サイト但書

最終更新:20170320

ある程度定まった著作者のスタンス等を、まとめて知ってもらうためのページです。、少しずつ更新してコンテンツを増やしていきます。また、旧作であっても随時通知なく書き換えを行なっています。

注意している論点

論者の立場や系統によって使用規則の異なる代表的な語に関して、概観をしておきます。

収録語一覧

「言語」(/「言葉」)

「人間の行為の所産の一種」という意味内容で「言語」を使う人と、「諸言語のうちのどれか(またはすべて)」として「言語」を使う人とが、いる。

前者の場合、行為ではなくたんなる生理的反応による叫び声とか、あるいは鸚鵡のモノマネとか、そういったものは言語ではない、と前提している。そのうえでそれらとの対比で人間の意図的行為の所産としての「言語」という項を取り上げるといった事になる。このタイプの「言語」という概念が有用なのは、一つには、人間の他の行為と言語行為とを比較することがしやすいという事情もあるだろう。筆者も多くの場合でこちらの用法である。

後者の「諸言語のうちのいくつか」での諸言語とは、要するに、日本語であるとか英語であるとか、あるいは、〇〇地方の方言であるとか、種々の分類による、そういった世界全体で話されている言語体系のことである。そして、その分類や分類項どうしの比較に重点があるときや前提が置かれているときに用いられる。

この二つの用法のあいだで、何らかの噛み合わなさや不整合があるかどうかはわからない。しかし、次の項目との複合作用で何か誤解が生じる可能性はあるように思う。だからいちばん最初に挙げた(初出時)。

ところで石原千秋は『評論入門のための高校入試国語』(2005,日本放送出版協会)で次のように述べている。p103.

最後に注釈を加えておくと、「言葉」は一つ一つの単語のことだが、「言語」はフランス語とかドイツ語のように、ある国家や民族と結び付いた言語体系のことを言うので、使い方を間違えないように。

しかし、この主張が当てはまるのは、石原千秋の属する文学研究や、彼が好んで言及する言語学の領域周辺だけであろう。他の分野ではそのような「言葉」と「言語」の区別など特にしていない。又もし、「言葉」が一つ一つの単語を指し「言語」が言語体系のことを指すと規定した場合、単語レベルでも言語体系レベルでもなく、文や発話や文章のまとまりなどを指す適切な概念が見当たらなくなる。だからこの区別は一部の領域でしか使われないであろう。しかしそれでも「言葉」と「言語」の使い分けをしている領域があること、その領域の人が国語科を担当しがちであることは知っておいて良い。次の項目にも関連している可能性がある。

「話しことば/書きことば」

筆者の観察では、この語句には二つの用法が並立している。一つは「実際に話されたことば/実際に書かれたことば」というペアである。もう一つは「話すためのことば/書くためのことば」というペアである。そしてこの二つの用法が並存していることが問題視されていないだけではなく、下手をすると同一人物が二つの用法を混在させて使っていることもあるように見受けられる。

確認しておく。この二つの用法は、平気な顔をして並存できる用法ではない。たとえば文字の書籍として出版された小説の中の登場人物のセリフはどちらになるのか、という問題があるだろう。前者の用法では「書きことば」である。というのはそのセリフは文字で書かれて印刷されているし、著者も当然それを想定しているからである。他方、後者の用法では「話しことば」であることが多い。というのは、そのセリフというのはたいがい(演説や授業ではなくて)会話であるし、そうであれば文法的におかしな箇所や省略があったり、(当時の)流行語や若者言葉や俗語を使っていたり、会話のときに使われがちな終助詞を使っていたりするからである。このように二つの用法が競合するときがあるため、無条件に並存できるというわけにはいかないのだ。

同様にして、実際に話された会話の音声を、議事録として書き起こしたり、学術的な分析のためのトランスクリプションに起こしたものも、また前者の用法だとあくまで「書きことば」であって、「話しことば」そのものではない。あくまで「話しことば」を「書きことば」に変換したものである。この適用のしかたが奇異に見えるとすれば、それは後者の用法が混入しているからにほかならない。

前者の用法が事実を記述する用法であり、学術的に使われがちなのに対して、後者の用法は、価値的な評価を随伴しているのも重要な特徴である。しかもそれは決まって「話しことば→良くない/書きことば→良い」というタイプのものである。小中高大といった教育機関で文章を書く課題に対する評価として使われることが多い。「作文やレポートを書くとき、児童・生徒・学生がつい話しことばで書いてしまう」という紋切型がその代表である。そういう否定的評価を下すときに「話しことば」という語がしばしば使われる。

で、ここで注意したいのは、「話しことば/書きことば」というこのペアを使いたがる人というのは、先に引用した「“言語”と“言葉”とは違う。区別せよ」というあの規範が流通している言語・文学領域やその影響を受けやすい「国語教育」領域の人が、どうもなんだか多い印象なのである。そのせいかどうかわからないが、先の二つの用法の混同も生じやすいように思う。「ことば」である以上「単語」レベルの話をしているという気になるので、「実際に話されたことば」の意味だったものが、単語や語句のレベルの指摘になってしまう(言語ではなく言葉なのでそうなる)。そういう次第で「話すための単語」のような用法にすり替わってしまうのかもしれない。ともあれ筆者自身は、その領域と接点をもつまで「話しことば/書きことば」という語句自体にまったく馴染みが無かった。だからつまり筆者には疎遠な語句ではある。ただともかく、同一人物が先のような二用法を混在して平気な顔をしているようだったら、それは咎めて良い、とだけは言っても良いと思う。

筆者が使うのはこのペアではなく「音声言語/文字言語」という対比である。ただし、この「言語」という使い方には文学・言語学・国語科関係の人のなかには違和感を感じる人もいるだろう。それはもう仕方がない。

ところでもう一つ。「書く」だの「話す」だのと名前についているので誤解が生じうる。しかし要は音声か文字かということであり、「一方通行か双方向か」とか、「送り手の交代があるかないか(つまり独演か否か)」とか、「対面的であるかそうでないか」とか、そういう事柄はなんら本質的ではない。というかそれはそれでそれにふさわしい名前を付けて議論をすればよろしい。そういう意味でも音声言語/文字言語という名前のほうが誤解は少ないと思う。