって使用規則の異なる代表的な語に関して、概観をしておきます。

収録語一覧

「理由」/「原因」

人文学における「理由」「原因」の使い分けと、日常語における使い分けとでは、その基準が異なっている。人文学系の研究者でも、読者が日常的な使い分けの影響を受けていることを考慮して書くこともある。そのため、この人文学的な使い分けはあまり強く主張されないことが多いようだ。なので、筆者もまたしばしばこの使い分けを曖昧にしてはいる。その代わり、「理由」/「原因」と類比的な多くの概念ペアが使われることがある。そして、それらの概念のペアがトータルとなって、一つの大きな対比を形成しているようにも思える。

「理由」や「原因」というのは、いずれも、出来事を説明するときに用いられる主要な語である。非常に雑駁に言えば、当事者がコントロールできるものは「理由」であり、コントロールできないものは「原因」である、そしてそこにコントロールの主体が存在しないと思える場合にもやはり「原因」の語を用いる。出来事の生起がなぜなのかを問われたときに、当事者がコントロールできるものを挙げて説明すればそれを「理由」と呼び、コントロールできないものを挙げて説明すればそれを「原因」と呼ぶ、というわけだ。あるいは、当事者が居ない場合や、特定できない場合に、その出来事の生起を説明する場合もその変数を「原因」と呼ぶわけだ。

学術的な領域の少なくとも一部では、こういった区分に匹敵する物事の見方をもっている。また、この区分と連動したような様々な区分をもっている。たとえば、「理由」に対しては「行為」「規則」などが連動し、それと対照的になるようにして「原因」に対しては「行動(または反応)」「法則」などが連動する。

ところが日常的には、「理由」と「原因」の区別はまったく異なった基準でなされている。それは、説明される生起した出来事の「望ましさ」に相関している。日常的な言語規則としては「望ましい出来事の説明に“原因”を使うことができない」というものになる。説明する出来事を「望ましいもの」と見なしているか否かが、区分の基準になるわけであり、それは話者・筆者の出来事への態度・姿勢を明らかにせよ、という規範でもあるだろう。なので、たとえば「オリンピックで○○選手が優勝した原因」という言い方は、通常許容されがたいということになる。つまりその場合、その優勝が望ましくない出来事である、という発信者の態度表明であると受け取られることになる。そういうわけで、この場合は、「原因」ではなく「理由」や「要因」「勝因」などの別の語が該てられることになる。同様のことは「行為」にも言える。「行為」ならばその多くは相手を非難・糾弾する場面であり、そうでない場合であっても儀礼的な表彰などの場面に限定される。なので、相手をふつうに称賛したい場合は、「行動」の方を使うことが多くなる。

それとは別に、次のような傾向も緩やかになら観察できるように思う。それは「理由」は何であれ望ましいものでなければならない、という傾向である。そうすると、とりわけ当事者が自身の行為・行動を正当化しようとするときに、用語法のねじれが生じる可能性もある。たとえば電車の遅れによって遅刻したとする。そのとき、電車の遅れがコントロール不可能な要因であるかどうかは議論の余地があるが、当人はコントロール不可能であると認識していたとしよう。そうすると、人文学的には「電車の遅れという原因によって遅刻した。」という言い方になる。ところが、他方、「電車の遅れという理由によって遅刻した。」という言い方もまた日常的に違和感なく通用する。それは「理由」は何であれ望ましいものでなければならない、という規範と相関している。たとえば「途中でゲームセンターに寄り道したから遅刻した。」というのは「理由」とするには全く望ましくない。つまり「そんなの理由にならない!」と判定される可能性が高い。それに比べれば「電車の遅れ」はまだしも「望ましさ」が上回っている。なので、「電車の遅れという理由により遅刻した。」は通用しやすい。人文学的にはコントロール不可能なもののほうが原因であり、可能なものが理由であるわけだが、日常的にはコントロール可能なほうが望ましくない事柄であることが多いため、「そんなの理由にならない」と言われ得る一方で、コントロール不可能なもののほうこそが「理由」として述べやすい。

西洋発祥の学問では「「人間」と「人間以外」とを区別すべし」という規範が大変強固であり、先に述べたような人文学等での区分もそれと大いに関係があるだろう。つまり西洋で人間を差別する際には「あれは人間ではない」という形をとろうとする。それに対して、西洋語の訳語としてスタートしたり、最初から独自の漢語として発達をとげている日本の語は、同じ形をしていてもその使い分けの基準は時に全く異なっている。それは「仲間内かそれともよそ者か」という区分だったり、「儒教的規範に適っているか否か」だったりするだろう。つまり、「同じ人間」という見方を排し、「人間の中に差をつけよ」ということであるだろう。なんにせよ、「中立的」であることを良しとしない、とでも言えるような文化圏であり言語圏であるようだ。

そういうわけなので、人文学を中心とする学術的な文章に接するときに、「理由」「原因」「行為」「行動」「規則」「法則」「信念」「知識」「人格」「信頼」「論理的」「思考」などなどの語に遭遇したとき、日常的な語感に張り付いている規範的・価値的・態度表明的な含みを取っ払って読むことが、本当に重要となる。日本語で学問をするということの意味の多くは、その脱日常的な語感をいったん(仮にであっても)身につけることなのではないか、と思えるほどである。

なお、一般人のなかでは、原因の説明や把握を「論理的な」という形容で呼ぶことが時にある。これは学術的にはかなり意表をつく傾向であると言える。この場合の原因もまた人文学的な「コントロール不能」によって規定されたほうの原因であり、日常的な意味で「理由」と示差的に使われる「原因」のことではない。

「流れに棹さす」

文化庁の調査によると、この諺の意味を誤解している人が、正確に理解している人の倍以上いる、ということになっている。そして、誤解の意味内容は正解の意味内容のほぼ正反対である。アンケートでの項目だと「誤解」は「傾向に逆らって、ある事柄の勢いを失わせるような行為をする」であり、「正解」は「傾向に乗って、ある事柄の勢いを増すような行為をする」である。ただし「流れに棹さす」はあまりにも話題になるため、少しずつ「誤解」率が減ってきているほうではある。このような関係にある語句は他にもいろいろあるだろう。「正反対」とまでは言えなくとも、ある場合には、A用法はB用法の否定関係になるくらいのことならいくらでもある。ここで問題にしているものも多くはそれだ。さて、こういう状況での「国語力」「語彙力」というものがどういうものなのか、なのである。筆者の信念としては、もはや「流れに棹さす」を正しく知って使っているというだけの状態の人の「国語力」はあまり高くない、というものなのだ。誤解している相手のほうが倍近くいる表現である。ならば、誤解している相手に、自分の用法をわからせ、誤解者の用法とは違うということをかなりはっきりわからせるような使い方をせねばなるまい。つまり「誤解しているほうが悪い」という態度であり相手の誤解を温存するような使用法なら、それは「国語力が低い」と言いたいのである。ただし文化庁の調査は「流れに棹さす」を実際に使っている者に限定しておこなった調査ではおそらくない。なので、実際にこの表現を使っている人に限定して調査した場合、正解している人のほうが多いはずだ。つまり、誤った使い方をする人によって誤った理解が伝播していく、という連鎖はまだあまり働いていない語である。それだけ、ここに挙げた他の語よりはだいぶましな状態にある、というふうにも筆者は思っている。6割近い者が「誤解」しているにもかかわらず、その多数派のほうが「誤解」であると認定して良いのも、その辺に理由がある。もし「実際に当該語を使っている者のうち6割が間違っている」というような語で、その6割の方を「誤解」と呼ぶとしたら、そこにはだいぶ困難が待っているはずだ。

「パラドックス」(/「逆説」)

国語辞典で「パラドックス」を引くと、「→逆説」となっており「逆説」の項目で「パラドックス」を説明しようとする辞典もあれば、「パラドックス」で独立した項目を設定している辞典もある。後者で「あ、こりゃダメだ」と思うようなものは無かったが、その一方で、前者には当たり外れがあった。なので、「パラドックス」に馴染みの無いという方は、「パラドックス」で独立した項目を設定している国語辞典を探して引いてみるのが、良い。「パラドックス」は何よりもまず専門用語であり、日常語として使う場合でも専門的な用法が踏まえられていることが多い。筆者が見たことがあるのは、「東大受験生がセンター試験対策をあまり一生懸命やると、総学力が低下してしまうので、むしろセンター試験の点数も下がるというパラドックスが起こる」というようなものであった。これはまるきり典型というわけではないが、しかし正しい使い方だ。一方で、「あ、こりゃダメだ」と思うような辞典の説明は、「あ、きっとこの人パラドックスの例を挙げてみよ、って言ったら一つも挙げられないだろう、またはその内容を正しく理解していないだろう、という気がする」ものなのである。その例として、たとえば岩波『広辞苑』第六版(amazon)にはこうある。

ぎゃくせつ【逆説】(paradox)
衆人の受容している通説、一般に真理と認められるものに反する説。「貧しき者は幸いである」の類。また、「真理に反対しているようであるが、よく吟味すれば真理である説。「急がば回れ」「負けるが勝ち」の類。パラドックス。(後略)

「あ、こりゃダメだ」の典型である。「説」であるという時点で、まずかなりダメそうである。パラドックスは誰かが恣意的に述べることのできる「説」という形をとっていない。世界の中にある構造や関係を「発見」したものという形をとっている。そして、挙げられている事例を正しく解説しているようにも思えない。たとえば「急がば回れ」の説明として「真理に反対しているようであるが、よく吟味すれば真理である説」というのが適切な説明とは思われない。まして、この説明が、有名なパラドックスに適用できるとは到底思われない。「反する」「反対する」を説明に用いているものは、だいたいダメな説明になりやすい。「逆説を弄する」という表現がある以上、「逆説」の解説ならば、「反する」そして「説」を用いなければならないことがある。しかし「パラドックス」の解説ならば、ダメだ。

中山元『高校生のための評論キーワード100』(amazon)も読者を誤誘導するダメな解説である。この本は「演繹」の解説もダメだったし、何か良いところがあるのかどうかが疑問になる。p078。

逆説(パラドックス)
逆説は、ふつうの考え方(ドクサ)に反する(パラ)議論のことだ。あることを主張する命題(*196ページ)とそれに反する命題が両立しているように見えて、その論理的な誤謬を指摘できないときに、逆説が生まれる。

この著者の場合、完全に間違っているというよりは、ある程度正しい説明と読者を誤解に導く説明とが混然一体となっていて、だからよろしくない、ということになる。つまり説明が「ブレて」いる。最初の一文目は完全に読者を誤解に導く最悪の説明である。これは語源ではあっても、パラドックスの定義ではない。二文目はまあまあであり、このままのペースで解説をすれば良いのだが、そうはならない。

ぼくたちはこの社会の中で生まれ、育ってきた。だからぼくたちには社会の無意識がたっぷり詰まっている。それだけに社会の思い込み(ドクサ)に知らないうちに毒されてもいるのだ。だからときには逆説で思考することを試してみよう。自明と思われることを否定してみる。そしてもっと別の考え方がないかどうか調べてみるのだ。

結局また「パラドックスとは通説に反する」ものである、という定義に準じたような自説をただ述べ立てている。パラドックスの理解にはまったく有害無益である。と思ったら、その次には突然少しまともなことを言う。

逆説は一見すると矛盾したことを言う。

これはわりとまともな記述であろう。…と、このように説明しようとしている対象をある場合には「通説に反したもの」と規定し、別の場合には「矛盾の外観をもつもの」と規定してみたり、と、説明の軸がブレまくっている点でこの本の説明はまったく良くないのである。

三省堂『新明解国語辞典』第七版(amazon)はちゃんとしていた。「辞書でひけばそれで済む」というくらいの多数派の読者にはこのくらいがちょうど良いと思う。

パラドックス[paradox]
一見成り立つように思える言語表現などが、それ自体に矛盾した内容を含んでいて、論理的には成り立たないこと。また、その種の判断。「貼紙厳禁」と書かれた貼紙や、「わたしはうそしかつかない」という表現の類。[広義では逆説をも指す]

この説明ならば、初心者がこれで済ませても問題ないだろうし、この先、もう少し専門的な定義を哲学事典などで学んでも、学習の妨げにはならないだろう。ただし、挙げてある例が「言語表現と言語表現とが矛盾しあっている例」ではないので、その点は改善の余地がある。挙げてある例は、「言語表現の内容と言語表現の行為とが矛盾しあっている」例と言える。また「新明解」のこの解説だと、何の専門用語なのかがわからない。パラドックスは、たいていの場合は、哲学・論理学・数学の専門用語であり、有名なパラドックスもそれらの分野のものが多い。そのことくらいは書いておいても良かったと思う。ただし、社会学等にも因果関係上のパラドックスがあるし、諺や日常的な現象にもそれに類した構造を指摘すること自体はまあできる。

念のため、専門的な事典でも確認しておく。まず知泉書館『哲学中辞典』(amazon)から。執筆は植村恒一郎(有名人)。

パラドックス [英]paradox
パラドクスとは、ギリシャ語の「ドクサ(常識)」と「パラ(外れて)」から合成された語で、常識にかなう認めざるをえない前提から、常識はずれの認めることのできない結論が導かれることを言う。あるいはまた、基本的な真理と思われるものが互いに対立する規定を受け取る「アンティノミー」も、広義のパラドクスとされることがある。(中略)この他にも多数のパラドクスが知られているが、いずれも単なる詭弁ではなく、人間の認識と言語の基礎的な事態に根をもつと考えられている。

つぎは講談社『事典 哲学の木』(amazon)から。見開き2ページ以上の解説の最初だけを引用する。執筆は一ノ瀬正樹(有名人)。

paradox パラドックス
パラドックス(paradox)とは、「思い」(ドクサ、ギリシャ文字は略)を「外れて」(パラ、ギリシャ文字は略)というギリシア語の語源からも明らかなように、思考の亀裂を意味する。正しい道を歩んでいたはずなのに、いつの間にか深く逃れがたい谷間に陥ってしまったという、そんな思考状況のことである。それゆえ、ある考え方を反駁するとき、その考え方がパラドックスに陥ることを示すのはひとつの有効な手法である。けれど、パラドックスは決してネガティブな役割を果たすだけではない。健康の意味が病気を通じて自覚されるように、人間の思考の本性を理解するのにパラドックスは格好の手掛かりとなりうるのである。そうした効用を担うパラドックスは、具体的には、次の三つのステップからなる。すなわち、(1)ごくまともな前提から、(2)ごくまともな推論に従った結果、(3)全然まともでない結論が導かれる、という三つのステップである。よって、パラドックスの亀裂を修復し、思考の健康を取り戻すには、まずは三つのどれかに病原が潜んでいることを暴き出せばよいことになろう。亀裂がある病気の状態が本来的なのだ、という悪魔的な誘惑の声にとらわれない限りは。

以上見て来たのは哲学事典のしかもさわり程度の箇所ではあるが、それでも正確な理解の糸口にはなる。典型的なパラドックスというのは、何よりもまず「推論」の形をしているのである。ところで、最後に社会学のパラドックスを一瞥しておく。筆者もまったく素人であるしこの箇所しかこの本は見ていないが、たまたま目についた次の箇所を紹介だけしておく。『パラドックスの社会学』パワーアップ版(1998,新曜社)(amazon)のp33-34。

さてここまでは、哲学的な意味でのパラドックスとそれに関連する社会学の問題を紹介してきたわけだが、ここからは社会学独特の逆説的な命題をみていくことにしよう。

哲学的パラドックスと社会学的パラドックスの大きなちがいは、前者があくまでも論理のうえで生じる不整合の問題であるのに対して、後者は現実の社会生活のなかで生じてくる逆説的現象をつくものであるという点にある。社会学が好んで逆説的に発想しようとするのは、たんにそれがスタイルとして気がきいているからではなくて、現実の社会そのものがパラドキシカルな性格をもっているからなのである。

さて、それに関連してもう一つのべておきたいことがある。これまでにあげたパラドックスはほとんど因果性という観念なしに成立しうるが、いまからのべるパラドックスの多くは、なんらかの因果関係を媒介にしてパラドックスが出現してくるという特徴をもっている。つまりパラドックスには、同一時点・同一状況内に複数の相互に否定しあう要素が存在している状態と、時間の経過のなかで必然的な因果連鎖をたどって、当初の要素が自己を否定するような状態をつくりだしていく現象との二種類があるわけで、前者は状態性パラドックス、後者は因果性パラドックスとでもよぶことができよう。

「因果関係の媒介」とは、たとえばこういうことである。風邪をなおしてもらうために病院にいく。すると病院には悪性の風邪ひきがうようよいて、ながいながい待ち時間ずっと彼らと接触せざるをえないために、当初よりも悪性の風邪にかかってしまったとしよう。この場合、「風邪をなおす」と「風邪が悪化する」という論理的に矛盾する二つの状態は、同一時点、同一状況のなかで成立しているのではない。「風邪をなおしたい→病院にいく→病院で風邪をもらう→風邪が悪化する」というほとんど必然的な因果連鎖をたどって、「風邪をなおそうとしたために風邪が悪化する」というパラドックスが出現しているのである。

「必然」という語の使い方はけっこう気になる表現だし、あまり「逆説」という語を連呼するのも良くないが、そこに目をつむれば、こういった社会学的なパラドックスは、哲学や数学のものよりは理解しやすく、また日常的にパラドックスと呼ばれがちなものにより近い。パラドックスを表現している諺と言われがちなものもこのタイプが多い。「急がば回れ」などだ。一般人が理解しやすいパラドックスは因果関係に関するもののほうなので、この種の解説も少しはあると良いと思う。

「論理的」

「論理的」という語は大別して4通りくらいの使い方があるのではないかと思う。そのうち、論理学に関係あるのはおもに3つで、あとの1通りは論理学とは何の関係も無い。そして、多くの分野の学者も含めて、多くの人が何の断りも無く使う「論理的」とは、たいていはこの論理学無関係の「論理的」であり、小中高あたりの教師や学習産業などが教育目標の表現として多用する。だからつまり例によってだが、「論理的」もまた、人生の初期に最初にしっかり刷り込まれてしまうのは、日常的用法というか非学術的用法のほうである。

4つの用法を説明する前に、興味深い現象を指摘する。それは、論理学を踏まえない非学術的・日常的な「論理的」を使う人ほどその使い方は自信満々というか、自分は注釈なく使いそれで通じなければ相手のほうが悪い、という態度であることだ。つまり自身の使う「論理的」をいちいち説明しない場合が大変多い。それに反して、特に論理学を踏まえて「論理」や「論理的」「論理性」などの語を使う者は、自身の用法だけでなく、「日常的」な用法、「世間」での用法についても意識的であり、事前に解説してくれることが多い。つまりたとえば、大森荘蔵も沢田允茂も永井均も野矢茂樹も戸田山和久も…まだいたと思うが、英米系哲学に親和的なそういった哲学者たちは、「世間で使われている論理的というのはこれこれこうだ。それに対して論理学や哲学での論理的とはぽれぽれぽうだ」などときちんと事前説明してくれることが多い。なので、その態度だけで、哲学者の言う「論理的」のほうにしよう、と思ってしまうほどである。日常的な用法が無条件には是認できないと筆者が感じる原因も、それが学術的な用法と齟齬を来すというものだけではない。何よりまず、そもそも自身の使う「論理的」が誰にでも通じるものだと決めてかかって使うその態度のほうにあるのだ。

では行く。1つめ。論理学を踏まえない「世間」の用法はこれである。「論理的とは理由をちゃんと述べることである」。つまり「だから」とか「したがって」とか「なぜなら」といった接続詞や接続助詞などを用いて、自身の主張を述べることや他人の説明を理解することを「論理的」と呼ぶことが、世間での主流である。とりわけ小中学校あたりは全部これであると言ってよい。ただし「ちゃんと」というところが曲者ではある。この場合、論理学的に正しいことを求めているのではなく、理由の部分が正しいこともまた求めており、論理学的に「前提が正しければ結論も正しい」という形になっていることよりも、端的に前提と結論が正しいことこそを求めている。特に、「道徳的に正しい」ことを求めている。ただその際に「理由の接続詞を使え」ということなのだ。だから「論理的であるという能力がある」というのは、議論や主張において、相手を説得できる適切な根拠を持ち出す能力ということにもなる。さてもう一つ重要な点、それはこの使い方は論理学を踏まえていないだけでなく、哲学一般を踏まえていない。なので、理由と原因とを区別しない。つまり理由をちゃんと述べるだけでなく、原因をちゃんと述べるのでも良いというわけだ。理由と原因の相違については、これまた少し込み入っているので、別途説明しないと筆者の主旨は読者に通じていないであろう。ともかく、理由をきちんと述べたり理解することも、原因をきちんと述べたり把握することも、どちらも等しく「論理的」と呼ぶのが主流の用法である。なぜなら、どちらも「理由の接続詞を使う」からである。だからたとえば「歴史科で或る歴史的事実を別の歴史的事実の原因として把握すること」などが「論理的に理解している」と言われることにもなる。

2つめ。「論理学を踏まえた」用法のうち1つは「○○語は(非)論理的である」というタイプのものであり、言語体系について論じたり評価を下すときに使われる「論理的」という語がある。これは要はおそらくある言語体系に「論理学的な記述をする性能」があるかないか、ということを話題にしようとしているのであろう。その際、伝統論理学が「主語/述語」構造を重視していることから、「主語」を使わないでも文が成立する日本語が果たして論理的であるか、いや非論理的ではないだろうか、といったタイプの問題意識が、日本が欧米の仲間入りをしようと願っていた時代にずいぶんと意識されてきた、ということではないかと思う。筆者は言語体系の話題はまったくわからないので、この用法は深入りできないし、しない。「主語」という概念についての扱いもよくわからないので、保留しておきたい。

3つめ。論理学に由来するし論理学に密着した形の「論理的」がある。いわく前提や結論が事実的・道徳的に正しいかどうか、とかはどうでも良くて、「前提が正しければ結論も必ず正しい」という論理形式になっているものを「論理的に正しい」、そうでないものを「論理的に誤っている」と呼び、命題一つ一つの真偽や正邪にはあまり関わらないというわけだ。そしてこの立場からすると帰納法などはまったく論理的に正しくない。「昨日は太陽が東から昇った。おとといも太陽が東から昇った。その前の日も太陽が東から昇った。…(中略)。だから永遠に太陽は東から昇る。」などという推論は論理学的にはもちろん正しくない、そして別に論理学を持ち出さなくても正しくない、と感じる読者も多いはずだ。だがこの「永遠に」とか「すべての」「必ず」ということが自然科学の法則ではいちいち書かれていないだけで、ほんとうは書いてあるも同然なわけだから、全称命題の形をした自然科学の法則は皆、論理学的に正しくない仕方で導かれたことになる。ただいちいち「永遠に万有引力の法則は成り立つ」とか言われていないのでそのことに気づいていないだけである。論理学的な書き方はそのことに気づきやすくなるとは言える。

4つめ。論理学を踏まえたうえで、それをも含み込むように、高次の仕方で日常言語の論理性を評価する「論理的」の用法がある。たとえば野矢茂樹『新版 論理トレーニング』(2006,産業図書)がその立場を体現する書籍の一例である。さてこの書にも書かれていたと思うが論理性はいわゆる「論理語」だけでなく、言語使用全般に通用する概念である。つまりたとえばこうだ。「魚は水中を泳ぐ。マグロは魚だ。したがって、マグロは水中を泳ぐ。」。この推断は、3つめの用法で記述すると「論理的に正しい」推断である、ということになる。この事態を、4つめの用法だと「理解可能な推断である。たとえば“したがって”の用法が理解可能な仕方で使われているから、全体も理解可能である」ということになる。つまり、4つめの「論理的」というのは、「文や語が理解可能な仕方で使われている」ということを意味することになる。論理学の正しい推論というのは、論理語が理解可能な仕方で使われている推論のことである、ということなのだ。同様にして、「昨日は太陽が東から昇った。おとといも太陽が東から昇った。その前の日も太陽が東から昇った。…(中略)。だから永遠に太陽は東から昇る。」というのは、4つめの用法だと「理解可能ではない」推断だということになる。というのも、「だから」という箇所が理解可能でないからである。あるいは「永遠に」の箇所が理解可能でないからである。このように、3つめの用法だと「誤った推論」とされるものが、4つめの用法だと「理解可能でない文」というふうに評価されることになり、論理学の推論以外のあらゆる言語使用に適用することができるようになる。特に最近の哲学者などはこの用法を見据えて「論理的」と使っている者が多いのではないだろうか。そもそも「世間の人が使う論理的とはこれこれこう。それに対して論理学が使う論理的とはぽれぽれぽう」などと説明する能力や姿勢があること自体がこの4つめの言う「論理的」な態度を身につけていることの表われなのである。 なお、ここで言う「理解可能」というのは、あくまで文や語そのものであって、相手の意図や心情の理解のことではないし、かなり文字通りに相手の言っている内容だと思った方が良い。つまり、相手の「言わんとすること」というよりは「文字通り相手の言っている内容」のことである。

この4つめの意味での「論理的」に準じた場合、1つめの用法と共存できる可能性がある。「昨日は太陽が東から昇った。おとといも太陽が東から昇った。その前の日も太陽が東から昇った。…(中略)。だから永遠に太陽は東から昇る。」というのは、4つめの意味では非論理的だ。しかし、「昨日は太陽が東から昇った。おとといも太陽が東から昇った。その前の日も太陽が東から昇った。…(中略)。だからこれからも太陽は東から昇る確率が高い。」などと言えば、むしろ論理的だ。「だから」の意味も、「確率が高い」の意味も理解できるからだ。そういうわけで、枚挙的帰納法や仮説演繹法、アブダクション、アナロジーなども、「必ず」「すべての」「永遠に」などという修辞を取り払い、「確率が高い」「かもしれない」などと云い直せば、4つめの意味でも「論理的」でありうるわけだ。そして1つめの意味で論理的であることは言うまでもない。証拠に基づいて推論することや、仮説を提示すること、などを「非論理的」と哲学者が形容する必要も、その結論の述べ方に注意すれば無くなるわけだ。

さてしかし、最後に確認しておきたいのは、そもそも「論理」「論理的」「論理性」といった語自体が、特定の場面にしか現れないことである。ほとんどの場合、それは論理学の説明を初心者にするときか、そうでなければ教師が生徒を評価する場面、あるいはその派生形として教師が自身の教育目標や成果報告を業務として第三者に説明し、あるいは学習書や教育産業が広告などで教育目標を宣伝として用いる場面なのである。そして、論理学から離れるにつれて、その適用基準が曖昧になるにつれて、「単なる(二次的)評価語」になっていく。つまり、起こっている事柄を記述する概念というよりは、単に自身の態度表明・価値表明をする単語になっていく。いずれにせよ、対等の立場で用いられることは少なく、たいていは一方的に誰かが誰かを評価する場面、相手にばかり説明を求め自分は相手に説明しないという場面、で多く用いられる。だからだと思うが、「あなたの言う論理的というのがよくわからない」「あなたは非論理的だというが、私は論理的だと思う」などという言い合いがほとんど起こらない、使っても誰もツッコミを入れない、そして「非論理的である」と指摘されるとたいていの者は頭に血がのぼる、というそういう単語であり、それらの現象自体が解明される課題なのではないかと筆者は思う。

筆者の憶測を述べておけば、日常的なあるいは学校的な「論理的」という語の用法の淵源はおそらく、「合理的」が日常的に使いづらいという状況にある。rationalやreasonableを表すような「合理的」は、日本においては「経済合理的」の意味合いにほぼ自動的に等値される。つまり、「時間やお金を無駄なく使うこと」の意味合いだと無条件に解釈されてしまう。あるいは、人文系の人ならば馴染みのあるだろう「合理性」という語も「理解可能性」や「理に適っている」ことの意味であるわけだが、それも非人文的な相手だとたぶん通じない。つまり、「合理性」というのもまた、「無駄を省いた効率的なあり方」の意味合いで自動的に解釈されることが多いはずだ。なので、日常的あるいは学校的な意味での「論理的」の代りに用いることが可能なはずの「合理的」という語を使うことがきわめて難しい。そのこともあっての「論理的」の全盛であり、この原因が除去されない限り「論理学的では全く無い論理的」の用法が衰退することは無いであろう、と予想できる。

なお「演繹」定義の伝言ゲームも参照する方が良い。こちらでは、日常的・学校的な「論理的」の今一つの淵源として「帰納法こそが論理的である」というフレーズを言い募りたいがために、論理学否定型の「論理的」が普及している、という仮説を述べている。

「演繹」(/「帰納」)

「演繹」定義の伝言ゲームを参照のこと。

「言語」(/「言葉」)

「人間の行為の所産の一種」という意味内容で「言語」を使う人と、「諸言語のうちのどれか(またはすべて)」として「言語」を使う人とが、いる。

前者の場合、行為ではなくたんなる生理的反応による叫び声とか、あるいは鸚鵡のモノマネとか、そういったものは言語ではない、と前提している。そのうえでそれらとの対比で人間の意図的行為の所産としての「言語」という項を取り上げるといった事になる。このタイプの「言語」という概念が有用なのは、一つには、人間の他の行為と言語行為とを比較することがしやすいという事情もあるだろう。筆者も多くの場合でこちらの用法である。

後者の「諸言語のうちのいくつか」での諸言語とは、要するに、日本語であるとか英語であるとか、あるいは、〇〇地方の方言であるとか、種々の分類による、そういった世界全体で話されている言語体系のことである。そして、その分類や分類項どうしの比較に重点があるときや前提が置かれているときに用いられる。

この二つの用法のあいだで、何らかの噛み合わなさや不整合があるかどうかはわからない。しかし、次の項目との複合作用で何か誤解が生じる可能性はあるように思う。だからいちばん最初に挙げた(初出時)。

ところで石原千秋は『評論入門のための高校入試国語』(2005,日本放送出版協会)で次のように述べている。p103.

最後に注釈を加えておくと、「言葉」は一つ一つの単語のことだが、「言語」はフランス語とかドイツ語のように、ある国家や民族と結び付いた言語体系のことを言うので、使い方を間違えないように。

しかし、この主張が当てはまるのは、石原千秋の属する文学研究や、彼が好んで言及する言語学の領域周辺だけであろう。他の分野ではそのような「言葉」と「言語」の区別など特にしていない。又もし、「言葉」が一つ一つの単語を指し「言語」が言語体系のことを指すと規定した場合、単語レベルでも言語体系レベルでもなく、文や発話や文章のまとまりなどを指す適切な概念が見当たらなくなる。だからこの区別は一部の領域でしか使われないであろう。しかしそれでも「言葉」と「言語」の使い分けをしている領域があること、その領域の人が国語科を担当しがちであることは知っておいて良い。次の項目にも関連している可能性がある。

「話しことば/書きことば」

筆者の観察では、この語句には二つの用法が並立している。一つは「実際に話されたことば/実際に書かれたことば」というペアである。もう一つは「話すためのことば/書くためのことば」というペアである。そしてこの二つの用法が並存していることが問題視されていないだけではなく、下手をすると同一人物が二つの用法を混在させて使っていることもあるように見受けられる。

確認しておく。この二つの用法は、平気な顔をして並存できる用法ではない。たとえば文字の書籍として出版された小説の中の登場人物のセリフはどちらになるのか、という問題があるだろう。前者の用法では「書きことば」である。というのはそのセリフは文字で書かれて印刷されているし、著者も当然それを想定しているからである。他方、後者の用法では「話しことば」であることが多い。というのは、そのセリフというのはたいがい(演説や授業ではなくて)会話であるし、そうであれば文法的におかしな箇所や省略があったり、(当時の)流行語や若者言葉や俗語を使っていたり、会話のときに使われがちな終助詞を使っていたりするからである。このように二つの用法が競合するときがあるため、無条件に並存できるというわけにはいかないのだ。

同様にして、実際に話された会話の音声を、議事録として書き起こしたり、学術的な分析のためのトランスクリプションに起こしたものも、また前者の用法だとあくまで「書きことば」であって、「話しことば」そのものではない。あくまで「話しことば」を「書きことば」に変換したものである。この適用のしかたが奇異に見えるとすれば、それは後者の用法が混入しているからにほかならない。

前者の用法が事実を記述する用法であり、学術的に使われがちなのに対して、後者の用法は、価値的な評価を随伴しているのも重要な特徴である。しかもそれは決まって「話しことば→良くない/書きことば→良い」というタイプのものである。小中高大といった教育機関で文章を書く課題に対する評価として使われることが多い。「作文やレポートを書くとき、児童・生徒・学生がつい話しことばで書いてしまう」という紋切型がその代表である。そういう否定的評価を下すときに「話しことば」という語がしばしば使われる。

で、ここで注意したいのは、「話しことば/書きことば」というこのペアを使いたがる人というのは、先に引用した「“言語”と“言葉”とは違う。区別せよ」というあの規範が流通している言語・文学領域やその影響を受けやすい「国語教育」領域の人が、どうもなんだか多い印象なのである。そのせいかどうかわからないが、先の二つの用法の混同も生じやすいように思う。「ことば」である以上「単語」レベルの話をしているという気になるので、「実際に話されたことば」の意味だったものが、単語や語句のレベルの指摘になってしまう(言語ではなく言葉なのでそうなる)。そういう次第で「話すための単語」のような用法にすり替わってしまうのかもしれない。ともあれ筆者自身は、その領域と接点をもつまで「話しことば/書きことば」という語句自体にまったく馴染みが無かった。だからつまり筆者には疎遠な語句ではある。ただともかく、同一人物が先のような二用法を混在して平気な顔をしているようだったら、それは咎めて良い、とだけは言っても良いと思う。

筆者が使うのはこのペアではなく「音声言語/文字言語」という対比である。ただし、この「言語」という使い方には文学・言語学・国語科関係の人のなかには違和感を感じる人もいるだろう。それはもう仕方がない。

ところでもう一つ。「書く」だの「話す」だのと名前についているので誤解が生じうる。しかし要は音声か文字かということであり、「一方通行か双方向か」とか、「送り手の交代があるかないか(つまり独演か否か)」とか、「対面的であるかそうでないか」とか、そういう事柄はなんら本質的ではない。というかそれはそれでそれにふさわしい名前を付けて議論をすればよろしい。そういう意味でも音声言語/文字言語という名前のほうが誤解は少ないと思う。